たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

YOASOBI『優しい彗星』と川端康成『雪国』の類似性について

 YOASOBIの「優しい彗星」の中に『雪国』を感じたのでそれについて書く。


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今、静かな夜の中で無計画に車を走らせた

実に印象的な冒頭だ。この短い文の中に物語がある。

車を運転する時、普通は目的地がある。

しかし、今回は「無計画に」走らせる。

テンションが高まって暴走しているわけではない。

「静かな夜の中」なのである。

いったい何があったのか。車はどこへ向かっていくのか。

そういった想像を喚起する一節である。

 

ここに『雪国』を感じる。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

夜の底が白くなった。

共通点は乗り物に乗っていることだ。

乗り物に乗っている人(から見た景色)にフォーカスする描写には、考えてみると面白さがある。

というのも、カメラは一人の人物を捉えている。

その人物はじっとしている。

にも関わらず、背景は動いている。動いているから空間に広がりが出る。

そこに静と動の、点と空間のコントラストが生まれる。

しかも、夜だから空間の果てが見えない。

広大で揺動する世界の中で、ぽつねんと存在する個人が浮かび上がってくる。

 

再び「優しい彗星」に戻る。

左隣、あなたの横顔を月が照らした

(以下、句点がない文が「優しい彗星」、句点がある文が『雪国』からの引用である。)

運転手以外に、もうひとりの人物が存在することが語られる。

乗り物の中というシチュエーションにおいて、極めて重要なアイテムがだ。

もし乗り物に窓がなければ、その乗り物は単なる密室でしかない。

乗り物の中でじっと座っている人物と、揺れ動く世界を繋ぐものが窓なのだ。

外に広がる世界が、中にいる人物と窓を介してなんらかの繋がりを得る瞬間。

そこにはなんともいえない叙情性がある。

そのことを美しく描いている『雪国』の中の文章が次である。

鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

※鏡とは、車窓のこと。主人公の島村は、窓に写った女性(葉子)を眺めている。

※顫えた=震えた

 

ただ、思い出を探る様に

辿る様に言葉を繋ぎ合わせれば

どうしようもなく溢れてくる

日々の記憶

あてもなく走る車に乗る二人は、語り合ううちに思い出が蘇ってくる。

『雪国』は主人公・島村の泊まる宿に日々、駒子という芸者が通ってくるという形で交流が進む。

その中で、駒子の過去に島村は触れていく。

過去を振り返るのはほぼ確実に何らかの感情を伴う行為である。

だから過去を語るというのはそれ自体エモいのだ。

加えて、今から意識を離すことで、時間的な広がりを作品の中に生み出す機能も果たしている。

 

あなたのそばで生きると決めたその日から

少しずつ変わり始めた世界

(中略)

深い深い暗闇の中で出会い共に過ごしてきた類のない日々

心地よかった

いや幸せだった

たしかにほら救われたんだよあなたに

出会いが人を変える。

良くなかった人生が少しでもマシなものになれば、それは特別な出会いになる。

『雪国』では、出会いによって人生が好転しているか疑問だけれども、駒子の暗い人生に一つの慰みが到来したことはたしかだ。

 

ふぁずかな光を捉えて輝いたのは

まるで流れ星のような涙

不器用な命から流れてこぼれ落ちた美しい涙

別れの瞬間は切ないものだ。

切ないからこそ、それはのような美しさを放つ。

『雪国』も星の描写で最後の一文を飾っている。

踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。

 

強く大きな体に秘めた優しさも

どこか苦しげなその顔も

愛しく思うんだ

見た目と内面にギャップがあることが人物の性格をより浮き彫りにする。

粗野なライオンたちの中にいる知的で穏やかなイブキは分かりやすい。

『雪国』の駒子は、一人のか弱い女性が見た目どおりにか弱い存在として描かれている。

だが、その態度は哀れみを覚えさせるものではなく、あっけらかんとしている。

このギャップに触れた一文を『雪国』から引用する。

駒子の肌は洗いたてのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

 

無情に響く銃声が夜を引き裂く

別れの息吹が襲いかかる

刹那に輝いた無慈悲な流れ星

祈りはただ届かずに消えた

この、手の中で燃え尽きた金色の優しい彗星を

美しいたてがみを暗闇の中握りしめた

ここまで過去を懐かしみながら、今の美しい情景を歌ってきた。

それが暴力的な結末を迎える。

死から免れた登場人物は、暴力の残骸をただただ抱きしめる。

『雪国』でもこれは同様だ。

ラストは唐突に繭倉が炎上し、その中から葉子が落下する。

葉子を駒子が抱きしめながら叫んで終幕する。

水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。

時間的にも空間的にも広がりを得ていた世界が、一人の登場人物の腕の中に収束していく。

そんなようにも見える。

 

いかがだろうか。

ここまで符合するかという驚きがある。

もちろん登場人物の関係性はまるで違うし、ayase氏や板垣巴留氏が『雪国』をモチーフにしたとは考えづらい。

ということは、魅力的な物語を作ろうとした結果、二つの物語が似たような要素を持つに至ったということか。

両者の共通項を眺めることで、作品の美しさの源泉が見えてくる気がする。

 

「優しい彗星」はTHE FIRST TAKEバージョンも良い。


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以前、雪国について述べた記事。

weatheredwithyou.hatenablog.com

 

週刊少年ジャンプに学ぶ成功法則

 あなたは日本で一番売れている漫画雑誌をご存知でしょうか。

 そう、週刊少年ジャンプです。

 では、それが具体的にどのくらいの売上かはご存知でしょうか?

 こちらのサイトにランキングが載っています。

コミック2020年度年間掲載誌ランキング – 書籍ランキングデータベースニュース

 これによると、2020年度の上位三誌の実績が以下のとおりです。

  1. 週刊少年ジャンプ  125,022,278
  2. 週刊少年マガジン    19,431,288
  3. 週刊ヤングジャンプ   10,690,199

 2位であるマガジンの6倍以上。頭ひとつ抜けているとはこのことですね。

 

 では、個別のコミックスではどうかといえば、2021年の売上ランキングは以下のとおり。

  1. 呪術廻戦
  2. 鬼滅の刃
  3. 東京卍リベンジャーズ
  4. 僕のヒーローアカデミア
  5. 進撃の巨人
  6. ONE PIECE
  7. チェンソーマン
  8. SPY×FAMILY
  9. キングダム
  10. ハイキュー!!
  11. 約束のネバーランド
  12. 怪獣8号
  13. Dr.STONE
  14. 転生したらスライムだった件
  15. 終末のワルキューレ

 上位15作品のうち8タイトルが週刊少年ジャンプの漫画です。ちなみに、ヤングジャンプ少年ジャンプ+の漫画を含めると、11作品にまでのぼります。(小学館が一個も入ってない!)

 なお、情報ソースはこちらのサイトです。

『呪術廻戦』『東リべ』…2021年に売れたコミックを「作品別」で見てみると?[作品別 コミック年間ランキング] | ほんのひきだし

 サイトによって順位が違ったりしますが、大きな傾向は変わらないでしょう。

 

 さらに、コミックスの歴代発行部数ランキングを見ると、以下のようになっています。

  1. ONE PIECE
  2. ゴルゴ13
  3. ドラゴンボール
  4. NARUTO
  5. 名探偵コナン
  6. こちら葛飾区亀有公園前派出所
  7. 鬼滅の刃
  8. 美味しんぼ
  9. SLAMDUNK
  10. BLEACH

 ここでもやはり上位10作品のうち7作品が週刊少年ジャンプ作品です。

 こちらの情報ソースは以下のサイト。

歴代発行部数ランキング | 漫画全巻ドットコム

 

 なぜ週刊少年ジャンプはこれほど圧倒的な実績を挙げているのか?

 その秘密は週刊少年ジャンプのキーワード「友情・努力・勝利」にありそうです。

友情

 週刊少年ジャンプの経営は友情によって支えられていると言えそうです。

 会社経営において、最も大事にしなければならないのは顧客との関係性です。どれほど従業員やサプライヤーを大事にしても、顧客に見限られれば会社を維持できない。それが現実です。

 週刊少年ジャンプの特徴として真っ先に挙げられるのが、徹底したアンケート至上主義です。

 どれほどの人気作家であろうと、アンケートのランキングが低迷すれば打ち切られるのが週刊少年ジャンプ。いったい私たちは何回、新人漫画家の作品が10週で打ち切られるのを目にしてきたことだろうか?

 このアンケート至上主義はすなわち顧客至上主義であり、Amazon流にいえばカスタマーオブセッションだと言えます。

 これが週刊少年ジャンプの成功法則の柱である可能性はかなり高いと思います。

 

 一万時間ルールというものがあります。

 その道で一流になるためには一万時間の訓練が必要だという法則です。

 ところが、心理療法士、企業の採用担当者、臨床心理士については、プロと研修生との間に成果において差異が認められないのだそうです*1。経験が能力の向上に繋がっていないということですね。

 これはちょっと常識に反します。どんな道でもプロは素人より優れている、というのが一般的な感覚です。なぜそのような職種が存在するのでしょうか?

 理由はフィードバックがないことです。医者であれば、治療の結果は患部の状態や症状や検査の数値によって明確に分かります。それによって自分の選択した治療が正しかったかどうかが明らかになります。心理療法士もまた、治療の成果は観察によって判断します。ところが、肉体の病気と違って、患者は正直にフィードバックを返してくれるとは限りません。心理療法士に対して気を使ってしまう傾向があるのだそうです。さらには治療が成功した後、患者の精神機能が良好な状態を保ち続けるかどうかは全くあずかりしらないといった状況があるのだそうです。

 これでは暗闇の中でシュートの練習をするようなもので、いくら一週間に2万本のシュート練習をしようが能力が向上することは見込めないのです。

 

 つまり、成功のためには取り組みに対するフィードバックが欠かせません

 翻って、週刊少年ジャンプはどうか? 漫画雑誌では、連載作品の掲載順を決定しなければなりません。週刊少年ジャンプでは、この重要な決定の基準に読者からのフィードバックを採用しており、週ごとに掲載順が変化します。

 これにより、打ち切りの心配がない上位陣でさえも、読者の反応を気にせざるを得ない状況が構築されています。読者からのフィードバックを何よりも尊重する文化とそれを維持する仕組みが週刊少年ジャンプにはあるのです。

努力

「せんせぇ」

「何?」

「俺……どうしたらもっと……もっと強くなれんのかなァ?」

「……何を突然」

「せんせぇ!!」

「まずは日頃の努力よ。結果に振りまわされないで」

(そうじゃねんだ。努力したって……ダメなもんはダメなんだよ)

ライジングインパクト』第15巻 第129話「歯車は動き出す」より

 成功のためには努力が大事。口で言うのは簡単ですが、行うのは難しいです。

 雑誌の売上を決定する要因はいくつもあります。掲載される漫画は当然に重要な要素ではありますが、一方でそれだけが売上を決定するわけでもありません。

 経済学的には価格がコンテンツ以上に重要なはずですし、表紙も定期購読者層以外に向けてアプローチする重要な要素です。実際、週刊少年マガジン週刊少年サンデーでは表紙を芸能人が飾っています。他にも、他の漫画雑誌よりも魅力的であるかどうかなど、様々な要因があります。

 そういうわけで雑誌の売上というのは、非常に複雑な仕組みによって決まっているのです。この複雑なものに対して、そのまま向き合うと霧の中に迷い込んでしまいます。

 「困難は分割せよ」とはデカルトの言葉ですが、複雑なものは一つ一つ分解して単純な形にしてから、それぞれに改善を施すのが良いです。これをマージナルゲインと言います。

 週刊少年ジャンプがアンケート至上主義を取っているというのは一見当たり前のことのように思われますが、実はその陰にはマージナルゲインの考え方があります。

 漫画雑誌を様々な要素に分解していくと、掲載漫画が主要なものとして存在することが分かりますが、ここから売上を高めるための三つの方策が浮かび上がってきます。

  • 連載中の漫画の質を高める
  • 質の低い漫画を打ち切る
  • 質の高い漫画を新規連載する

 通常であれば、この三つの課題に対してそれぞれ取り組んでいくことになります。週刊少年ジャンプの場合はさらに一歩進んで、その全てをアンケート至上主義という一つの点によって繋げることに成功しています。

 

 マージナルゲインの考え方はジャンプに掲載されている漫画作品の中にも見て取れます。

「海賊王におれはなる!!!!」

 『ONE PIECE』のルフィの野望ですが、これはあまりに大きくあまりに漠然とした夢で、これだけだと夢の実現に向けてどう取り組めばいいのか分かりません。

 そこでルフィは様々なマージナルゲインを積み重ねていきます。一番わかりやすいのが人材採用です。

  • 戦闘員=ゾロ
  • 航海士=ナミ
  • 砲撃手=ウソップ
  • コック=サンジ
  • 医者=チョッパー

……といった具合に、麦わら海賊団が海賊団らしくあるために欠けている人材を採用していきます。このように小さな改善を積み重ねていく中で、ルフィは着実に海賊王への道を歩んでいきます。

 

 ただし、その努力が正しい努力なのかは検証する必要があります。たとえば、本当に読者アンケートを重視することが売上向上に繋がるのでしょうか?

 この検証に最も有効なのがRCT(ランダム化比較試験)です。

 条件が等しいグループを二つ用意し、一つには検証したい条件を与え、もう一つには与えないで、二つの結果を比較する作業です。

 たとえば、ランダムに選んだ人間のグループを二つ作り、一つにはビタミンCを投薬し、もう一つには薬を投与し、病気の治療の成果を見比べれば薬の効果が分かります。

 これをやらないと、「薬を投与したら病気が良くなった!」で満足してしまいがちです。実は薬を投与しなければもっと改善したかもしれないのに、それに気付けません。つまり、毒を薬だと思いこんでしまう可能性があります。

 これは珍しいことではなく、ヨーロッパでは19世紀頃まで瀉血といって、血を抜くことが病気の治療に有効だと信じられていました。実際には瀉血は効果がなく、感染症を誘発して患者を死に至らしめることもあったそうです。それにも関わらず、瀉血の有効性は数百年、あるいは千年以上にわたり信じられてきたのです。

 同じことがアンケート至上主義に言えます。

  1. 週刊少年ジャンプは最も売れている漫画雑誌である。
  2. 週刊少年ジャンプはアンケート至上主義を採用している。
  3. よって、アンケート至上主義は売上に貢献する

 これは一見もっともらしく見えますが、週刊少年ジャンプの売上に貢献しているのは別の要因で、アンケート至上主義はむしろ売上の減少要因である可能性すらあります。実際、ジャンプを離れて成功した『はねバド!』の濱田浩輔氏のような例もあります。

 漫画雑誌でこれを検証するのは非常に困難です。タコピーのように人生を何度もやり直さない限りは。検証が困難な場合があるのがRCTの弱点です。ですが、もしかしたら擬似的に検証することはできるかもしれません。

 あなたは『HUNTER×HUNTER』という漫画をご存知でしょうか? 週刊少年ジャンプ上で連載され、カルト的人気を誇っている作品なのですが、休載が非常に多いことが特徴です。長い休載が明けて連載が再開されるとツイッターのトレンドに載ることも多々あります。

 人気作品の休載は漫画雑誌にとって打撃のはずですが、これはチャンスとも言えます。『HUNTER×HUNTER』の掲載期間×『HUNTER×HUNTER』のアンケート順位×雑誌の売上、これらを比較すれば週刊少年ジャンプはアンケート至上主義に関する新たな学びを得られるかもしれないからです。もちろん、厳密な検証にはなりえませんから、そこで得られるものは示唆に過ぎないでしょうが。

勝利

 勝利を目標にしていることも大切です。

 これは当たり前のようで当たり前ではありません。人は失敗を発見した時に、その責任者を非難したいという欲望にかられます。

 これは一見、失敗の原因を排除する建設的な行為のように思われるかもしれませんが、失敗を非難することは失敗の顕在化を妨げます。失敗を非難される環境において、失敗を素直に認め、組織の中で共有しようとする人は稀です。失敗が表面化しないということは正しいフィードバックを受け取れないということです。成長の前提であるフィードバックを損なうことは重大な問題です。

 また、非難の矛先は、往々にして失敗の原因以外のものに対して向けられます。人は失敗の原因を考える時に、目立つ物事に着目します。失敗と目立つものを結びつけて考えれば、理屈をひねり出すことは容易です。それが真の原因であればよいでしょうが、現実はそれほど単純ではありません。このように分かりやすいけれど誤った結論に飛びつくことを「講釈の誤り」といいます。

 勝利を目指しているならば、失敗した時にやることは非難ではありません。失敗から学ぶことです。ジャンプ編集部の籾山氏は次のように述べています。

「ジャンプ」では最終的にホームランを打つことが大事であって、その途中で何回失敗しようと作家も編集者もまったく評価にカウントされないんですよ。

 引用元は↓

gendai.ismedia.jp

 こうした仕組みの根底には、成長型マインドセットがあります。努力によって才能は伸びるという考え方です。これの反対が固定型マインドセットで、才能は生まれ持って決まっているという考え方です。

 もしジャンプ編集部が固定型マインドセットの組織であれば、一度失敗した新人は才能ナシの烙印を押され、読み切りさえも二度と掲載することはできないでしょう。そうであれば、『魔少年ビーティー』が10週で打ち切られた荒木飛呂彦先生は『ジョジョの奇妙な冒険』を生み出せなかったかもしれません。

 ジャンプ編集部が成長型マインドセットの組織であるから、判断が難しい作品はとりあえず紙面に載せて読者の反応を見ることができるのです。

 『ドラゴンボール』でも修行によって悟空が成長していく様子が何度も描かれますし、連載作品の中にも成長型マインドセットは至るところで見られます。

まとめ

 以上、週刊少年ジャンプの成功法則について考えてみました。ポイントは以下の三つ。

  • 友情 = フィードバックを大切にする。
  • 努力 = マージナルゲインを積み重ねる。
  • 勝利 = 成長型マインドセットを持つ。

 

 ジャンプ以外のことに関して書いてあることの元ネタは『失敗の科学』です。

 エッセンスはだいたい上に書いたようなことですが、人はなぜ失敗から学べないのか?についてもこの本にはより詳しく書いてあります。

 また、事例も上に書いたのよりずっと面白い話ばかり。原題は『Black Box Thinking』なので、航空業界の事例が多め。人の命が関わる業界なのでのめり込んで読んでしまいます。

 著者は以前に書いた『多様性の科学』のマシュー・サイドさん。この方はまず最初に読者の心をグッと掴む悲劇を持ってきて、その悲劇がなぜ起きたかを解き明かしながら読者に人生のヒントを提示するという手法を得意としているようです。

 私も真似ようとしてみましたが、題材として適当なエピソードを発見するのはなかなか難しく諦めてしまいました。適切な事例のストックをどれだけ持っているか、持っているものをすぐに引き出せるか、というのがライターとして重要な資質のように感じます。ジャンプの漫画なんて小さい頃からけっこう読んできたはずなのに、今回の記事を書くにあたって的確な名場面が全然思い浮かばないところはダメダメだなあと感じます。事例収集が私にとってのマージナルゲインかもしれません。こうして記事を書くことも事例収集の一環と考えられます。

 ちなみに、陶芸教室で作品の質に基づいて生徒を評価する群と作品の数に基づいて生徒を評価する群に分けて実験を行ったところ、作品の数で評価される群の方が質の高い作品を作ったそうです。心理学者のバビノーとクランボルツはこのようなことを言っているそうです。

「素晴らしいミュージシャンになるために、まずはひどい曲をたくさん演奏しよう!」

 素晴らしいブロガーになるために、まずはひどい記事をたくさん書こう!

 そういうことです。

 

 以前書いたひどい記事はこちら。

weatheredwithyou.hatenablog.com

*1:https://www.fs.usda.gov/rmrs/sites/default/files/Kahneman2009_ConditionsforIntuitiveExpertise_AFailureToDisagree.pdfたぶんこれのProfessional Intuitionのところに書いてありそう

『江戸川乱歩傑作選』

 『江戸川乱歩傑作選』を読みました。

江戸川乱歩は面白い

 今回、初めて江戸川乱歩を読んだのですが、普通に面白くてびっくりしました。見事にエンターテイメントなのです。

なぜ人は江戸川乱歩を読まないのか

 江戸川乱歩といえば、日本のミステリ小説のパイオニア的存在です。名探偵明智小五郎怪人二十面相の生みの親であり、江戸川コナンの名前の由来でもあります。大物作家ですね。

 とはいえ、なかなか手に取る気にもならない人も多いのではないでしょうか。

 江戸川乱歩は大正から昭和の前半にかけて活躍した作家です(この本に収録されているのも大正時代に書かれた短編です)。わざわざこんな古いミステリ小説を読むくらいなら現代の小説を読むよと考える人も多いでしょう。東野圭吾綾辻行人を読みますわと。なぜなら、小説というものは時代とともに進化しているはずで、古いということはそれだけ稚拙であるに違いないのだから。

 それにも関わらず、人が古い小説を読むのは、それが自身の読書家像の醸成に寄与するからとか、名作と名高いからとかそういった動機によるものがほとんどだと思います。三島由紀夫を読めばなんだか偉くなった感じがするので、やたら難しくても代表作の『金閣寺』を頑張って読むのです。

 しかし、そういった動機で古い小説を読む人は江戸川乱歩を手に取らないでしょう。なぜなら江戸川乱歩は教科書や国語便覧にも載らないような作家であり、有名な割にはあまりネームバリューがないからです。「好きな作家は三島由紀夫です」と言えば、三島由紀夫を読んだことのない人でも「こいつやるな」となりますが、「好きな作家は江戸川乱歩です」と言っても「江戸川乱歩……ズッコケ三人組……ではないよな?」となります。

新しさと面白さは比例しない

 ここでミステリ小説から離れてアニメについて考えていただきたい。

 あなたはスタジオジブリの作品が好きでしょうか? 『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』といった作品が好きでしょうか? もしそうであれば、あるジャンルの黎明期の作家をバカにするのはおかしなことであることに気付くでしょう。

 日本で初めて本格的なTVアニメが放映されたのは『鉄腕アトム』の1963年のこと。宮崎駿東映動画(今の東映アニメーション)に入社したのも1963年。つまり宮崎駿はテレビアニメの黎明期から活躍する古き人なのであります。では宮崎駿のアニメを古臭くてつまらない作品だと切って捨てる人がいるでしょうか? いや、いない。宮崎駿作品が色褪せることなく今なお燦然と輝いていることは日本人であれば誰もが承知のことです

 作画まわりのテクノロジーやビジネスモデルが進化し続けているアニメでさえそうなのだから、ましてテクノロジー的な進化がほとんどない小説というジャンルにおいて、いつ作られたかとその面白さは必ずしも比例しないのです。

ペンネームから溢れ出るセンス

 注目していただきたいのが江戸川乱歩ペンネームです。

 エドガー・アラン・ポーをもじったものであるというのは有名な話ですが、冷静に考えるとセンスが良すぎます。あなたはコナン・ドイルアガサ・クリスティーをここまでしっくりくる日本名に落とし込むことができるでしょうか?

 そして、これほど良い感じのペンネームの小説家が日本に他にいるでしょうか? ミステリー小説の生みの親の名前を使って、日本のミステリー界の大家となる。名は体を表すとはまさにこのことです。(そういうペンネームで私が思い浮かぶのは西尾維新くらいです。前から読んでも後ろから読んでも180°回転させてもNISIOISINになる。このギミック自体が彼の作風を表しているなと個人的には感じます。)

江戸川乱歩は色褪せない

 要するに、江戸川乱歩の作品は今なお色褪せないということが言いたいのです。

 ちなみに、古い小説は読みづらいことを恐れている方もいるかもしれませんが、私は読みづらさを感じませんでした。

江戸川乱歩の特徴

 この傑作選を読んで、私が感じた江戸川乱歩の特徴は以下のとおりです。

  • 多様性
  • 変態
  • どんでん返しを好む
  • 読者参加型ではない

 典型的なミステリ小説は「事件が起こり、探偵が犯人を探し、トリックを暴く」という構成になっていると思います。しかし、江戸川乱歩はその形式にこだわらず、多様な作品を書いています。海外ではすでにミステリ小説が多く作られていたとはいっても、やはり探偵小説の黎明期です。まだそれほど型が確立していなくて、それゆえに色々な形を試していたのか? それとも新規開拓者の冒険心が色々な形式にチャレンジさせたのか? ともかく江戸川乱歩の作品は多様性に富んでいます

 そんな江戸川乱歩作品に共通して言えるものがあるとするなら、変態性の追求ということが言えるかもしれません。江戸川乱歩先生、様々な変態を作品に登場させてきます。さながら『ゴールデンカムイ』のごとく。その変態性の裏には、必ずといっていいくらい人生への退屈ということへの言及がなされるのもポイントかもしれません。

 江戸川乱歩自身の性癖は何かといえば、どうも読者の予想を裏切りたくてたまらないようです。ここは普通にオチをつけてもよいのでは?というところでも一捻り入れてきます。乱歩にとっては物語が落ち着くべきところに落ち着くのは退屈なことなのかもしれません。

 一つ注意点があります。今やたいがいのミステリー小説は読者への挑戦状になっているのではないかと思いますが、この傑作選に出てくる小説はそうはなっていないものが多いです。江戸川乱歩と知恵比べをするつもりで読むと期待外れに終わるかもしれません。

収録作品

 ここから具体的な中身について見ていきます。

二銭銅貨

〈怪盗がある会社で大金を盗むが、警察の賢明にして懸命な努力によって逮捕されてしまう。しかし、肝心の金のありかは自白しない。そんな事件の数日後、とある貧乏学生があることに気付いて……という話。〉

 江戸川乱歩のデビュー作。デビュー作なのに傑作ってのが天才クリエイターあるあるですね。大正12年の『夜に駆ける』です。

 30P足らずの中に、怪盗の逮捕劇&盗んだ金の在り処を探すという二つの物語があって密度が濃い。この作品にもどんでん返しが待っていて、それが「なんでそんなことをする?」というある種の変態的なもので、江戸川乱歩らしさが詰まっています。

 事件の解決のために暗号を解くのですが、この暗号の作りが実に面白いです。

二廢人

〈とある宿で齋藤氏と井原氏という二人の男が出会う。二人は初対面であるにも関わらず、井原氏は齋藤氏と話していると妙に懐かしさを覚えて、誰にも話したことのない昔話を語りだす。それは夢遊病に苛まれ、ついには眠っている間に人を殺してしまった話だった。〉

 この話はエモいです。あまりに善良すぎる男と罪と後悔。罪を犯して二十年以上経ってからの告白ってのがエモい。

 夢遊病で人を殺してしまうというのは実際にある話です。『睡眠こそ最強の解決策である』にたしか書いてあったから間違いありません。それだけにありえそうな話でドキドキしてしまいます。

D坂の殺人事件

〈私がD坂にある喫茶店でコーヒーを飲みながら窓の向こうにある古本屋を眺めていると一つの違和感を覚えた。店番をしていた古本屋の女房が奥に引っ込んだまま一向に出てこないのである。偶然一緒になった明智小五郎と共に古本屋に向かうと、女房が死んでいたのだった。〉

 名探偵・明智小五郎のデビュー作です。ここにきてようやく密室事件を名探偵が解決するというフォーマットが登場します。そして早速、名探偵自身が疑われるというパターンにたどり着いていたりもします。

 この小説が書かれた頃には日本家屋で密室殺人を書くのは難しいと言われていたそうです。我々にとっては見慣れたフォーマットですが、当時にしてみれば世間の定説を打破した斬新な作品だったのですね。

心理試験

苦学生である蕗屋清一郎は、友人の下宿先の大家である老婆が大金を植木鉢に隠していることを知る。蕗屋は綿密な計画を立て、老婆を殺害し、金を奪うことに成功する。ある事実から蕗屋を疑うに至った裁判官は、彼を心理テストにかけることにする。〉

 明智小五郎シリーズ二作目。

 あらすじからも明らかですが、元ネタはドストエフスキーの『罪と罰』のようです。従ってDEATH NOTE』を読んでいるかのようなドキドキを味わえます。

 『D坂の殺人事件』でもそうだったのですが、この話は心理学が物語上で重要な役割を果たします。創作の種は学術的な知識の中に潜んでいるようです。

赤い部屋

〈ある秘密のクラブにT氏が加入した。新人は最初の会で会員たちの退屈を紛らわす話を披露するのが習わしだった。その場で、T氏はこれまで自分が99人もの人間を葬ってきた完全犯罪について語りだすのであった。〉

 完全犯罪を試みて失敗した話の次に来るのが、完全犯罪に成功してきた男の話。それはいうなれば未必の故意(これやると人が死ぬかもしれないなーと思うことをわざとやること)による殺人です。その故意すらも完璧に隠して行うものだから、なるほどたしかにこれは完全犯罪だと納得してしまいます。それだけに恐ろしくて面白い。

 この話のオチは正直、そんなにひねる必要があるのだろうかと思いました。ただ、Wikipediaによると、江戸川乱歩としてはリアリズムを追求した結果の必然的なラストだったようです。

屋根裏の散歩者

〈郷田三郎は人生の何事にも面白みを感じられずに生きていた。新築の宿に泊った郷田は、屋根裏に侵入するルートを見つける。屋根裏を徘徊する楽しみを得た郷田だが、ついには完全犯罪の誘惑に取り憑かれてしまう。〉

 これまでは退屈しのぎに誰にもバレないように人を殺す変態たちを描いてきた江戸川乱歩先生ですが、ここらへんから殺人以外の変態要素をぶち込み始めるようになります(『D坂』で片鱗を見せてはいましたが)。

 他人の生活を覗きたいという欲望は誰しも多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。そうでなければ芸能人をストーキングすることを生業としている週刊誌が生き残れるはずがありません。そういう誰にでもある欲望を突き詰めると『屋根裏の散歩者』になります。

 ちなみに、この小説の面白さは変態性だけでなく、カメラの位置が通常と異なるという点にもあります。普通の小説ではカメラは登場人物目線、アイレベルになります。しかし、この小説ではその登場人物が屋根裏にいるから、カメラが俯瞰になるという珍しさもあるのです。

人間椅子

〈作家である佳子のもとに一通の原稿が届く。そこには椅子職人の罪の告白が書かれていた。〉

 これもタイトルどおりの話で、『屋根裏の散歩者』に連なる変態シリーズですね。郷田三郎は殺人を犯すまではただ眺めるだけでしたが、今度は触っちゃいます。

 ここらへんからミステリーではなくなっていきます。『屋根裏の散歩者』の手前あたりで、だんだんとミステリーのアイデアが尽きて苦しむようになっていったからのようです。

鏡地獄

 鏡が好きすぎる男が球体の鏡に閉じ込められて狂っちゃう話。

 そんだけの話なんですが、鏡でできた球の中に入るってどんな感じなんだろう?と好奇心が刺激されて面白いです。

 ちなみに、こんな感じのようです。正方形の鏡がめっちゃ幻想的。


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 マイケル・ジャクソンはこの小説を読んで『Man in the mirror』という名曲を作ったようです(大嘘)。『Man in the mirror』は世界を変えるにはまず自分を見つめよう、自分から変わろうという人間中心主義の権化のような歌ですが、江戸川乱歩は人間中心主義の先には地獄が待っていると看破していたのかもしれません。

芋虫

 戦争で四肢と聴覚と声を失った夫の世話をする妻の話。

 四肢のない人を芋虫呼ばわりするとか、今では絶対に書けない作品だなという感じがします。じゃあ当時はOKだったかというと、反軍国主義的に受け取られかねない内容だったためにやっぱりアウトだったようです。

 まあグロテスクな話なんですが、芋虫のようになっても性処理の道具として妻が愛してくれるのに絵空事ではない救いを感じたりもしました。変態には変態の良さがある。

まとめ

 というわけで、『江戸川乱歩傑作選』でした。

 色々なミステリー小説を読みたい、変態チックな話を読みたい、面白い短編集を読みたい……そんな人にはぜひおすすめです。一話あたり30ページほどなのでかなり気軽に読めますよ。

『和解』日記はエンターテイメントになる

 『和解』を読みました。

 小説の神様志賀直哉の作品です。表紙のおじいさんも志賀直哉です。

 この小説は1917年に発表された作品です。第一次世界大戦の頃ですから、かなり古い作品です。ですが、『雪国』と違って初見から読みやすかったですね。

 なお、『雪国』と比較しているのは単純にこれの前に読んだのが『雪国』だからです。

weatheredwithyou.hatenablog.com

 父親と喧嘩をしている主人公が、子の死や祖母の病気などを経て、父親と仲直りをするに至る話。エンターテインメントとして分かりやすいです。

 主人公の第一子が出生後まもなく病で死ぬわけですが、その描写が結末が分かっているにも関わらずドキドキハラハラさせるんですよね。いやむしろ結末が分かっているからこそ、生きようとする赤子に命の尊さを感じたりもします。

 そういった事件がきっかけでますます関係が悪化したりもするわけですが、主人公が小説を書いたりしているうちになんとなく父親と和解しようという気持ちになってくる。祖母がちょっとした病気で死の臭いを漂わせはじめることでそれに拍車がかかる(結局、祖母は元気になる)。

 そして思い切って父親に会い、気持ちを伝えると、父親もそれに応えてくれる。そして大団円を迎える。ここもさっぱりとしていて清々しいです。

 そんなわけで『雪国』とは対極にあると言ってもいい作品でした。主人公の努力は徒労に終わらないし、子の死や出産といった生々しい描写がでてきます。ついでにいうと『雪国』は十年以上かけてできあがった作品であるのに対し、『和解』は筆が進んで半月程度で書けてしまったのだとか。

 かといって粗い作品というわけでもなく、父と子との関係をベースに、主人公と子の関係や主人公と祖母との関係がそれに重なって機能している気がします。巧みな小説だなあと感心しながら読みました。

 ……が、実はこの小説、作者自身の実体験をベースにして書かれたものなんですね。ベースというか、そのまま? 志賀直哉自身が父と不和で、『和解』以前にもそれを題材にした作品を何点か発表していたようです。それがようやく父と仲直りできて、その喜びでバーっと書き上げたという。作中に登場する人物もたぶん全員が実在の人物で、Mは武者小路実篤のことだそうです。

 そうなると「これは小説なのか……?」という気分にもなってきますが、逆に考えれば、実は我々の人生も切り取り方や文章力次第で、何篇もの優れた小説になりうるのかもしれません。

 たまにブログに思い出話を書きたくなるときがあります。そんな時は「こんなん誰も興味ないよなー」なんて気持ちで書いてはいけないのかもしれません。「俺は志賀直哉になる!」というくらいの気持ちをもって臨めばモチベーションも上がりそうです。

『雪国』は織姫と偽彦星の物語?

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 

 日本で一番有名な小説は、おそらく『吾輩は猫である』だと思います。

 タイトルと同じ一文から始まる冒頭がかなり有名で、キャッチーさもある。しかも、作者があの元千円札のおじさん、夏目漱石です。

 では、第二位はなんだろうか?

 古典を含めると源氏物語枕草子などが入るかもしれませんが、近代以降の文学に限れば、実はこれ、『雪国』なのではないでしょうか。

 やはり冒頭の一文がかなり有名です。そして、その一文の中にタイトルが入っている。作者はノーベル文学賞受賞者である川端康成

 というわけで、この超ビッグタイトルである『雪国』を読んだので、感想を書きます。

あらすじ

 個人的には、こういう文学作品はあらかじめネタバレしといたほうがかえって読むのが楽しめると思います。そういうわけなので『雪国』がどのような話なのかを結末まで説明します。

 物語は島村という妻子持ちの男を中心に描かれます。島村は、雪国へ向かう汽車の中で葉子という美しい娘を見かけます。葉子は病気の男の面倒を一生懸命にしています。島村は窓ガラスの反射を通して、その様子をこっそりと観察するのでした。

 駅に着いて、島村は宿に行きます。そこにいたのは一人の美しい芸者・駒子。島村は駒子に会いに、この雪国へやってきたのです。二人が出会ったのは半年前の春のこと。当時、駒子はまだ見習いだったのですが、二人の間にワンナイトラブ的なイベントがありました。

 今回の滞在で、島村は駒子の名前や、駒子が葉子&病気の男・行男と同じ家で暮らしていること、駒子は行男と元許嫁と噂されるくらいには深い関係であること、行男の療養費を稼ぐために駒子が芸者になったようであること、などなどを知ります。時が経ち東京に帰る島村を駒子が見送っている最中、葉子が現れて、行男が危篤であることを知らせます。しかし、駒子は行男のもとへ行くのを拒み、島村を最後まで見送ります。

 翌秋、島村は再び雪国へ行きます。行男はやはり、駒子が島村を見送っている間に息を引き取ったようでした。行男の母親でもある駒子の師匠が死に、駒子は置屋(芸者を抱える家のこと)に居を移していました。しかし、相変わらず駒子はあっけらかんとしていて、島村の宿へ通い詰めます。島村は駒子があと何年で借金を返済し終えるかといったような身の上話を聞いたりします。その間に、葉子とも僅かな交流があり、葉子の行男への執着や駒子との確執を感じたりします。そして、島村は、だんだんと駒子と別れなければいけないという気になってくるのです。

 ある夜、駒子と島村が夜道を歩いていると、村の繭倉で火事が発生します。映画を上映していた折、映写機が発火したのだとか。急いで駆けつけると、焼け落ちる繭倉から気絶した葉子が落下するのを二人は目撃します。駒子は葉子を抱え「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫びます。島村は駆け寄ろうとしますが、救助に行く男たちに押しのけられてしまいます。

『雪国』は難しい

 『雪国』は難しいです。

 私は当初、150Pにも満たないこの物語を一瞬で読めることを期待していたのですが、久々のThe昭和純文学に度肝を抜かれ、思ったようには読みすすめられませんでした。

 この本が完成したのは1948年頃のようです。初出は1935年らしいので、大雑把に80年くらい前の小説。当然、使われる言葉は今と違って、それへの慣れが必要です。それに川端康成は(三島由紀夫ほどではないものの)美文の使い手で、テクニカルな比喩が多めです。また場面や会話において唐突な飛躍があり、それについていけないことも多々あります。

 ……というようなことを読んでいる最中は思ったのですが、具体例を挙げるために頭から読み返したら、なぜかスラスラ読めました。読みづらいポイントが一切見つからない。なぜなんだー! 『雪国』に限らず、こういう本は少なくとも2回読んだ方が良いのかもしれません。

 ただ、一つ間違いないのは、「芸者とはどういう存在だったのか?」ということについては事前に勉強しておいた方が良さそうです。勉強と言ってもウィキペディアを読むくらいで十分ですが。

 我々は芸者についてどんなイメージを持っているでしょうか? おそらく、京都あたりにいて、酒宴の席を盛り上げる人くらいのイメージではないでしょうか。実際、それは間違っていません(たぶん)。

 現代と『雪国』の時代における芸者で決定的に違うのが、売春婦としての芸者が存在したかどうかです。現代ではおそらく芸者が性的サービスを提供することはないかと思いますが、『雪国』が書かれた頃はまだ売春を行う芸者が存在したようです。島村が駒子に初めて会った翌日、駒子に「芸者を世話してくれ」と言い、駒子が嫌悪感を示す場面があります。会話の流れやらでもなんとなく分かりますが、これは今で言えば「デリヘルを呼んでくれ」的な発言だったのではないかと推測します。

 とはいえ、全員が売春をしていたわけではなく、売春を行わない芸者はパトロンを持っていて、そのパトロンのことを旦那と呼んだのだとか。島村と駒子が初めて会った場面で「旦那が死んだ」という記述があるのですが、これは駒子が寡婦であるという意味ではないのですね。たぶん。

 それから、芸者になる際には、お金を借りて、その借金を返済するまでの間、タレント事務所的なところで働くというシステムだったっぽいです。「年期は四年だと言った。」とあるのは、駒子があと四年働けば引退できるといった意味だと思います。

何を描いているのか

 上のあらすじでも分かるとおり、この小説にはおよそドラマチックなストーリーがありません。

 一人の複雑なバックグラウンドを持つ芸者と高等遊民が出会い、恋が成就する予感は一切ないままに、うっすらとした交流を深めるだけの物語。

 ぼんやり読むと、「だからなに?」と言いたくなるくらいの話です。

 私は、この小説は「徒労の美しさ」を描いているのではないかと思いました。

 駒子は同好の士もなく、一人で小説を読むのを楽しんでいるのですが、読んだ小説の題と作者と登場人物とその関係を逐一書き留めていることを島村は知ります。

「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか」

「しようがありませんわ」

「徒労だね」

「そうですわ」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。

 全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとしたとたんに、雪のなるような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにかかえって彼女の存在が純粋に感じられるのであった。

 駒子にとっての小説とは都会的なものへの憧れを象徴するもので、決して現実にならない空想のようなものなのです。

 島村は実物を見たこともない西洋の舞踏を研究して文章を書くことで小金を稼いでいます。彼にとって西洋の舞踏は空想でしかありませんが、だからこそそれは純粋なものであり、その点こそが島村にとって重要なのです。ミロのヴィーナス理論ですね。もっと俗なたとえを出せば、マスクしていると美男美女に見えるのと同じようなもんです。たいていの現実は、空想のままでいたほうが美しいのです。

 幻想を幻想のままにして楽しんでいる二人は合わせ鏡のようで、駒子にとっての島村、島村にとっての駒子、どちらも幻想です。つまり憧れの対象です。そして、妻子持ちの島村は家族を捨ててまで駒子と添い遂げようという気はさらさらなくて、従って二人の恋もまた幻想のようなもの。つまりは徒労なのです。

 徒労であるこの恋は、必ず終わりを迎えます。だから島村と駒子が惹かれ合った時にはすでに物語は「二人がいかに別れるか」を目指して動いているのです。そして、その瞬間は当然のように、幻想を幻想のままにできなくなった時(つまりほどほどの距離を保てないほど恋心が高まりすぎてしまった時)に訪れるのです。

 タイトルは重要です。『雪国』というタイトルである以上、雪国という舞台設定に重大な意味があります。おそらくは、雪と駒子の白い肌(白粉)を重ね合わせています。雪国は駒子のメタファーなのではないかと。それは都会とは隔絶された世界であり、島村にとっては幻想の国なのです。

 かつて、この雪国では寒い冬に麻の縮を作っていたようです。それが大層な儲けになったかといえば、そうでもなく、ここにも徒労があります。縮に関するパートの中に、こんな文があります。

 そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心込めた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。

 この「人を鞭打つ」の部分が重要そうです。

 この小説にはメタファーがたくさんあります。それを読み解く楽しさとしんどさがあります。

 一つはあけび。島村は「あけびの新芽も間もなく食前に見られなくなる」頃に駒子と出会い、あけびが実を付ける頃に駒子と別れようという気になる。あけびは二人の関係性を暗示しているのでしょうか?

 もう一つは、。三回目の滞在から蛾がそこかしこに登場します。

蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。

 蛾もまた、駒子のメタファーです。駒子が最初に住んでいた部屋が蚕の部屋だったことから推察できます。そう考えると、引用した文は「悪い虫を寄せ付けぬように」という夫人からの鋭い牽制だったのかもしれません。

 駒子の部屋の描写でもう一個注目すべき点は鏡台が粗末であることでしょうか。ここに駒子の自己肯定感の低さが表現されている気がします。実際、駒子はことあるごとに島村が自分のことを嘲笑しているのではないかという不安を口にします。(そもそも鏡というアイテムがこの小説において非常に重要な存在であることは、冒頭で島村が列車の窓ガラスを鏡として葉子を観察していることからも明らかです。が、私も完全に理解できていないので、この点について深くは書きません。)

 ここを把握しておくと、最後の場面は葉子が落下する点以外に注目すべきことがあるのが分かります。燃えたのが繭倉なのです。

 これが何を意味するのか?ということなのですが、ここからは私の妄想が多分に混じります。駒子と葉子は同一人物なのではないかと私は考えたりしています。それは客観的に葉子は妄想上の存在なのだとかそういう意味ではなくて、メタ的に、駒子の中にいるもうひとりの駒子としての役割を葉子は背負っているのではないかということです。駒子が本田圭佑だとすれば、葉子はリトルホンダ。駒子が天上ウテナだとすれば、葉子は姫宮アンシー。そういう話。

 駒子と葉子はともに清潔で美しいうえに、ふたりとも気分屋で、おそらく同じ男を愛している。そして、それは徒労である。あまりにもキャラクターとして似すぎで、そこに意味がないわけがありません。葉子は駒子の生霊みたいなものなのです。葉子と駒子はいがみあいながらも根底では愛し合っている節がありますが、粗末な鏡台(自分への評価の低さ)との整合性も取れます。それにこの物語の主人公は明らかに駒子ですが、その割には最初に登場するのが葉子だというのも普通に考えれば妙です。駒子と葉子は二人で一つの役割を持っていると考えれば、やはり腑に落ちます。

 より具体的に言えば、駒子の中の行男を愛する心を象徴しているのが葉子なのではないかと。言い換えれば、駒子の中の現実を追い求める心を表しているのが葉子なのではないか。駒子がどんどん深く島村にのめり込んでいくにつれ、葉子と島村が接近するのも、島村がそこに寒気を覚えるのも説明がつく気がします。

 だから、繭倉とともに葉子が燃えるラストは、駒子の中にある島村を欲する心が沈黙させられる様を描いているのではないか。それは実に暴力的です。しかし、おそらく葉子は死んだわけではない(島村のことをすっぱり忘れられるわけではない)のです。駒子は葉子を「つらい荷物」として抱えて生きていくのでしょう。

 ラストシーンで意味深に描かれるのが天の河です。

 「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」

 そういう声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。

 この天の河はなにを意味しているのでしょうか?

 実はこれ、非常に単純なことではないかと私は考えています。天の河といえば、織姫と彦星です。駒子は蚕であり、三味線を弾く(ベガは琴座の星)、裁縫が捗らない……など様々な要素が(ぴったりではないものの)符号します。島村と牽牛はまるで重なりませんが、この物語が永遠に続く遠距離恋愛ではないことを考えれば、あえてずらしているとも解釈できます。ともかく、天の河は島村と駒子を隔てるものだと考えて間違いないのではないでしょうか。

 天の河に関しては下のような記述もあります。

「(略)一年に一度来る人なの?」

「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね」

 『雪国』とは、織姫と彦星の恋を描いた物語。しかし、その彦星は偽物の彦星なのです。だからこそ、織姫の純粋さが一層輝く。そういう話なのかなと今のところ私は考えています。

まとめ

 というわけで、『雪国』でした。

 当初は「『雪国』読んだけどわけわからん!」と書こうと思っていたのに、読み返したら非常に読みやすいことが分かり、あれやこれやが何を意味しているのかが分かった気になったりして、思いの外、長文になってしまいました。

 しかも、これでまだまだ書けていないことがけっこうあったりします。葉子の顔に浮かんだ火の意味とか、刑罰の意味とか。それから、この物語が三つの季節を描いて終わっていること、四季を描いていないことにも意味深なものを感じています。それが厳冬の頃であるというのにも、美味しいところだけ味わいたい島村の気持ちが見えているのかなあと。

 やはり名作は読み応えがありますね~。

『もののけ姫』をグラフで表現する試み

 『ホモ・デウス』という本を読みました。『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた本です。

 その中で、

人間は神が意味の源泉だった時代から、人間が意味の源泉になる時代へ移行して今がある。しかし、今、データが意味の源泉であるとするデータ至上主義の時代が到来しつつある。

 みたいな感じの話が書いてあります。

自由主義経済がなぜ社会主義経済に勝ったのか? それは中央集権型のデータ処理システムより分散処理型のデータ処理システムの方が、当時の時代状況においては有利だったからだ。このようにデータを中心に考えると、人間も(他の動物に比べて優秀な)CPUとして捉えることもできる。

 みたいな感じの興味深い話もあって、なるほどね~と感心しながら読んでいました。

 

 そんな時、ふと目に入ったのが、私の本棚に鎮座しているもののけ姫の絵コンテでした。

もののけ姫 (スタジオジブリ絵コンテ全集11)

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私がフィギュアスケートを見なくなった理由

今週のお題「冬のスポーツ」

 

 私は昔、フィギュアスケートが大好きだったんですが、今では全然見なくなってしまいました。

 今日は私がフィギュアスケートに出会ってから別れを告げるまでの思い出話をしたいと思います。

 「お前の思い出なんか興味ないわ」という方が99.9999%だと思いますが、私が書きたいので書きます。

 まあ、強いて言えば、フィギュアスケートの特性や、データからは見えないフィギュアスケートの歴史とかを知る手がかりになる可能性はゼロではないかもしれない。

2005年グランプリファイナル

 2005年12月。フィギュアスケートのグランプリファイナルが開かれようとしていました。

 この大会までフィギュアスケートをほとんど見たことのなかった私。そもそも2004年のアテネ五輪で卓球を見たのが、おそらくまともにスポーツ観戦をするようになった始まりだったと思います。ゆえに冬のスポーツ自体が私にとって存在しないに等しいものでした。

浅田真央という存在

 そんな私がなぜフィギュアスケートを見てみようという気になったかといえば、一つには、卓球にどっぷり浸かりだした余波でスポーツを愛する気持ちが私の中で芽生えていたことがあります。

 もう一つ、これが重要です。当時、浅田真央がかなり話題になっていました。この年は浅田真央のシニアデビューの年で、凄い選手が出てきたということで話題になっていました(たぶんデビュー前から浅田真央はある程度名が通っていたと思います)。

 というわけで、どんなもんか見てやろうと思ったわけです。浅田真央と同い年の私は自意識過剰で、フィギュアスケートを見るなんて恥ずかしいことだと感じていたので(『ToLOVEる』を読む感覚に近い)、「他に見る番組ないから見るかー」みたいなスタンスを家族の前で装っていたような記憶があります。

 フィギュアスケートを知らない人のために、大会について説明をしておきます。フィギュアスケートはシーズンになるとグランプリシリーズという六カ国で開かれる大会群が始まります。アメリカ、中国、日本、フランス、カナダ、ロシアだったかな? このうちの2大会に選手は参加することができます。その中で優れた成績を残した上位6名が出場できるのがグランプリファイナルになります。

 当時、世界最高の選手だったのがイリーナ・スルツカヤビールマンスピンがトレードマークのロシアの選手です。彼女と浅田真央が激突する、というのが大会の目玉だった気がします。

 結果は御存知の通り、浅田真央トリプルアクセルを決め、見事に優勝を飾りました。私はフリーの演技に感動して涙が出たことを覚えています。いったい何がよかったのかは定かではありません。チャイコフスキーの楽曲の素晴らしさ、15歳の天真爛漫さ、若き才能が台頭する歴史的瞬間に立ち会ったという予感、そういったいろんな要素が琴線に触れたのだと思います。

 浅田真央の優勝には日本人選手の快挙という以上の意味がありました。というのは、浅田真央は年齢制限のため翌年のトリノオリンピックに出場できなかったからです。グランプリファイナルで優勝したことで、こいつがオリンピックに出れば金メダル有力やんけ!世界最強の選手が出られないオリンピックでええんか!と。そんな感じの議論が連日連夜ワイドショーで繰り返されていた印象があります。

中野友加里という存在

 しかし、それだけだったら私は多くの日本人と同程度にフィギュアスケートを好きになるだけだったと思います。もしかしたら、そこにとどまっていたら、フィギュアスケートを見なくなることはなかったかもしれません。

 私はフィギュアスケートの沼にハマっていきます。私はこのテレビ放送で一目惚れしたのです。

 ショートプログラムが放送された日。私がテレビを付けたときにちょうど日本人選手が滑っていました。中野友加里選手です。ムーラン・ルージュの曲に乗って、黒いタイツスーツに身を包んだ彼女は、ミスらしいミスもなく滑り終えました。初めてフィギュアスケートを見たので、その滑りがよかったのかどうか、当時の私には分かりませんでした。でも、なんとなくいい感じの演技だということが分かりました。実況や解説もありますし、本人も充実の表情を浮かべていました。

 ところが、点数が出た瞬間です。中野選手の表情が曇りました。感触ほど点数が伸びなかったのです。インタビューも不満げな顔で受けていました。

 これに私のハートは撃ち抜かれました。嘘のつけない、気の強いこの女性はなんて魅力的なんだろうと思ったのです。

 ↓の記事で御自身でも「態度が大きい」とおっしゃっていますが、本当に態度が大きかった! でもそこが大好きだったのです。私は! Mなのだろうか。いや、たぶん同類なのだろうと思います。(この記事を読んで、社会人になってもあんな感じだったのかと、元ファンとしてはニヤニヤしてしまいました。)

news.yahoo.co.jp

 中野友加里選手も今となっては一昔前の選手なので解説しておきます。トレードマークはドーナツスピン。彼女も浅田真央と同じく山田満知子コーチに指導を受けており、トリプルアクセルを跳べる選手でした。トリプルアクセルの成功率は決して高いものではありませんでしたが、ジャンプ力には定評があったと思います。

 ただ、スパイラルシークエンスの時には頑張らないと笑顔になれなかったり、ジャンプが巻き足(ジャンプ中に脚が4の字のようになる)だったりと、色々と不器用な選手でもあったと記憶しています。それがけっこう足かせになっていたのですが、だからこそ応援のしがいがありました。

 どうでもいい話ですが、顔が蒼井優に似ているとかファンの間では言われていて、私は中野友加里経由で蒼井優の映画を漁っていた時期があります(今見るとそんなに似ていない気がする)。おかげで岩井俊二作品に出会えたりして、青春の良い思い出です。

2005年全日本選手権

 そしてクリスマス。この年の全日本選手権は、翌年のトリノオリンピックの代表を決める重要な大会でした。

 この時の有力選手が以下の6人。

 この大会がたしか凄くてな。全員がノーミスだったんじゃなかろうか。当時の私は最終グループのそれぞれが滑り終わるたびに感涙していたような気がします。

 安藤美姫だけが精彩を欠いていたような気がしなくもないが、そこはあやふやです。ちなみに、当時、浅田真央の次に、いやもしかしたらそれ以上に有名だったのが安藤美姫。なぜかというと、女子では初めて4回転ジャンプを跳んだ選手だったからです。しかも若くて背の高いギャル。当時のマスコミは今以上に俗だったので、「美人!オリンピックで4回転跳んで!」と囃し立てたものですわ。 

 結果は、村主・浅田・荒川の順だったようです。

 トリノオリンピックの代表は村主、荒川は確実。残り一人が誰になるかというところで安藤美姫が選ばれる。グランプリファイナルでも全日本でも中野友加里が上だったのになぜ!?みたいな、そんな不満をにわかスケートファンの私は抱いたりしていました。今にして思えば、明確な基準に基づいて安藤美姫に決まったのですが、当時の私はワガママで傲慢な15歳。中野友加里が代表になるべきだったのに!と憤っていました。

2006年トリノオリンピック

 そしてトリノオリンピック。(四大陸選手権の記憶はあまりないので飛ばします。織田信成がこの後何回も繰り返すことになる無効ジャンプを跳んでいた気がする。)

マスコミの無責任な煽り

 当時のマスコミは今以上に低俗でして、全体として「日本のメダルラッシュが期待できます!!」とかなり煽っていました。加藤条治は金!上村愛子も金!ハーフパイプはメダル独占!國母和宏は日本の恥!メロラップサイコー!みたいな。

 しかし、蓋を開けてみれば、大会終盤までメダル0!

 特にハーフパイプはマスコミが論拠にしていたワールドカップには有力な選手は出ていなくて、世界との実力の乖離が激しかった。おかげさまでショーン・ホワイトに出会えたからよかったけど!

最後の希望

 そんなわけで最後の希望がフィギュアスケートでした。

 結果はご存知のとおり、荒川静香が金メダル。上に書いたとおりイリーナ・スルツカヤが金メダル候補筆頭だったので、これはサプライズでした。世間はイナバウアーフィーバーに湧きました。

 私はこの大会のビデオを何回も繰り返し見ましたね。学校から帰る度にビデオを再生して(そう当時はビデオテープの時代だったのだ!)、姉から「また見てるの?」と呆れられていました。

 女子は荒川静香が良かったのは言うまでもなく、サーシャ・コーエン黒い瞳村主章枝ラフマニノフもめっちゃよかった。

 しかし、もっと良かったのが男子。私はここで初めてプルシェンコの演技を見たのですが、衝撃でした。4回転をこんなに軽く決めるなんて! ステップも凄い! 次元が違う! 金髪が綺麗! みたいな。エキシビジョンでも、フリーの曲を弾いているヴァイオリン奏者を連れてきて生演奏でものすごいステップを披露するエンターテイナーでしたね彼は。

 ステファン・ランビエールジョニー・ウィアー高橋大輔ジェフリー・バトルエヴァン・ライサチェクエマニュエル・サンデュブライアン・ジュベール……みなそれぞれに輝いていて、何度見ても飽きませんでしたし、何度見ても泣けた。

2006年世界ジュニア選手権

 この年は世界ジュニア選手権が要注目な年でした。ポイントは以下の二つ。

 トリプルアクセルを成功させていた浅田真央は4回転ジャンプへの挑戦を始めました。結果的に、それはジャンプの調子を狂わせるだけに終わりました。たしか。

 優勝したのがキム・ヨナ。余談ですが、たしか当時はキム・ヨンアキム・ユナと表記されていた気がします。

 グランプリファイナルを制した選手をジュニアの選手が倒すというのはなかなか衝撃的な出来事のはずですが、キム・ヨナの実力はスケートファンの間ではすでに知れ渡っていました。浅田真央が自滅すればキム・ヨナが勝って当然という印象だったように記憶しています。初めて彼女の演技を見た私は「これがキム・ヨナか……! たしかに凄い選手だ!」と素直に感じました。

 ちなみに、シニアの方はあまり記憶にありません。オリンピック直後で荒川静香スルツカヤプルシェンコも出ず、そんなに盛り上がらなかったような。このときに女子で優勝したキミー・マイズナーが可愛かったのだけははっきり覚えています。

2006-2007シーズン

フィギュアスケートファンの日常

 当時の私は『ムーラン・ルージュ』の映画をツタヤで借りたり、YouTubeニコニコ動画ドン・キホーテのバレエの映像を探そうとしてなかなか見つからなかったり、そんな生活を送っていました。

 生の中野友加里を見に、それまでの人生で最も長距離の一人旅をして講演を見に行ったりもしました。ちゃちー系の講演だったので、誰でも見ることができたし、講演の後に誰でも近づくことができました。若かった私はサインを貰いに突撃するのですが、その美しさに感動。肌が白くてツルッツル。輝いていました。震えながら色紙を差し出し、どうにかこうにかサインを貰うことができました。帰宅後、日記に「中野友加里は美しい花だった」みたいなことを書いたような気がします。

 それからワールドフィギュアスケートの購読を始め、アイスクリスタルの会員になったりもしました。中野友加里関係に限らず、昔のフィギュアスケートの動画を漁ったりもしていましたね。あとアイスショーにも何回か行きました。

 新しいシーズンが始まると、中野友加里の新プログラムが明らかに。シンデレラとSAYURIでした。言うまでもなく、即『SAYURI』はツタヤで借りて見ました。SAYURIは良いプログラムでしたね。エキシビジョンでは傘を持って演じたりしてな。中野友加里の魅力が存分に出ていました。

 私はこの頃には全ジャンプを判別可能になっていたし、試合後にはプロトコルを眺めたりするようになっていました。「なんでこんな非効率的なジャンプ構成にしているんだ……」とか考えたりする日々でした。高校生は時間があっていいですね。

世界選手権を生で観戦

 この年の何が重要かと言えば、東京で世界選手権が行われたことです。世界選手権を生で観戦できる千載一遇のチャンス。アイスクリスタルの会員なのでチケットはゲットできました。特に、男子シングルのフリースケーティングは一番良いクラスの席で鑑賞しました。

 この大会もめちゃくちゃよかったですね。ジュベールは4回転ジャンプを跳びまくるし、高橋大輔もよかったし、一番印象に残っているのはステファン・ランビエール。フリーのプログラムは文句なしに芸術でした。チェコトマシュ・ベルネルもダークホース的な活躍を見せて、エキシビジョンまで楽しませてくれましたねー。

 女子の方は、安藤美姫の復活が印象的です。五輪シーズンのどん底が嘘のようにキレッキレの演技を披露。世界選手権でも浅田真央キム・ヨナを上回り優勝します。(言い換えれば、この大会で2位と3位にキム浅田コンビが入っているわけで、この二人の時代がここから始まります。)我が愛しの中野友加里は2年連続の5位でした。

羽生結弦の発見

 翌シーズンの話ですが、全日本ジュニアをテレビ観戦していて、12歳なのにトリプルアクセルを含む三回転ジャンプをすべて跳ぶうえに、ビールマンスピンまでできるものすごい選手を見つけました。「この子は絶対に凄い選手になる!」と確信したものです。キノコ頭が可愛かったその少年の名前は羽生結弦

 しかし、私は彼が大成するのを見届けることなくフィギュアスケート観戦をやめてしまいます。そのきっかけになったのがバンクーバーオリンピックです。

バンクーバーオリンピック

 バンクーバーオリンピックは私にとって最悪の大会でした。

 バンクーバーオリンピックの前シーズンから受験生になった私は、前ほど熱心にスケートを見ることはできなくなっていました。たぶん。だからかこの頃の記憶は若干あやふやです。

 でも浪人生の頃に、中野友加里にファンレターという名のラブレターを出そうか悩んでいた記憶があるから、やはり熱心なファンではあったようです(字が下手なので出さなかった)。だからこそ、私はフィギュアスケートから足を洗うことになったのだと思います。

中野友加里の代表落ち

 まず、オリンピック代表選考。中野友加里ファンの私は、絶対に中野友加里にオリンピックに出てほしかったのです。なぜならこれが年齢的に最後のチャンス。これを逃したら、もうオリンピックで中野友加里の姿を見ることはできません。

 しかし、オリンピック最後の枠は鈴木明子に決まりました。たしかに鈴木明子の演技は美しかったです。が、中野友加里至上主義者の私にとっては素直な気持ちで見ることは不可能でした。鈴木明子を応援する気になどなれません。落胆は深い。

浅田真央の銀メダル

 次に、当時、話題になっていたのが浅田真央キム・ヨナの判定を巡る問題です。浅田真央に対する審査が厳しい一方で、キム・ヨナに対する審査が緩いのではないか、というのが一部の界隈で噂になっていました。

 陰謀論を信じたいお年頃だった私は完全にこれを信じていたので、バンクーバーオリンピック浅田真央がベストの演技ができなかったのを見て、「浅田真央が可哀想過ぎる!」と怒りに震えながら大学入試を受けた記憶があります(たしか試験の一日目がフリースケーティングの日だったんじゃなかろうか)。

プルシェンコの敗北

 さらに、男子シングルでエヴァン・ライサチェクが優勝したのも私にとっては最悪の出来事でした。

 トリノオリンピックプルシェンコに魅了され、その翌シーズンに4回転を跳ぶ選手が世界選手権の表彰台に立つのを見ていた私は、「男子選手は4回転を跳ぶべきだ」と考えていましたし、今でもそう思っています。

 ところが、この頃、「4回転はリスクが高いんじゃない?」という派閥が現れ始めていて、その筆頭がエヴァン・ライサチェクでした。その逆に「男子は4回転跳んでなんぼじゃろがい!」派がエフゲニー・プルシェンコ

 プルシェンコの演技は完璧ではなかったものの、ステップアウトが多かったくらいで転倒などの大きなミスはありませんでした(私の記憶では)。対してライサチェクは4回転を回避し、完璧な演技を披露。結果はライサチェクの勝利でした。これも私にとっては容認し難いことでした。

 本来、ライサチェクは私も好きな選手でした。手足の長いイケメンで、彼のカルメンは最高です。でも、スポーツ選手が限界に挑戦しなくてどうするという気持ちが私の中にはありました。今では本気で勝利を狙うなら勝率が高い道を選ぶべきだというのは理解できます。ただ、それでもやっぱり、好きなのは困難に挑戦する選手なんですよね。だからこそ浅田真央中野友加里プルシェンコに惚れたのだと思います。

フィギュアスケートを見ないことに決める

 そんなわけで、三重の苦しみが私を襲いました。そして大きな失望を覚えました。

 歪なジャッジによって選手の努力が否定される最悪のスポーツ。私の中でフィギュアスケートはそういうスポーツと化しました。そして決めたのです。もう二度とフィギュアスケートを見ないと。

 客観的に見ればワガママなやっちゃな~という感じですが、やはり当時の私は若かったのでしょうね。

 時を同じくして、中野友加里の引退が報じられました。

北京オリンピック

 それから12年の時が経ちました。フィギュアスケートへの関心が薄らぐかわりに、複雑な感情はもはやありません。

 北京オリンピックの女子シングルは時間帯もよかったし話題になっていたので最終グループは観戦しました。

 昨日も書きましたが、なかなかに悲しい気持ちになる大会でした。

weatheredwithyou.hatenablog.com

 これほど悲しいスポーツの試合はそうそうありません。

 今や一般大衆である私ですらそう感じるのです。フィギュアスケートのファンであればあるほど、悲しみは深いはずです。

 中には、バンクーバーオリンピック直後に私が抱いたのと同じような気持ちを感じている人もいるのではないでしょうか。

 トゥルソワが言ったとされる「スケートなんて嫌い」という言葉が突き刺さった人もいるのではないでしょうか。

フィギュアスケートの特質

 フィギュアスケートがこれほど複雑な感情を抱かせるのは、それが採点競技であることに起因しています。

 もしこれが短距離走だったら、とにかく速く走ったものの勝ちです。私がどれだけ中野友加里を応援していようが、中野友加里より速く走る選手がいたのなら私は納得せざるを得ないのです。

 もしこれが卓球だったら、勝った方が正しいのです。「卓球選手はこういう戦型で戦うべきだ」と信じていたとしても、違う戦型の選手に勝てないのならそんな信条に意味はないのです。

 そこにジャッジが介在する余地はほとんどないからです。ほとんどの場合、勝敗は誰の目にも明らかです。

 しかし、フィギュアスケートは違います。何が正しいかはジャッジが決めます。微妙な4回転ジャンプと美しい3回転ジャンプのどちらに高得点を付けるかはジャッジの判断で決まります。技術レベルが等しい選手の優劣もジャッジが決めます。そのうえ、観戦者は自分もジャッジになったつもりで見ます。ここに難しさがあります。

 さらに、全盛期が10代で訪れることが多いというのも、難しさを生んでいます。今回のオリンピックの問題もここに原因があります。もしワリエワが30歳であれば、即追放で終わった話なのです。同情の余地なし! それに4年経てばまた復帰できんじゃんともいえます。でも、若いワリエワは大人の言いなりになっただけなのかもしれない。それなのに、才能豊かなスケーターの競技人生がこんなにもあっさりと幕を閉じてしまうかもしれない。今回の事件が悲劇たる所以です。

 だから、フィギュアスケートを熱心に追っていれば、この難しさに起因する問題に必ずぶち当たることになります。他のスポーツでは考えられない、嫌な気持ちを味わう可能性が(相対的に)高いです。

 フィギュアスケートのファンでいるにはやはり覚悟が必要なのだと思います。

後悔

 人生にはフィギュアスケート以外にも楽しいことがいっぱいあるし、見なくて損こいたということは基本的にないと思います。

 ただ、私はフィギュアスケートを見なくなって後悔していることが一つあります

 それは羽生結弦の成長をろくに見守ることができなかったことです。

 まだ幼かった頃の羽生結弦を見てその才能に気付いていたのに。日本人初めてのオリンピック金メダリストになるのも、オリンピック連覇の偉業も、全部ニュースとしてしか知らない。

 あの時、フィギュアスケートを見るのをやめていなければ、応援する選手が金メダリストになる姿を見られたかもしれない。応援する選手が4回転を復権させてくれるのを見られたかもしれない。羽生結弦が、バンクーバーオリンピックで私が抱いた鬱屈とした気持ちを晴らしてくれたかもしれない。

 これはかなり大きな後悔です。

 もし、フィギュアスケートなんてもう見たくない!という気分になっている方がいたとしたら、本当にそれで後悔しないかは考えてみて欲しいなーと思います。

 私は今回の大会で興味が湧いたので、昔ほどの熱量は取り戻せないと思いますが、またフィギュアスケートを見ていこうかな~という気分になりつつあります。