たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

乃木坂46『君ロス』選抜について語ります

 乃木坂46の43枚目シングル『君ロス』のフォーメーションが発表された*1ので語ります。

センターについて

 センターには井上和が選ばれた。井上は4回目のセンター。これで回数としてはかきさくに並ぶ。歴代でさらに上にいるのは白石・齋藤が5回、生駒が6回、西野が7回。どこまで記録を伸ばすのか期待に胸が高鳴ります。

 そもそも今回、運営が取れた選択肢は大きく分けると次の5パターンがあり得たと想像する。

  1. 井上センター
  2. かきさくセンター
  3. 五百城・小川・川﨑センター
  4. 瀬戸口センター
  5. 中西センター

 安心感を取るなら1or2、5期生のプロデュースを強化するなら3、5期生の後を考えるなら4、歌で勝負するなら5といったところか。

 その中で今回は井上を選んだと。たしかにこの1年の井上の活躍は目覚ましいものがある。ANNパーソナリティを務めながら、大河ドラマ&ピクサー映画出演、舞台『千と千尋の神隠し』の千尋役に選ばれる(年内に開演!)などなど……。乃木坂で今最も世間の目に触れる機会が多いメンバーかもしれない。彼女を乃木坂46の顔に据えるのに今以上のタイミングがあろうか? いや、ない!

次期センターを占う(?)フロント&2列目

 気になるのは来年以降のことである。

 今回センターに選ばれなかったことで、瀬戸口が来年中にセンターに選ばれることはほぼ確定した。5期生だっていつかはいなくなるんだから。その時6期生が育っていなかったら乃木坂46は終わりだと言っていい。

 問題は「来年のいつか?」ということである。春夏秋冬のいつか?

 私だったら夏曲センター一択。なぜなら夏曲センターには真夏の全国ツアー座長というほかのセンターとは違う責任が乗っかってくるからである。瀬戸口に早めにこの重責を担わせておきたいと運営も考えるに違いない。

 そしてもう一つ大問題がある。来年あたりには賀喜か遠藤のどちらかが卒業してもおかしくないということだ。二人はシングルに参加してから今回で20作目。参考値として、西野が卒業したのは22作目、白石が25作目。ひいいいいい……!

 そして遠藤と賀喜に関してほぼ確実に言えるのが、卒業センターをやるということだ。そして、二人同時または連続して卒業することもないと断言してしまってたぶん大丈夫だろう。

 まとめると、来年は瀬戸口・かきさくのどちらかがそれぞれセンターを1回やる可能性が高い。そして、これはもう願望だが、たぶんかきさくが卒業するなら春ではなく冬だろう。(だって春だとちょっと早すぎるじゃん?)

次は川﨑・小川・中西か

 仮にそうだとすれば、来年5期生がセンターを務めるチャンスは次回のシングルのみ。

 井上は2作連続になってしまうからないものとしよう。

 残る有力候補は川﨑・五百城・小川・中西の4人に絞られてくる。

 ここで問題になってくるのが今回の待遇である!

 なぜならば、過去に3列目からセンターになった例は白石卒業後の山下だけだからだ。白石の卒業シングルでは1期生が全員選抜され、1期生以外は全員3列目に下げさせたという極めて特殊な状況があった。今回はもちろんそんな事情はないので、3列目になってしまったメンバーには次期センターの見込みはほぼないということになる。なんてこった!

 そんな中、五百城が2列目から3列目に落ちてしまった。これはショック。

 逆に2列目に上がった小川と中西は一気に次期センターの可能性が浮上してきた。

 特に中西は前回センターになった時も3列目→2列目→センターという動きをしていた。その再現があるか? それに、このまま行くと井上和が5期生の中で突出してしまうが、並び立つ者として中西アルノが必要なんじゃないか。アルノという影があるから光の井上が引き立つんじゃないか。和アル推しの私としてはそう問わずにはいられないのであります。

 もちろん、今回2回目のフロントに選ばれた川﨑が最有力候補なのは間違いない。

 こうして考えてみると、実は今回最も注目すべきは五百城・小川・中西の動向だったのかもしれない。

3列目争いについて

 2列目争いよりもファンの注目が集まるのが、選抜かアンダーかの当落線上である3列目なのではないか。

明確なコンセプトがあるアイドルは強い

 今回、金川が選抜に上がったわけだが、これはもう誰もが納得でしょう。ここ最近の金川はキャラの確立に成功し、開花した感がある。

 瀬戸口を見ていて感じたことだが、明確なコンセプトがあるアイドルは強い。瀬戸口心月のコンセプトはチアリーダー。とにかく元気で、見ている人まで元気にしてしまうアイドル。ちょっと(かなり?)天然なところも「難しいことをごちゃごちゃ考えない」という方向で元気キャラを強化している。遠藤さくらはTHE清楚。『乃木坂工事中』で先日行われた「さくちゃん捜査会議」も清楚すぎて他を寄せ付けない遠藤のキャラクターあってのもの。池田も現役東京藝大生という肩書きが元々持っていた気質を確固たるキャラにしてくれている(ちなみにただの美大ではなく東京藝大というところがポイント。国立なので知的イメージが付加されクイズ番組にも呼びやすくなる。たぶん)。などなど……。

 逆に矢田ちゃんは運営が『タイムリミット片想い』で最初に打ち出した儚げでミステリアスなイメージと本人の明るいキャラにギャップがありすぎるのが瀬戸口との差になってしまっている気がする。でも矢田ちゃんのキャラが分かってないうちだったからこそ、あの『タイムリミット片想い』が作れたわけで……悩ましいところだ。

 コンセプトが明確なだけではなくて、それがアイドル活動に寄与することも必要ではある。黒見の野球好きキャラを『乃木坂工事中』で活かすのはなかなか難しい。ただ、乃木坂の外に目を向ければ間違いなくプラスではある。卒業後に活躍するイメージのしやすさは4期生の中でもトップクラスでは。

 その点、金川の「ナルシストで良い女な狂犬」は乃木坂工事中でも使いやすくて良いコンセプトではなかろうか。そんな彼女が最近心掛けているのは挨拶とちょっとの勇気だそうな。*2素晴らしいね。

どうなる冨里

 そんな金川のキャラ確立に貢献した冨里は選抜落ち。ブログで苦しい心境を吐露している。

www.nogizaka46.com

 ただ、客観的に見れば、冨里の待遇はさほど悪くない。これまで5回も選抜されているが、これは奥田岡本より上。前作時点で先輩の林と同じ回数でもある。5回のアンダーのうち2回はセンター&フロント。しかもまだ20歳。まだまだこれからチャンスはいくらでもある。

 5作連続選抜の後の5作連続アンダーなら落ち込むのも分かるが、まだ2作連続アンダーになっただけの話。そして同期の岡本が2作連続アンダーの後に選抜に上がったのを見たばかりだというのに、なぜ焦るのか。

 焦りの原因は6期生の加入か、それとも一つ下の小川との差か。はたまたこの選抜に入れるかどうかという一番振り回されやすい立場自体がストレスでそこから早く抜け出したいということなのか。それとも単純にどういうアウトプットをすればどんなフィードバックが返ってくるのかが分からないのが苦しいのか。

 センター曲が『考えないようにする』なのに考えすぎではないか。いや、考えないようにしても考えてしまうから考えないようにしないといけないのか。

 良く言えば志が高いということではあるが、それが吉と出るか凶と出るか。

あやめんがいるから久々にアンダラに行くか

 それから注目せざるを得ないのは筒井の選抜落ちである。

 これまで選抜落ちを経験したのは山下の卒業シングルの時だけ。これからしばらくはアンダーに定着するだろうし、エリート街道を駆けてきた彼女にとって今回は一つの分岐点である。

 ここ3年ほど福神になれず、かといって選抜から落ちる心配もないという良くも悪くも安定してしまっていた彼女にとって、もしかしたらこれが良い転機になる可能性がなくはないかもしれない。

 ちなみに私は昨年髪を切って以来あやめんの虜でして、今となっては和アルの次に好き。いや、写真を見た時の興奮度で言えば……と迷うくらい好き。そんな私が今どんな気持ちなのか参考までに*3書いてみる。

 まず、そもそも疑惑が事実なのか半信半疑な気持ちもなくはない。所詮憶測に過ぎないというのと、「まさかあやめが」という思いがあるから。それと、事実かどうかはさておき否定する&否定の余地があるのは大事。認めない限り事実は確定しないから。『ラブライブ!』を見ていた私はそれを知っている。だが、本当にやっていたのだとすれば「そんなに彼のこと好きだったのねあやめん……」と思ったりもするし、そうだとすれば関係を否定した時に(関係を清算しているとすればなおさら)どんな気持ちだったのか、そうじゃなくてちょっとした火遊びのつもりだったとすれば相手の男の子は関係を否定されてどんな気持ちだったのか、などなど思いを馳せて切なさを感じたりもする。また、かつて欅の今泉推しだった私からすれば相手が真人間ならええやんええやんという気持ちはけっこうある。でもだからといって乃木坂である以上はプロ意識が欠如しているのは間違いないことで、グループにとって有害でもある。アンダーに落ちるのは残念だが当然。でも可愛いことに変わりはない。

 そんなところか。

 当人たちの気持ちは知りようもないが、ファンにとってアンダーはさほど悪いことではない。アンダーライブで会えるようになるんだから。上のような議論を散々しといてなんだが、選抜とかアンダーとかポジションなんてものは所詮は格付けに過ぎない。観客からすればどうでもいいことだ。

 というわけで、筒井あやめを見るために久々にアンダーライブに行きますよ私は。ちなみに直近3作のアンダーセンターは5期生。でも今回アンダーの5期生はどちらもアンダーセンター経験者。4期生も黒見以外はアンダーセンター経験あり。2回目行っちゃう? 行っちゃうのか? それとも6期生? うるみんか? うるみんで行くのか? だからアンダーなのか? 早くないか? でも確かにアルノがアンダーセンターをやったのは今のうるみんくらいの時期だった。そう考えるとなんだかんだアルノってアンダー時代も期待を背負わされてたんだなあ。と気づかされるなどなど、アンダーのフォーメーションにも要注目ですわこりゃ。

ミュージカル『秘密の花園』 感想

 奥田いろは主演のミュージカル『秘密の花園』を見てきた。

musical-secretgarden.com

大手町を歩く

 場所はよみうり大手町ホール。名前から察せられるが、読売新聞ビル内にある施設である。ビルの中には新聞やジャイアンツや駅伝に関する展示があり、想像していた以上に「よみうり」感漂う施設であった。中央公論新社って読売の系列だったんだなあ。

 儲けだけを考えれば、新聞社がこういう施設を作る必要は別にないはず。文化振興のために投資をしようという姿勢が素晴らしい。

平将門の首塚

 私は開場1時間前に着き、ホールの入り口が閉鎖されていることを確認。近くをぶらついて暇を潰すことにした。

 よみうり大手町ホールは当然のことながら大手町にある。大手町という名前は、江戸城の大手門に由来する。というわけで江戸城=皇居にGO!

 ところがすでに入場時間は過ぎており、外から眺めるだけで終わった。

Geminiに通行人をサバンナの動物たちに置き換えてもらいました。

 大手門のすぐ側には、平将門の首塚がある。

 平将門といえば、平安時代に関東で反乱を起こし新皇を名乗った男。後にも先にも天皇に代わる立場を名乗った人はこの人しかいない。(教科書で習う範囲では。あとWikipediaを見たら、別に朝廷を打倒しようなんてあれではなく分国の王ぐらいの意図の呼称だったらしい。)『天外魔境ZIRIA』のラスボスでもある。

 オフィスビルの中にポツンとあるそれは、資本主義の営みから切り離されたような独特の存在感を放っていた。

平将門の首塚

 天外魔境のせいで私の中で平将門は悪役であり続けてきたのだが、看板には平将門を悪政に立ち向かった若き英雄として讃える文章が書いてあったので驚いた。たしかに朝廷目線から見れば反逆者でも、関東の民から見ればそういう見方もできるのかもしれない。

こぢんまりしたミュージカル

 その後ジェラートを食べていたら開場時刻になったので、再び大手町ホールへ。

 当たり前だが、今度は入り口が開いていた。最近こたけ正義感の『逆転裁判』実況動画を見ているので、条件を満たしたら次のイベントに移行できることに「なんだかゲームみたいだなあ」と思った。生活がゲームに侵されつつある。

 プログラムを買っていざ中へ。

 今回はかなり幸運なことに2列目の席が当たっていた。どんなものかと思ったらめちゃくちゃ近い。

 開演5分前までは撮影可とのアナウンスがあったので、即座にパシャリ。その写真がこちら。

写り込んだ方々をGeminiにぬいぐるみにしてもらいました。AIって便利。

ここに奥田いろはが立っていた!

 一番近いところで2mぐらいの距離じゃなかろうか? もはや知り合いの距離感である。口から飛ぶ唾も、きらりと光る鼻水も克明に見える。すごい。

 思うに、こういう席が取れるかどうかは運である。ということは試行回数を増やせばいつかは良い席に巡り合うということである。良いミュージカルは繰り返し見たくなるもの。結論、同じ作品でも複数公演のチケットを取りに行くということが良い観劇体験を生み出すのではないか?という仮説が私の中で浮上した。井上和ちゃんが出演する『千と千尋の神隠し』は何回も見に行こう。

 それにしても、けっこう凝ったセットである。こんなに小道具がたくさん置いてあるのは初めて見た。子どもたちの暮らす小さな世界が舞台上に構築されている。

 なぜこのようなセットを作れるのか。そして、なぜほかのミュージカルでなかなか見られないのか。その理由はただ一つ。場面転換だ。普通ミュージカルでは場面転換があり、その際に大道具がぐるりと回転したり移動したりする。小道具が満載だと、それができなくなってしまう。それゆえに通常のミュージカルでは必要最低限の小道具しか登場しない。ところが、『秘密の花園』には場面転換がほぼない。ゆえに大道具の移動を考える必要がなく、小道具をたくさん置けるというわけ。

 そう、『秘密の花園』には場面転換がない。その観点から言えばこぢんまりとしたミュージカルである。

 いや、そもそもこの『秘密の花園』というミュージカルはこぢんまり尽くしである。よみうり大手町ホールはキャパ500人のこぢんまりとした会場だ。キャストも奥田いろはを含めて4人しかいない。1役がダブルキャストなので総勢5人のこぢんまりしたチームである。もっともっと言えば、公演期間もたった2週間だけ。こぢんまりしたスケジュールだ。

 このこぢんまりさに反比例して、奥田いろはの責任は重くなる。前回見に行った『民王』のように登場人物が10人以上もいるのであれば、一人の役者の責任もまた単純計算で10%以下である。対して、キャストが4人となると、一人当たりの責任は25%に跳ね上がる。しかも奥田は全ての場面に関与しているので、このミュージカルの50%は奥田でできていると言っても過言ではない(かもしれない)。

 逆に言えば、奥田はそのような立場を任されるほどの存在になっているということだ。『民王』ではミュージカル初出演の林を心配しながら見ていた私であったが、今回はそのような心配は一切ない。現役乃木坂メンバーの中で最もミュージカルで活躍している彼女が、一体どのようなパフォーマンスを見せてくれるのか。その期待に胸を膨らませるだけだ。

こぢんまりしてない演技

 鐘の音と共に舞台が始まる。

 圧巻。奥田いろはの歌は圧倒的で鳥肌が立つ。愛嬌たっぷりの演技に魅了されてしまう。プログラムにメアリーは「わがままなお嬢様」とあったので嫌な奴なのかと思っていたが、奥田が腕を広げながら「着替えさせて!」と言う姿は愛らしさに満ちている。性格が悪いわけではなく、メイドに甘える子どもなのだ。

 メイドのマーサを演じるデボラを演じる彩みちるは、歌も去ることながら、コマドリ捌きが素晴らしい。笛を口に咥えながら、美しいコマドリの歌声を再現。この方は宝塚出身なのだが、四季以外のミュージカルを見に行くと必ず宝塚出身者がいる。安定の宝塚クオリティ。と考えると、なんだか工場のようにミュージカル女優が出荷されていく光景を想像してしまうのだが、生身の人間を扱う以上そんな簡単な話ではないだろう。お姉さんとして振る舞うデボラを見ながら、彩みちるが宝塚音楽学校に合格した瞬間の表情とか、教えに従いながらも従順なだけではいられずむしろそんなところから個性が発露するのかもしれないとか、そんなことに思いを馳せてしまった。

 雷太も歌が上手い。が、それよりなにより、とにかくめっちゃ良い人そう。演じている役柄もめっちゃ良い人。行きの電車で佐藤雅彦の『考えの整頓』を読んでいたのだが、そこに人間の最大の関心事は「この人は敵か味方か」だと書かれていた。ビーグルもディコンも、それを演じている雷太も、「この人は味方だ」と思わせてくれる安心感がある。見習いたい。これで本当はめちゃくちゃ性格が悪いですとかめっちゃDVしてますとかめっちゃ浮気してますとかだったらかなりショックだが、仮にそうだったとしても演技力の証明にはなるかもしれない。(本当に良い人であってほしい!)

 島太星は、まず舞台に出てきた時の佇まいに驚いた。

 事前に見た記者会見の映像などで知ったのだが、島太星は乃木坂で言えば弓木系の天然お兄さんなのである。


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 これが舞台に上がると、本当にスイッチが入ったように役に入り込んでしまう。単純に演技力が高いのか、ギャップで一層演技力が高く見えてしまうのかはわからない。前者だったら後者のように思われてしまうのはもったいないけど、面白いから良いか。

 で、この人も本当に歌がうまい。ただ上手いのではなく、ちゃんと演技しながら歌ってるからすごい。病弱の少年コリンとして歌う場面があるのだが、病弱の弱々しい声を表現しながら歌声をホールに響かせていた。歩きながら走るみたいな、矛盾する要求を成立させている。すごい。もしかしたら奥田以上に衝撃を受けたかもしれない。

 たった4人のミュージカル。責任が重いのは奥田に限ったことではない。全員が重要で、だからこそ実力派が揃えられたのだと感じた。

 こぢんまりしたミュージカルもスケールの大きな役者が演じれば大きな感動を観客に与えることができるのである。

劇中劇の二重構造がもたらす魔法――ミュージカル『秘密の花園』の構造美について

 本作の脚本についても触れておきたい。

 原案となった『秘密の花園』は、フランシス・ホジソン・バーネットが1911年に発表した児童文学の名作だ。両親を亡くして叔父に引き取られた気むずかしいお嬢様メアリーが、閉じられた「秘密の花園」を見つけ、そこで仲間とともに過ごすうちに心を再生させていく物語。これまでも幾度となく映像化や舞台化がなされてきた。

 しかし、今回のミュージカル化にあたっては、単なる原作の再現にとどまらない、新作と言っていいほどの果敢で大胆なアレンジが施されている。

 主軸となるのは、孤児院で暮らす18歳前後の若者たち4人のドラマだ。年齢制限により養子として引き取られるかどうかの瀬戸際に立つ彼らは、離れ離れになる前の最後の思い出として、かつて演じた『秘密の花園』の劇を再演し始める。

 つまり、物語全体が「孤児たちの現実」と「彼らが演じる劇中劇」という二重構造によって紡がれているのだ。

 この一見複雑な構造は、作品に劇的な効果をもたらしている。

 1. 観客と登場人物の視点を同調させる仕掛け

 本作では、場面転換がほぼ行われない。舞台装置は終始「孤児院の一室」のままだ。

 子どもたちが自室で秘密裏に演じている以上、背景やセットが目まぐるしく変わらないのは設定上理にかなっている。制作費の低減という実用的な側面も当然計算されているだろうが、この手法の本質はそれ以上の演劇体験を生み出す点にある。

 場面転換がないため、観客は目の前の空間を「今ここは屋敷の庭だ」「ここはメアリーの部屋だ」と、自分の想像力で補完しながら観ることになる。

 そしてこれこそが、作中で『秘密の花園』を演じている子どもたち自身が試みている体験そのものなのだ。目の前の光景を想像力で立ち上げているという点で、観客の意識は登場人物たちの体験と完璧に同調する。

 2. 「物語の力による再生」というテーマの可視化

 観客が登場人物と同じ体験を共有することには、非常に大きな意味がある。

 なぜなら、この作品の真のテーマは「傷ついた人間が、物語を紡ぎ、演じることを通して心を救われていく」という、「物語が持つ力」そのものだからだ。

 劇中劇のメアリーたちが心をひらいていく姿と、それを演じることで自らの現実と向き合い、自立への一歩を踏み出す子どもたちの姿。観客もまた彼らと同じように物語の世界を胸の中で立ち上げることで、彼らが救われていくプロセスを肌で実感することができる。

 3. 多層的な相似形が生み出す、深い味わい

 さらにこの二重構造は、二つの物語の間に無数の「相似形」を浮かび上がらせる。

  • コリンとチャーリー
    屋敷の人々から「もうすぐ死ぬ」と思い込まれ閉じこもっていたコリンと、18歳になるまで誰にも引き取られず社会の隅に追いやられていたチャーリー。
  • メアリーとエイミー
    一羽のコマドリに導かれて秘密の花園を見つけたメアリー。そして、コマドリの模型を見つけたことをきっかけに、再び仲間と『秘密の花園』を演じることを思い立つエイミー。

 劇中劇の『秘密の花園』は、そのまま彼ら孤児たちにとっての「自立や希望に向かうための秘密の花園」でもある。

 現実と虚構が美しく響き合い、観るたびに新たな重なりを発見できる楽しさがそこにはある。

奥田いろはにとっての「秘密の花園」

 『秘密の花園』には脚本の構造美がある。ここで想起するのは、韓国ドラマ・映画の脚本のレベルの高さである。その技術論が演劇界隈にまで及ぶとすれば、韓国ミュージカルのレベルも高くて当然なのかもしれない。

 もう一つ、韓国を感じたのは、孤児院の子どもたちが養子に選ばれず苦悩するという設定だ。韓国エンタメでは、社会の上下構造がテーマに選ばれることが多いと私は思っている。『パラサイト 半地下の家族』が私の初めて見た韓国映画だったからかもしれないが。『秘密の花園』もまた、そのような上下構造の中で登場人物たちがもがいている。

 その意味において、エイミーに奥田いろは以上の適任がいるだろうか。いや、いない。

 日本には乃木坂46という格差社会の象徴のようなグループがある。このアイドルグループは、CDシングルの表題曲に選抜されたメンバーしか参加させない。選抜メンバーは冠番組での出演機会も多くなり、メディア露出も増える。アイドルになる段階で選抜をしているのに、アイドルになった後も選抜をし続ける。大学受験を突破するとすぐに就職活動で競争に晒される日本人にとっては他人事と思えないグループなのである。

 このグループの一員が誰あろう奥田いろはだ。彼女も選抜されたことはあるものの、その回数は決して多くはなく、この1年は選抜から漏れ続けている。これほどの実力があるにもかかわらず。

 この上下構造の中でミュージカルに活路を見出し着実に足場を築きつつある奥田いろはの姿は、まさにエイミーとメアリーそのものだ。

 特に今回の『秘密の花園』は、ベテラン俳優がおらず、若手俳優だけで構成されている。演出の桑原裕子が40歳で脚本のキム・ソルジは38歳だから、裏方の偉い人たちもかなり若い。

 『秘密の花園』は、若者が若者の力で作り上げるまさに秘密の花園のようなミュージカルでもあるのだ。

 二重構造だと思ってたら、もっと俯瞰して見たら三重構造だった。すごい。キム・ソルジ天才。

奥田いろはの乱

 こうなると欲張って四重構造にできないかという気持ちになる。

 そこで冒頭に書いた平将門の首塚である。林立する高層ビル。インフレし続ける東京の地価。その中にあって、富を生み出すこともなく存在し続けるあの静謐な空間。あれこそ現代の秘密の花園というべきものではないだろうか。

 平将門は享年38歳だという。彼は関東という田舎で当時の階級社会に立ち向かった若者だったのである。

 将門に見守られる大手町で、奥田いろはが乃木坂という階級社会に反旗を翻す。『秘密の花園』は奥田いろはの乱なのである。

 うーん、ちょっと無理があるか。奥田いろはは誰よりもプリンセスだからな。

youtu.be

『イチャイチャ虫』のMVについて語ります。

 日向坂46の『イチャイチャ虫』のMVが非常に良きなので語りまする。


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テーマは空間

 このMVのポイントは「空間」である。

列柱

 私はアイドルが一列に並んでいるのが大好き人間。

 忘れられないのが、乃木坂46真夏の全国ツアー宮城公演の『おひとり様天国』がカウントダウンTVで中継された時のこと。それを見ていた私の目からは涙が流れた。可愛い女の子が次々と繰り出されたことに感動してしまったのだ。可愛いが人を感動させるとは、その時まで知らなかった。

 その時に「可愛い子が多すぎる」と私に感じさせたものこそが、横並びに一列に並んだメンバーたちを斜め横から撮った構図。

 そんなもんだから、『イチャイチャ虫』の次のカットは私のツボに刺さりまくった。

 多人数アイドルは一列に並んでなんぼである。

 ところで、構築的な空間を構成するものの一つに、列柱がある。パルテノン神殿を思い出してほしい。

Geminiに生成してもらったパルテノン神殿

 柱が並んでいる。それだけで空間は生まれるのである。(「それだけ」と言っていいほどパルテノン神殿は単純な建築ではないが。)逆にいえば、それほどの力が柱にはあるのである。

 柱は古来から人間の身体を模してきた。逆にいえば、人間が直立していれば、それはもう柱なのである。

 故に、アイドルが並ぶとそこには空間が生まれる。

 ただし、あまり密集しすぎると空間は失われてしまう。とにかく並べばいいというものではない。ちょうどいい塩梅が必要なのだ。私の感覚では3列になってしまうと、もう空間は失われてしまう。だから一列がいいのである。

 このカットも好き。ちなみに、リハーサルダンス動画を見ると、この並びになる瞬間は存在しない。ダンスの中の一部を切り取ったらこうなったのではなく、MV用にあえて列柱のごとき構図を作ったのである。 

 さらに、クライマックスには本物の列柱が登場する。列柱こそがこのMVの見どころの一つであることは疑いようがない。

 ひとり佇む正源司は何を思う。彼女の心の中には、ただ好きだとか寂しいとか、シンプルな感情ではなく、複雑な奥行きのある何かが渦巻いているはずである。

 そう感じさせるのは、列柱のパワー。

 次のカットにはより注目したい。

 両側に列柱が立ち並び、消失点が画角の中に収まっている。が、道はカーブしてその先は見えない。無限に続くかのような空間が立ち現れる。

 それは果てしなく続く人生のようである。かくして、時間の感覚が映像によって生み出される。歌詞は繰り返されているが、それまでの「イチャイチャってる」とはまた違う聞こえ方がしてくる。

 イチャイチャの先には果たして何があるのか? 二人は永遠にイチャイチャすることができるのだろうか?

 とぼけた歌詞の裏側にある複雑な感情、あるいは願いに我々は気付かされるのである。

視線

 隈研吾の新・建築入門 ──思想と歴史 (ちくま学芸文庫)にこんなことが書かれている。

フランク・ゲーリーは、かつて建築と美術の違いは何かという質問に対して、次のように答えた。「簡単なことです。建築には窓があり、美術には窓がない」。(中略)窓があるということは、建物の外部から建物の内部を見ることができるだけではなく、建築の内部からも建築の外部を見ることができるということを意味する。主体は建築の外部から建築という対象をひとつの客体として見ることができると同時に、建築の内部にはいりこんでそこから外部を客体として見ることもできるわけである。(中略)この反転可能性こそが、建築を建築たらしめているとゲーリーは考えたのである。

 これを読んで、「窓のない建築もあるやんけ」と思ったかもしれない。その点は隈研吾もツッコんでおり、そこからより厳密な建築の定義を構築しようと試みる。

 ここで大事なのは、こちらからもあちらからも見れる状態は空間を生むということである。

 つまり、画面の中の小坂菜緒がこちらを見つめてきたとき、そこには小坂菜緒と我々を包み込む空間が発生するということである。

俯瞰で見る小坂菜緒ちゃんはいつにも増して魅力的ですね。

 だからというわけではないが、上のカットもまた好きなカットの一つ。

 後ろで無秩序な配置で踊るメンバーの存在も良い。小坂と一緒に踊っているのではなく、背景に没しているというところが大事。背景がアイドルという贅沢さが、この空間に豊潤さをもたらしている。価値のないもののポジションに価値のあるものを置くことで、ボトムラインがグッと引き上がるように感じる。

 それはそれとして、メンバーが視聴者を見る印象的なカットがもう二つある。

 一つ目がここ。

 美しい……。大野愛実……やはり天才か。かほりんも流石です。

 二つ目がこちら。

 うーん、こちらもグッときますね。

 とはいえ、アイドルがカメラ目線なのは珍しいことじゃない。だから、ここでポイントになるのは、「こちらを見ていない状態」からの「こちらを見ている状態」への変化だ。我々が見る客体としてのアイドルから、我々を見る主体としてのアイドルへの変化。逆に、我々はアイドルを見る主体からアイドルに見られる客体へと変化する。この変化が見る者の心を動かすのである。

(ではなぜその変化がない俯瞰小坂がグッとくるのかと言えば、俯瞰は客体化の力が強いからである。人の目は前についているのだから、正面から撮ればカメラ目線になるのは当たり前。一方、俯瞰で撮っている時に自然とカメラ目線になることはない。俯瞰カメラ目線は、被写体の明確な意志を表している。それを踏まえると、上の二つのカットがどちらも流し目なのは、これまた5人の主体性を強める効果があるに違いない。)

空間の変質

 空間は我々の行動を規定する。高級レストランや社交の場にドレスコードがあるように、すべての空間にはそれぞれ固有の行動のコード(規範)があり、我々はそれに従って生きている。

 例えば、ボクシングのリングではボクシングをするものと相場が決まっている。

元空手少女ならではの眼差しに痺れる

 ラーメン屋でも粛々とラーメンを食べることが求められる。そこにほかの客の邪魔になる大荷物を持ち込めばこんな目で見られることになる。

白い目で見るだけで面白いのは山下ならでは

 ヘッドフォンはパブリック空間の中にプライベート空間を構築しようという慎ましやかな試みである。

 では、我々は空間に規定されるだけの存在なのだろうか。

 実はそうではない。むしろ、我々がコードに従うことでその空間が規定されているのではないか。つまり、人間の行動こそが空間を規定するのではないか。

 そんな風に思わされるのが、以下の一連のショットである。

 公共空間でイチャイチャするというコード違反を犯す正源司陽子。それは正源司の非常識な行動を表すはずであるが、これらの場面ではそのようなニュアンスは存在しない。

 なぜならば、正源司以外の構成員がダンスを踊っているからである。当然、プラットホームもカフェもラーメン屋(あるいは中華料理屋)も、いずれもダンスをしていい場所ではない。通常であればコード違反。しかし、この場にはコード違反をしている者しかいない。もはやコードはこの空間には存在しない。

 すると不思議なことに、空間自体が変質してしまったような、不思議な感覚が生まれる。

 かと思ったら列車によってそれが遮断される。なんだかもう、ジェットコースターのように脳みそがぐるぐる掻き回される。

 これはすごい。見ていて楽しい。

歌詞も立体的に見えてくる。

 この様なことを考えながら繰り返しMVを見た後に、『イチャイチャ虫』の歌詞を改めて読んでみる。すると、ちょっと違うものが見えてくる。

 正直に言えば、最初は「なんて面白みのない歌詞だろう」と思ったものである。

 「イチャイチャ虫」という言葉は聞き馴染みのない言葉ではあるものの、特に良い響きの言葉でもない。「イチャイチャ」なんて「ニチャニチャ」みたいで気持ち悪いし、「虫」は気色悪いもの代表である。悪と悪を足し算しても良いものにはならない。

 内容はひたすら「イチャイチャしたい」と言っているだけで、単調で平面的。それだけではなく、ちょっと下品な感じさえする。

 だが、MVを見た後に歌詞を眺めて感じたのは、「これは日向坂46版『1/2』なのでは?」ということだった。


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 『るろうに剣心』のOPでもお馴染み、川本真琴の名曲『1/2』。曲も良いが、歌詞が素晴らしい。

背中に耳をぴっとつけて抱きしめた

境界線みたいな身体がじゃまだね

 そう、どんなにイチャイチャしても身体という境界線が邪魔をして一つになることはできない。所詮、他人同士なのだ。一体になることなどできないし、だからこそ求め合うとも言える。

 そんな他者を求める気持ちの裏にあるのは、己の至らなさに対する自覚である。

あたしたちってどうして生まれたの

半分だよね

一人で考えてもみるけど

やっぱへたっぴなのさ

 「あたし」は1/2のような半端な存在でしかない。でもふたりでなら1になれる気がする。そんな願いが描かれている。

 そこからも垣間見えるが、「子供VS大人」という対立軸がこの歌の裏にはある。

神様は何も禁止なんかしてない

あたしまだ懲りてない

大人じゃわかんない

 「子供VS大人」という対立軸を構成するものの中に「自己の衝動VS社会の規範」という対立軸もある。

 これらを踏まえて『イチャイチャ虫』の歌詞を眺めると、通底するものがあることに気づく。

 『イチャイチャ虫』には「他者の目」を意識した歌詞が随所に出てくる。

二人の世界に誰も入れないよ

人の目を気にしない愛の表現だ

だって自分に正直だけ 恥ずかしくない

誰に見られても心の底からイチャイチャしたい

 「人の目を気にしない」と言っているが、それをわざわざ言葉にするということは気にしていることの証左にほかならない。本当に気にしていないのならば、「人の目」という観念が存在しないはずだから。

 この歌もまた「自己の衝動VS社会の規範」という対立軸をテーマにしているというわけだ。

 また、「私」と「あなた」が必ずしも同じ方向を向いているとは限らないことを匂わせる歌詞もある。

絶対迷惑かけちゃう

しつこいと言わないで

 「あなた」はそこまでイチャイチャしたいと思っていないのかもしれない。それでもイチャイチャを許容してくれるのがひとつの愛の形なのかもしれない。

 では、なぜ「私」はそこまでイチャイチャしたいのか? 何が彼女または彼にそうさせるのか? この歌は本当は何のことを歌っているのか?

 そのような想像をする余白が、この歌にはある。平面的に見える歌が実は奥行きのある立体的なものであることを、このMVは我々に教えてくれている。

余談

 最後に、私がこのMVを見るに至った経緯について書いておきたい。

 私は『日向坂で会いましょう』は毎週見ているものの、そこまで熱心に日向坂を追っているわけではない。MVまで必ず目を通すわけではない。

 そんな私が『イチャイチャ虫』のMVを見たのには明確な理由がある。それはInstagramで毎日のようにメンバーのダンス動画を見せられたから。メンバーがソロで『イチャイチャ虫』を踊る。日ごとに踊るメンバーは変わる。そのうち曲もダンスも好きになってきて、MVを見とかねばならんとなったわけだ。(日向坂はこれまでもダンス動画を上げてきているから、今回に限って惹きつけられたのは単純にこの曲の振り付けが気に入ったからという面はある。)

 それで思い出したのが、藤井風とコラボしたJVKEのSNS戦略である。当時、彼は知人の前で『golden hour』を弾き語りをする動画をたくさん上げていた。弾き語りだから完全に同じ演奏にはならないし、誰の前でやるのかによっても動画の味も変わってくる。味変されるから全然飽きず、何回も繰り返し楽曲を聴いてしまう。そのうちに楽曲を好きになるという寸法だ。こりゃうまい作戦だと思ったもんである。

 日向坂のSNS戦略もgolden hour作戦と要領は同じである。毎日踊り手が変わるから同じ曲でも見応えが変わる。これをコストをかけずできるのは多人数アイドルの特権である。こんなんやらない手はないと思うね。乃木坂も見習った方がいい。『是非に及ばず』ではやってたけど。

 まなみんは良い表情しますね〜。

『eFootball』に学ぶ良いゲームの作り方

 最近ブログの更新が滞っている。

 『eFootball』……かつてウイイレと呼ばれていたゲームにハマっているのが原因だ。

 発端は、先立って行われたワールドカップ。私は長年ワールドカップの時だけサッカーを楽しむ勢だったのだが、この立場から卒業しようと考えた。より深くサッカーを楽しむため、海外サッカーを見ることにしたのだ。それだけでは足りない。よりサッカーへの理解を深めるには当事者になる方が良い。かといって実際にプレイするのはかったるい。そこで、ゲームでサッカーを楽しむことにしたのである。

 『eFootball』は極めてよくできたゲームだ。実在の選手を集めて使役できるし、コンピュータが再現する選手の動きはかなりリアル。実際にプロの選手を操っているような感覚を得られる。

 そんな『eFootball』だが、リアルと大きく異なる部分がある。そこにこそ、このゲームの中毒性の秘密がある。そのせいで私は仕事終わりや休日に暇があれば延々とやってしまい、生活リズムに変調をきたしている。

『eFootball』は現実とどう異なるのか?

 というわけで、ここからは具体的に『eFootball』と現実との違いを見ていきたい。そこから、ゲームが生み出す悪影響の原因について理解を深めることができるはずである。

試合時間が短い。

 最大の違いが試合時間だ。現実のサッカーは1試合90分だが、『eFootball』は基本的に約10分で試合が終わってしまう。

 この時間はちょうどフラストレーションが残る短さであり、かつ、もう1回やるのに躊躇を覚えにくい短さでもある。

「負けて悔しいからもう一回」

「この勝利の感覚をもう一回」

「引き分けで中途半端だからもう一回」

といった具合に、どんな試合結果であっても、もう一回やりたくなってしまう。そうなると必然的に延々とやらざるを得なくなってしまうのだ。

 では、もしこれが現実のとおり90分間やらなければならないとしたらどうだろうか?

 1回やったら集中力を使い果たしボロボロに疲れ切って、到底もう1回やろうとは思えないだろう。仮に疲れなかったとしても、90分をゲームに費やすと決定するのはなかなかの決断である。おそらく、1試合90分であれば、私が『eFootball』にハマることはなかっただろう。

身体的に疲れない。

 では現実のサッカーも10分刻みでやれば、延々と練習してしまうのか?

 そんなことはないはずだ。なぜならば、人間の身体には、疲労という負のフィードバックを返す機能が備わっているからだ。だから現実のサッカーはちょうどいい時間で止めることができる。

 ところが、『eFootball』にはそれがない。平均的な人間はコントローラーをカチャカチャいじることに疲労を覚えることはないからだ。

自由に選手を獲得できる。

 ここまでの話を一言で言うと「現実にはリミッターがある」という話である。現実には集中力・決断力・体力というリミッターがあるが、ゲームはそのリミッターを外しているから延々とやってしまう。

 現実に存在するリミッターはほかにも存在する。資金力だ。

 『eFootball』では、ゲームを進めていけば必ず有名選手を獲得することができる。エムバペ(ムバッペ)、ハーランド、メッシ、クリロナ、ロドリ、デンベレ、ハキミ、ファン・ダイク、むにゃむにゃむにゃ……。世界のトップ選手であれば大体取り揃えられるのではないか。コレクションはゲームの面白さを構成するものの一つだが、『eFootball』にもそれがある。

 ところが、現実だとそうはいかない。強力な選手を獲得するにはとてつもない大金が必要で、資金的なリミッターが存在する。スポーツの場合これは極めて重要だ。選手の力はチームの実力に直結するからだ。

 もし資金力のリミッターがないチームがあったとすれば、絶対に世界一を狙えるはずである。最強の選手が揃っているのだから、あとはそれをどう組み合わせてどう運用するか次第。

 ゆえに『eFootball』のプレイヤーは「絶対に勝てるはずなのだ」と思いながらプレイすることになる。これも沼を構成する要素の一つだ。

 見方を変えれば、現実に無数に存在するリミッターを外し、プレイヤーの技術と思慮のみがリミッターとなる状態を作り出すと、プレイヤーは技術の向上に励まずにはいられなくなるということなのかもしれない。

真に優れたゲームデザインは自然の中に存在する。

 多くの会社はKPIを設定するのではないかと思うが、尺度はそれ自体がゲームを生み出す力を持っている。ゲーミフィケーションを行おうという意思の有無に関わらず、人間はゲーミフィケーションを行わずにはいられない。

 ゲーミフィケーションをしようとするとき、必ず考えなければならないのがゲームの暴走についてである。人をゲームにハマらせて生活を破滅させてはならないし、ゲームデザイナーの意図しない不正の方法によるクリアも防がなければならない。

 私の身に起きているのもゲームの暴走である。『eFootball』は人をハマらせることに関しては極めて巧妙に作られたゲームである。仕事を『eFootball』のようにデザインできて全ての従業員が懸命に働いてくれたら、会社の経営者にとっては最高に違いない。しかし、『eFootball』が「人をハマらせすぎない」ことに関して全く考慮していないことを見落としてはならない。

 この点、自然というものは実によくできている。

 人間には様々なKPIが存在する。

 例えば、栄養。栄養が不足すれば人間は死ぬから、それを防ぐために人間の身体には栄養補給を促す仕組みが備わっている。栄養豊富なものを食べると美味しさという報酬が与えられるし、栄養が不足すると空腹などの苦痛が与えられるようになっている。これだけだとゲームが暴走し、人間は食べ物が存在するかぎり食べ続けることになってしまう。ところが、現実にはそんなことはあまり起きない。食べ続ければお腹がいっぱいになってむしろ食べるのが苦痛になるという仕組みも人間の身体には備わっているからだ。*1

 例えば、性欲。生殖を行わなければ人類は滅びるから、それを防ぐために人間は性行為に快楽を覚えるようになっている。これだけだと男性は永久に珍棒を擦り続けるだけの生命体になりかねないが、そうならないようにできている。

 こうしたゲームデザインの結果、生物は40億年もの間、その歴史を絶やさずに命を繋ぐことに成功している。

 優れたゲームはリミッターを巧みに解除することで人を沼にハマらせる。しかし、真に優れたゲームは、リミッターを設けることで人を適切な状態へ導く。我々が学ぶべきは『eFootball』やTiktokではなく、自然なのかもしれない。

*1:「食べ過ぎで身体を壊す人がいるじゃないか」と思うかもしれない。しかしそれは人間が「食べすぎても満腹にならない食べ物」を作ることでリミッターを解除した結果だ。それも含めてのゲームデザインでは?と言われてしまうとなんとも言えないが。

ミュージカル『民王』 感想

 ミュージカル『民王』を見てきた。

www.tohostage.com

 池井戸潤原作で遠藤憲一×菅田将暉でドラマ化もされた作品。ストーリーを一言で説明すれば「総理大臣とそのボンクラ息子が入れ替わってしまうドタバタコメディー」だ。

 ミュージカル版の役者陣は、有澤樟太郎、別所哲也、豊原江理佳、林瑠奈(乃木坂46)、山崎大輝、上川一哉、福田転球、一路真輝、竹中直人etc……。

 

 劇場はシアタークリエ。日比谷シャンテ直結で、演劇とショッピングをシームレスに楽しめる施設である。

 ……ストーリーや役者またはスタッフに比べると、劇場はあまり意味のなさそうな情報に見えるが、実はここが最大のポイントと言っても過言ではない。

 シアタークリエは東宝がビルごと所有する劇場である。上演される演劇も東宝プロデュースのものばかり。

 そう、『民王』は東宝によるミュージカルなのである。『ライオンキング』が劇団四季の、『ベルサイユのばら』が宝塚歌劇団のミュージカルであるのと同様に。

 本拠地があるという点で劇団四季や宝塚と共通している。ということは絶え間なく公演をし続けなければならないということだ。にもかかわらず、『民王』について「東宝によるミュージカルだーワクワク!」となる人はそう多くないのではないだろうか。

 決定的に違うのは固定された劇団がないということだ。

 劇団四季や宝塚歌劇団は役者を抱え、育て上げている。どのような演劇を作りたくて、そのためにはどのような人材が必要で、そのためにはどのように育成するか……。こうした垂直統合のプロセスに劇団の強みがある。

 対して、東宝はお抱えのキャスト・スタッフはほぼおらず、プロジェクトのたびに外部から調達しているものと思われる。劇団四季や宝塚歌劇団の強みの一つである育成機能が完全に欠落しているのだ。見方によっては、東宝は人材の育成機能を宝塚や四季にアウトソーシングしていると言えなくもない。『民王』にも宝塚出身の一路真輝、劇団四季出身の上川一哉・原田千弘・安福毅らが出演している。一路真輝は圧倒的な歌唱力で少ない登場シーンながらも存在感を発揮していたし、上川一哉は本来なら脇役であるはずがほとんど主役と言ってもいいほどの大活躍であった。

 これは東宝の弱みであると同時に強みでもある。人材というリソースを持たない代わりに、内部リソースに囚われない作品作りができる。劇団としてのブランドがないからこそ、ブランドに囚われない企画ができる。自前の劇場を埋められる企画を考え、企画に最も適したスタッフやキャストを外部から調達する能力、要するにプロデュース能力こそが東宝演劇の核心となるに違いない。

 

 そんな東宝が『民王』のヒロイン役にふさわしいと抜擢したのが、我らが林瑠奈である。

 林といえば乃木坂4期生の歌姫。ライブでも高い歌唱力を披露してきた。クールな顔立ちとパフォーマンス、そして意外とひょうきんなキャラクターで乃木坂メンバーとファンを魅了し続けてきた彼女。ファン待望のミュージカル初出演である。

 しかーし!

 いかに歌が上手いと言っても、それは乃木坂基準においての話。

 今回、彼女を取り囲むのはミュージカルのプロたちである。たぶん小さい頃から歌が好きで歌を歌うことで飯を食ってきた人間たちに違いない。そういう人々と比較される状況において、林の歌がどのように聞こえるのか?

 劇が楽しければ楽しいほど、歌が素晴らしければ素晴らしいほど、その裏で高まる不安。そんな心配をよそに、林が歌うことなく前半が終わる。もしかして林は歌わずに終わるのか?なんて可能性が頭をよぎる。それはそれで寂しい。

 当然そんなことがあるはずもなく。後半の幕が上がると、ついに林の歌唱シーンが。

 その瞬間、心配は杞憂であったことを知る。

 るなぴ……めっちゃ歌上手いやん!

 これはファンの贔屓目なんですけど、林の歌が一番良かった。贔屓なので、客観的に見れば一路さんをはじめとした他のキャストの歌の方が胸に響いた可能性は多分にある。林贔屓の私が客観的に見ることは不可能なので、そこらへんはなんともいえない。

 とはいえ、「贔屓目に見れば一番」と思わせてくれるのはなかなかのことである。普通は「贔屓目に見てもまだまだ未熟だね。でも頑張りは伝わってきたよ。あと可愛かった」となるものである。そこを覆してきたのが林瑠奈。

 むしろ本物のプロたちと並び立つことでかえって林の実力に気付かされたとさえ言える。「ミュージカル俳優=プロ、乃木坂=アマ」という見方自体、乃木坂メンバーが一応プロの歌手であるという事実から目を背けた舐めた態度だったのかもしれない。

 そもそも一曲通して林のソロ歌唱を聴ける機会というのは、乃木坂のライブではほとんどない。しかもシアタークリエは600席なので、最後列でもライブ基準だとかなり近い距離。(そう、私はほとんど最後列だった。しかも双眼鏡を持参するのを忘れた。でも肉眼で顔が見えないこともないくらいの距離だった。)音響も当然良い。東京近郊在住の林ファンだったらミュージカルを観に行かない選択肢はありえない。ありがたやありがたや……。

 歌が良いのは分かったと。じゃあ演技の方はどうだったのか。

 こちらの方も私はすごく良かったと思いましたよ。林の演技はなんだかすごく無垢な感じがした。そういうふうに演じたのか、林の人間性が滲み出たのかは分からないけれども、それが南真衣という役柄に合っていて実に良き。クロちゃんじゃないけど守りたくなる。

 私は演技の巧拙って全くわからん人間なのですが、たぶん林の演技は決して上手ではないと思う。壊滅的な棒読みではないけど、あまりミュージカル的ではなかった。それゆえの異質感があったと思うのだが、それが南真衣という役柄と絶妙にマッチしていた。というのも、南真衣が事件の渦中にありながら、蚊帳の外に置かれているという立場だから。ほかのキャラクターは国会議員やその関係者であり、親子の入れ替わりを知っており……という中で真衣だけが何が起きているのかを知らない。そんな南真衣の立ち位置とミュージカル初出演の林瑠奈の姿が重なる。こうなることまで計算していたとしたら東宝、ハンパないって!

 

 そんな素敵な林瑠奈ちゃんが観られる『民王』。東宝のプロデュース能力が林瑠奈にだけ注がれるわけもなく、仮に林瑠奈成分が0だったとしてもかなり楽しい素晴らしいミュージカルだったのですが、今となっては残念ながら東京公演はほぼ空席なし。まだチケットは買えるが、たぶん後ろの座席になるのはほぼ確定なのではなかろうか。(ただ、繰り返しになるがシアタークリエの最後列はライブ基準で言えばかなり近い距離である。)

 というわけで、私は『FOUR MINUTES -4分間のピアニスト-』のチケットも買いましたよ。今度は近くの席だと良いなあ!

乃木坂46を買収したい 真夏の全国ツアー2026東京公演を経て

 先週の日曜日に乃木坂46 真夏の全国ツアー2026がフィナーレを迎えた。思うことを徒然なるままに書いていく。

主張のまとめ

強い提案

  • チケットのリセール制度を毎公演導入せよ。
  • チケットを電子化せよ。
  • 複数日程のチケットを一回で申し込めるようにせよ。
  • 真夏の野外ライブは断念せよ。

弱い提案

  • ライブ動画の一部または全部公開をせよ。
  • ライブの一部または全部の動画撮影を許可せよ。

問題だらけのチケット制度

 私は神奈川公演(6/25)と東京公演(8/20~22)に参戦した。

 去年は全国各地の土曜公演に申し込んで当たったのは宮城公演のみ。その反省を踏まえて、今年は神奈川と東京の全日程に申し込んだ。結果、神宮が3日分も当たってしまった。

 当初はリセールに出すことも考えたが、そもそもそんな施策はなかった。

 どうかと思いますよ、私は。直前に感染症にかかって行けなくなるとかはよくあることじゃないですか。3〜4万人いたら絶対に数人はそういう人いますよ。体調悪くてメンタル崩れてる時に救済措置がないのは普通にファンをやめるきっかけになりうるし、実際に私はそれで緑黄色社会への興味を失った。

 そもそも一日程ごとにしか申し込めないのがおかしい。当たりすぎたら負担が大きくなるのはいうまでもないし、申し込むのもかなり面倒。こんなんやってるの乃木坂でしか見たことない。銭ゲバと言われても仕方ないと思う。私は独身貴族なので乃木坂のために3万円払うくらい痛くも痒くもないんですけど、あなたたちが今採用を進めている中学生・高校生・大学生にとってはとてつもない大金ですよ? 今さらのことではあるが、これは何度でも繰り返し言っていきたい。

 結成1年目の地下アイドルグループじゃないんだからさ。いい加減ファンに甘えた運営はやめましょうよ。

真夏に神宮で公演する意味とは

 勘違いされてしまうかもしれないのであらかじめ述べておくと、公演の内容自体には大大大満足だった。

 やはり乃木坂のライブは素晴らしい。ほかのアーティストのライブとは全く満足感が違う。今回新たに『ひと夏の長さより・・・』と『ロマンティックいか焼き』ってめっちゃ良い曲だなと思ったし、瑠奈ちゃんに水ぶっかけられて最高だったし。様々なライブに行って最近思うのは、ライブの満足度を決めるのはMCではないかということ。乃木坂はMCが良いのよ。

 が!

 それでも言わねばならんことはある。

大問題の3日目

 3日目の大雨の中のライブ決行は大問題であるとしか言いようがない。

 一ファンとしては、素晴らしい体験でしたよ。全身ビチョ濡れライブなんてなかなか体験できないし、やけくそになれて楽しかった。メンバーがびしょ濡れになっている姿はあまり見られるもんではないし、過酷な環境をメンバーと共有できるのも悪くない。

 おそらく運営はなんらかの気象サービスを契約していて、安全上支障はないと確信した上での決行だったんだろうと信じている。実際に事故は起きなかったし。遠くから来たファンは手ぶらで帰ることにならなくて良かったんじゃないか。

 ただの大雨ならそれで話は終わりである。

 だがしかし、あの大雨はただの大雨ではなかったのである。

 ライブが開催されてた間、会場のある新宿区には大雨危険警報が発令されていたのだ。

https://www.data.jma.go.jp/tokyo/shosai/chiiki/disaster/2026/20260822_sokuhou.pdf

 危険警報とは何か。気象庁のサイトにはこう書いておる。

重大な災害の起こるおそれが大きい危険な状況である旨を警告して行う予報。

特別警報、危険警報、警報、注意報、気象情報 | 気象庁

 気象庁が「重大な災害の起こるおそれが大きい危険な状況である旨を警告して」いたのだ。

 その警告を一企業が無視して、3万人を超える人間を野球場に閉じ込めるなどあってはならない。と私は思う。

 結果として事故がなかったからいいが、万が一事故が起きていたら大事件ではないか。

 というか、現に一時避難させた客を開演までに入場させることができなかったという事案が発生している。

 これに対し、返金は行わず、ライブ映像を入場者限定で配信するという措置が行われることになった。一時避難させた客で開演までに入場できなかった者を特定する手段がないから、このような対応にならざるを得ないのだろう。制約がある中での最大限の対応だと理解はしている。

 ただ、これが十分な補填と言えるかどうかは微妙なところである。現地の体験と映像は質的に全く異なるものだし、あらかじめリピート配信のチケットを買っていた人がいる可能性もある。訴訟されたっておかしくはない。

(ついでに言えば、避難させた客を特定できないという事実にも乃木坂の問題が隠されていると思う。今どきはライブのチケットもだいたい電子化されているが、乃木坂はいまだに紙オンリー。電子チケットにしておけば入場日時が記録されるだろうから、保障すべき対象をある程度特定できたのではなかろうか? 今回の場合であれば避難誘導を開始した時刻までに入場していた客が救済対象とみなせる。まあ、その人数がかなりいればいずれにせよ返金対応はしないだろうし、そうした判断を隠すことができるという意味で運営にとっては紙でよかったと言えるのかもしれないが。)

 今回の公演を美談にすることは絶対にあってはならない。

歴史を語ることの危険性

 結成から15年以上経つ乃木坂46にとって、その積み重ねてきた歴史はライブに物語性を与え、グループの魅力の一つにもなっている。

 ただ、歴史を語ることには危険性もある。今回、それが明らかになったのではないだろうか。

 乃木坂46は明治神宮野球場を聖地と称している*1。また、雨の神宮公演も恒例のイベントとして認知されていると思う。私の認識に誤りがなければ、ライブ開始時に流れる映像が3日目は雨仕様に差し替えられていた。おそらくあらかじめ用意していたのだろう。

 こうして作り上げられた「物語」が今回の事態を招いたのではないか?

 雨のライブが良い思い出として刻まれているから、大雨危険警報が出ている中のライブも良いユーザー体験を生むのではと判断に影響を与えた可能性は果たして皆無だろうか。

 そもそも「夏に」「明治神宮野球場で」ライブを行わなければ難しい判断を迫られることもなかったのではないか。

 夏に野外ライブを行うことは天候リスクが高い(=保険料も高い)だけでなく、熱中症のリスクもかなり高くなる。夕方から参加する観客もそうだが、昼間にリハーサルをするメンバーが特に危険だ。最近はファン付きの服を着てリハーサルをするメンバーの写真がSNSにアップされたりもするが、ファンが熱中症リスクを完全に排除してくれるわけではない。

 ついでに言えば、私は明治神宮野球場を初めて体験したのだが、決して良い環境ではないと思った。東京ドームと違って反響がないのはかなりいい。広いはずなのにステージが近くに感じるのもいい。しかし、あまりにもコンコースが狭すぎる。通路自体が狭いのに、トイレ待ちの列が延々と伸びていて、さらに動線を狭めている。

 総合的に考えれば、明治神宮野球場で真夏にライブをやる合理的な理由はあまりない。この不合理な運営が「物語」によって正当化されてしまう。それ以外の選択肢がなくなってしまう。これが歴史を語ること、物語化することの危険性だ。

 過去の経験が作り上げた構造によって変化した環境に適応できなくなる。『失敗の本質』に書かれていたことそのままだ。

明治神宮野球場はバースデーライブで使えばいいじゃない

 乃木坂の運営は10年前から環境が変わったことを認識すべきだ。熱中症による救急搬送人員数は2016年は5万人だったが、2025年には10万人に達している。*2真夏に野外でライブ及びリハーサルを行うことの危険性は10年前とは比べ物にならない。これを機に会場変更を検討すべきではないか。

 とはいえ、私も今回のライブで明治神宮野球場は良い会場だなとは思った(通路は狭いけど!)。野外でしかできない演出もある。11年間で築き上げた愛着が捨て難いのもわかる。乃木坂という土地と国道246号線を挟んで向かい側にあるという立地も尊い。

 ならば、真夏の全国ツアーではなく、バースデーライブの会場として使えばよいではないか。バースデーライブが行われるのは近年であれば5月。これなら雨や台風に見舞われるリスクは相対的に低く抑えることができるし、熱中症の心配がないことは言わずもがな。

 会場側の都合で春の確保が難しいのなら10月に新イベントとしてやればいい。それも難しいなら断念するべきだ。

なぜ採用活動に本気を出さないのか?

 私はね、最終日の配信を見て涙が止まりませんでしたよ。素晴らしすぎて。このライブを見れば絶対に心動かされる少女たちがたくさんいる。そう確信するわけです。

 でもね、乃木坂はライブ映像をほとんど公開してないから。乃木坂がこんなに良いものを作ってるんだって知らない子ばかりなんだろう。

 それでも青葉坂に入りたいって思う子はたくさんいるかもしれないけど、それで満足なんか? 本気で良い人材取りたいならまだまだやれることはあんじゃねえのか?

 この間ミセスのライブに行ったら、全編録画可能でしたよ。藤井風のライブも録画可能じゃったわ。今どきはファンが撮影した映像がプロモーションになると認知されていて、乃木坂より遥かに人気のあるアーティストが撮影を許可しているのだ。対して、乃木坂は開演前の会場にかかった大きな虹を写真に撮っただけで怒られる。(私が撮影したわけではない。)なんなんだこりゃ。わたしゃ悔しいですよ。

 アイドル業において最も重要なリソースが人間であることは言うまでもない。その人間というリソースを獲得するための唯一の手段がオーディションなのだ。そこで最大限の努力をしない組織に未来などあるはずがない。

腹を括るべきは運営

 こうして考えてみると、『是非に及ばず』で「新しいテイストの楽曲に挑戦」みたいなことをメンバーに言わせていたことにも怒りが湧いてくる。甘っちょろい話でお茶を濁すなと言いたい。

 本当に挑戦すべきは新しいテイストの楽曲じゃなくて、新しい経営スタイルなんじゃねえのか?

 過去なんかいらない? 過去にこだわってるのはお前らじゃねえのか?

 メンバーに責任押し付けて、これまでのやり方を変えることから逃げてんじゃねえのか?

 メンバーにとって運営はかけがえのない仲間だとは分かっているから、あんまり言うのもどうかとも思うけど、言わずにおれん。

 今の乃木坂に必要なのは歴史を語ることではなく、歴史を反省すること。反省から旧弊・悪弊・陋習を打破し、運営改善のきっかけとすることができれば、その時に初めて今回の件を歴史として語ることができるようになる。

運営を変えるには

 現実的に考えれば、おそらくこんなことで運営は変わらない。

 来年も明治神宮野球場を聖地だと祭り上げて、真夏の全国ツアーファイナルの会場にするんだろう。

 チケットは相変わらず紙オンリーで行くんだろう。

 運営を変えるにはどうすればいいのだろうか?

運営とは誰か?

 そのためにはまず「運営とは誰か?」を考えねばならない。

 ここで一つのことに注目したい。昨年、私は櫻坂46の東京ドームライブに参戦したのだが、思い返すとチケットは電子だった。

 そう、同じ坂道グループでも櫻坂46にできて、乃木坂46にはできていないことがあるのだ。

 乃木坂と櫻坂の違いとは?

 乃木坂は乃木坂46合同会社によって運営されているのに対し、櫻坂はSeed&Flower合同会社によって運営されている。それぞれソニーが半分の持分を有しているが、残りの半分は乃木坂がノース・リバー、櫻坂はY&N Brothersという違いがある。

 ここから推測されるのはノース・リバーに問題があるのではないかということだ。

 では、ノース・リバー株式会社は誰が所有しているのかというと、95%を株式会社KeyHolderが所有している。

 株式会社KeyHolderは上場企業なので、外部から大なり小なり圧力を掛ける余地がある。

乃木オタの財力で株式会社KeyHolderは買収できる

 最もドラスティックな妄想として、株式会社KeyHolderを買収することを検討してみよう。

 株式会社KeyHolder(以下「キーホルダー」という。)の時価総額はいくらなのかというと、現在150億円ちょい。とすると議決権50%を獲得するには75億円が必要となる。

 これに対して、乃木坂46の売上がどのくらいなのか? 詳細はわからないが、2,000円のCDが毎シングル50万枚売れて、それが年3回発表されるので、CD売上だけで30億円。毎年のライブの動員が年40万人でチケット1枚1万円、グッズ売上が客単価3,000円と仮定した場合ライブ収入が52億円。配信売上を足して60億としようか。その他メッセージアプリやらなんやらで……と考えていくと、ファンが毎年乃木坂に支出している金額はキーホルダー買収の所要額を優に超えているのである!

 ファンが各々キーホルダーの株を時間をかけて買い続けていけば、キーホルダーを乗っ取ることは可能なのだ。

 もちろんキーホルダーにはJトラストという30%に近い大株主がいるのでことはそう簡単ではない。だが、揺さぶりをかけることは間違いなくできる。

 そもそも我々、いや、私が求めているのは熱中症・災害リスクの軽減とチケットの電子化及びリセール制度の導入など極めて常識的なことでしかない。これに秋元康やソニーが反対する理由はない。櫻坂ではやっていることなのだから。そうなると議決権50%を超えることさえも現実味を帯びてくる。

 ファンが本気になれば運営は変えられるはずだ。踏み出そう、あっという間の夏だから。

finance.yahoo.co.jp

通いたくなるポイントカードの話

 前回に引き続きゲーミフィケーションの話。

 ゲーミフィケーションには三種の神器がある。

  • ポイント
  • バッジ(称号)
  • リーダーボード(順位表)

 ゲーミフィケーションに必須というわけではないが、よく使われる要素。総称してPBLと呼んだりするらしい。

 資格はバッジなので、資格の創設はゲーミフィケーションと言ってよいに違いない。漢検はゲームの力で日本人の漢字能力を向上させようと目論む組織なのだ。

 それより驚きなのが、ポイントがゲームの要素であるということ。たしかに言われてみればコンピュータゲームでも至る所でポイントは使われている。

 今やあらゆるECサイトでポイントの付与が行われている。しかし、自分たちがゲーミフィケーションを行なっていると自覚している企業がどれだけあるだろうか? ほとんどの企業はタイミングを遅らせた値引きぐらいにしか考えていないのではないだろうか。

 ただ、ポイント界の皇帝である楽天はおそらくかなり自覚的だ。

 ゲームで大事なのは低い難易度から徐々に難易度を高くしていくことだ。プレーヤーには最初に成功体験を積ませなければならないのである。

 楽天はクレジットカードを申し込んだりするといきなり5000ポイントくれる。5000円あればけっこう贅沢できる。プレーヤーに最初に成功体験を積ませているというわけだ。

 それだけではない。楽天は各種のミッションをクリアすると報酬が得られる(還元率が向上する)プログラムまで組んでいる。各種ミッションはクレジットカード・銀行・電気・通信と、楽天と継続的な取引を行うサービスなので、プレーヤーは権利だけでなく実際に大きなポイントを得られるように設計されている。レベルアップするとメラ、メラミ、メラゾーマと使える魔法が強力になっていくようなもんである。楽天はよくできたECゲームなのだ。

 ところが、ありきたりなポイント施策は、購入額に対して1%程度のポイントを付与するみたいなことしかしていない。1万円の買い物をしても100円しかゲットできない。最初から超絶ハードモードである。こんなもんに消費者を引き寄せる力なんてない。やらない方が値引きしないだけましである。(というのは素人の考えで、こんだけたくさんの業者がやってるってことは有意義なんでしょうね。)

 個人経営の飲食店などでも似たようなことが行われている。「1000円につきスタンプ1個押します。5個貯まったら500円割引します」みたいな。これもゲームデザインとしては上述のとおり上手くない。「よーし、割引もらうために通うぞー!」なんて思ったこと1度もない(個人の感想です)。肝心なのはまだ常連じゃない客を常連に育てていくプロセスなのに、そこが全くデザインされていないのだ。

 しかし、今、私はポイントカードが理由で近所のコーヒー豆屋に通っている。

 なぜかというと、そのお店はポイントカードに買った豆の名前を書いてくれるのだ。コーヒー豆は産地や精製方法によってかなりの種類が存在する。それぞれどんな味なのか色々試してみたい。その試した履歴が積み上がっていくのが楽しみなのである。

 つまり、私はポイントが目当てで通っているのではなく、バッジが目当てで通っているのだ。これなら初めての買い物で報酬が得られる。2回目以降も同様だ。

 ついでに書くと、その店が店頭に並べている豆はせいぜい10種類程度である。その中で3種類ほどに「店主のおすすめ」の札が貼られている。だが、行くたびに構成は変わっている。ここも上手い。いきなり100種類くらいの豆がずらっと並んでいたら、1個ずつ実績を解除していこうなんて思えない。コンプリートすることを念頭に置いてしまったら途方もない道のりだと感じてしまう。かといって、10品目しか売っていなければ、すぐにコンプリートできてしまう。ゲームがあっという間に終わってしまうのだ。

 言うまでもなく、全ての店が上記のようなポイントカード施策を行えという話ではない。数種類のめちゃくちゃ美味しいメニューで勝負しているラーメン屋だとか、逆にスーパーのように無数の品目がある店では絶対に成り立たない。

 とはいえ、世のポイント施策はゲームとして考えればもっと改善できるのではないだろうか?

 

 ちなみに、私が読んだ本には「ゲーミフィケーションの世界でポイントがよく使われる」とは書いてあったが、「ポイントが使われていればゲーミフィケーションだ」とは書いていなかったので、「ECサイトはゲーミフィケーションを行なっている」というのは私独自の解釈であり半ば妄想であることは付言しておく。