たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

今さら『晴る』について語る

 前回、歌詞について考えたことを書いた。

 

weatheredwithyou.hatenablog.com

 

 今回はこれに基づいて具体的な歌について考えてみたいと思う。選んだのはヨルシカの『晴る』だ。


www.youtube.com

 

ヨルシカ 晴る 歌詞 - 歌ネット

 

 理由は好きだから。これに尽きる。

 『晴る』はアニメ『葬送のフリーレン』の第2クールの主題歌だ。ちなみに『葬送のフリーレン』の放送が終わってからもう一ヶ月以上経つ。なのに、今になって猛烈にこの曲が好きになってしまった。ヨルシカのライブ行きたい。

 

 この世の歌は

  • ラブソング
  • 失恋ソング
  • 応援ソング

のいずれかに分類することができる。

 では、『晴る』はどれなのか。まずここが難問である。

 いきなり「貴方」が登場する。ということは、ラブソングか失恋ソングか。

貴方は風のように

目を閉じては夕暮れ

何を思っているんだろうか

 うーん、なんだかよく分からないが、「貴方」の思考を気にしていることから、これは「追究」の技法を使っていると考えることもできる。

 次を見てみよう。

目蓋を開いていた

貴方の目はビイドロ

少しだけ晴るの匂いがした

 やはりよく分からない。どうやら「貴方」の目がビイドロのようにきれいであるという話にも見える。

 さらに進めてみよう。

晴れに晴れ、花よ咲け

咲いて晴るのせい

降り止めば雨でさえ

貴方を飾る晴る

 さあ、いよいよもって分からない。なんだかずっと天気の話をしている。これはどう解釈すればいいのか。

胸を打つ音よ凪げ

僕ら晴る風

あの雲も越えてゆけ

遠くまだ遠くまで

 さて、ここまで来ると「これはラブソングや失恋ソングではないのでは」という疑念が湧いてくる。

 先ほども書いたが、ずっと天気の話をしている。貴方はどこかへ消失してしまっている。これがラブソングだとするとかなり異質である。

 となると、この歌は応援ソングだということになる。特に「あの雲も越えてゆけ 遠くまだ遠くまで」は応援ソングの「行動」を促すための頻出ワード「越える」「遠く」が登場する。よし、その線で行ってみよう。

 応援ソングで歌われる内容は以下のとおりである。

  • 行動
  • ビジョン
  • 原体験
  • 衝動
  • 実現可能性
  • チャンス
  • 仲間
  • 未知の領域
  • 無知蒙昧
  • 苦難
  • 臥薪嘗胆
  • 自分軸
  • 孤独
  • 比較
  • 人生の短さ

 上に挙げた歌詞はこれらのいずれかに分類できないか考えてみよう。

胸を打つ音よ凪げ

僕ら晴る風

 これは「衝動」と考えることができそうだ。歌の主人公は、胸が高鳴っており、風のように軽やかな気持ちになっている。

 面白いのは「胸を打つ音よ凪げ」と述べていることだ。普通の歌では、ここで「凪げ」のようなことは言わない。なぜならば、応援ソングでは衝動は肯定されるべきものだからだ。それなのに、この歌では衝動を抑えようとしている。おかげで主人公の衝動が弱まった印象があるかといえばそんなことはない。むしろ「この胸よ高鳴れ!」的なことを言うよりも遥かに強い印象を受ける。「凪げ」という言葉が、抑えねばと思ってしまうほど強く心臓が胸を打っていることや、抑えようとしてもなお静まらない興奮を物語っているからだ。

 言葉とは面白いものだ。命令は、現状が命令内容に反している印象を与えてしまう。「勉強しなさい」と言われれば、「お前は勉強をしていない」と言われているように感じる。「便器を汚さないでください」と言われると「お前は便器を汚している」と言われたように感じるものだ。

降り止めば雨でさえ

貴方を飾る晴る

 次に、この部分について考えてみると、これは「苦難」だ。しかも、良薬は口に苦しに発展しているパターン。

 雨がやんで晴れれば、空には虹が架かる。雨が降らないと虹は架からない。これと同じで、苦難が貴方の糧になるのだ、と言っている。内容は平凡だが、表現がお洒落すぎる。歌詞は、何を歌うかよりも、どう歌うかが重要なのだ。

晴れに晴れ、花よ咲け

咲いて晴るのせい

 さあ、ここまで来れば「雨=苦難」「晴れ=夢の実現」の図式が見えてくる。この歌、やたら風景描写が多いと思ったら、全てはメタファーだったのである。(当たり前のことだが。)

 というわけで、ここは「願望」を歌っている。

目蓋を開いていた

貴方の目はビイドロ

少しだけ晴るの匂いがした

 この部分は、「少しだけ晴るの匂いがした」から考えるに、衝動の発端、すなわち「原体験」を歌っているものと考えることができる。

貴方は風のように

目を閉じては夕暮れ

何を思っているんだろうか

 ここはやっぱりよく分からん。

 人を風にたとえるときは、その人はもう出会えない人(≒死者)であるのが一般的だ。この点については、上の原体験パートとリンクするので、その線で考えてよいと思う。

 それはいいとして、「目を閉じては夕暮れ」ってどういうことだ? ここが難しい。解釈の一つとして思いつくのは、「貴方」は空であるということだ。「降り止めば雨でさえ貴方を飾る晴る」なのだから、虹で飾られるものが「貴方」。つまり空。もう一つ思いついたのは、「貴方」が黄昏れていることを描いているという解釈。意味としてはこちらの方が通るか。

 いずれにせよ、分類としては「無知蒙昧」か「未知の領域」のいずれかであることはほぼ間違いないと思う。一番の歌詞はポジティブなので、おそらく「未知の領域」について語っているものと思われる。貴方が思っていること=晴れなのだ。

 

 一番の歌詞はポジティブと書いたが、二番の歌詞はその逆。こちらでは苦難について語られる。

貴方は晴れ模様に

目を閉じては青色

何が悲しいのだろうか

 さて、この部分で先ほどの解釈の一つが切り捨てられ、一つが補強されそうだ。「貴方=空」説はないと言っていい。意味が通らない。(雨=青色と考えることができるなら生き残りの余地はあるが無理筋だろう。)逆に、「夕暮れ=黄昏れ」説はなお生きている。「目を閉じては青色」は、「貴方」がブルーな気分になっていることを表しているものと思われる。どちらも「目を閉じては〇〇」の〇〇が「貴方」の様子を表しているから、説は補強されたように感じる。

目蓋を開いている

貴方の目にビイドロ

今少し雨の匂いがした

 先ほどは原体験となったパートが、今度は苦難の前触れを歌っている。

泣きに泣け、空よ泣け

泣いて雨のせい

降り頻る雨でさえ

雲の上では晴る

 ここは「実現可能性」。かつてここまで力強く泣くことを促した歌があっただろうか。面白い。それに、「辛いときは泣いていいんだよ」というお決まりのメッセージを、「泣くのは雨のせいであってあなたが弱いからじゃない」というところまで言っている(ように私には感じられる)。「だって涙が出ちゃう 女の子だもん」*1の真逆である。

 「降り頻る~」の表現はお洒落だし、延々と天気の話をしているこの歌だからこそ一層光る。

土を打つ音よ鳴れ

僕ら春荒れ

あの海も越えてゆく

遠くまだ遠くまで

 ここで空から地面への視点移動が行われる。この瞬間、歌詞で描かれている世界が一気に(あるいは明確に)空間的広がりを獲得する。奇しくも、前回書いた『星間飛行』と同じことが行われている。

 と同時に、ここで初めて季節の概念が導入される。ここまで歌われていたのはあくまで天気の話であって、春の話は全然してこなかったことに注意されたい。

 

通り雨 草を靡かせ

羊雲 あれも春のせい

風のよう 胸に春乗せ

晴るを待つ

 先ほどさらっと登場した春荒れはネガティブイメージがメインの言葉だが、そこには春の到来というポジティブイメージもある。ここではそこに目を向けている。

 羊雲は雨の予兆であると同時に、春の到来を告げてもいる。雨も所詮は通り雨に過ぎない。春と晴るへの期待感が高まる。

 要するに、衝動が苦難を上回る状態を歌っているわけだ。

晴れに晴れ、空よ裂け

裂いて春のせい

降り止めば雨でさえ

貴方を飾る晴る

 ここは一番とほぼ同じ。

 「春のせい」と漢字が変化するのは、「空よ裂け」がそのまんま晴るを意味しているから。ここで言う空とは曇り空のことである。「裂いて晴るのせい」だと「晴れるせいで晴れる」という意味不明な文になってしまう。

 「貴方を飾る晴る」が変化しないのは虹と春は関係ないから。

胸を打つ音奏で

僕ら春風

音に聞く晴るの風

さぁこの歌よ凪げ!

 春が来て、ようやく晴るも来た。というところまでは間違いない。問題はなぜ「この歌よ凪げ」と言うのか。

 「胸を打つ音よ凪げ」と同様に、あえて「凪げ」ということで歌がやまないことを強調したのだろうか。可能性としてゼロではないが、ここまでの展開を踏まえるとあまりしっくりこない(ここはストレートに行ってほしい。)し、一度使った大技をまた使うのは芸が無い気が若干する。

 私が考える解釈としては「待望していた未来は今になったからもう願う必要はない」というものが一つ挙げられる。この歌は晴るを願う歌だ。ただ、この解釈だとここからアカペラが続く意味が分からない。「歌」を楽器の演奏に限定する、または「凪げ」を静まる(音がなくなるわけではない)程度の弱い意味として捉えれば成り立つ余地はある。前者だとすると、この歌の演奏は雨を表現しているのだと考えることもできてちょっと良い感じではあるが、歌は声を意味するのが普通だから釈然としない。

 ここで「音に聞く晴るの風」をもっと生かした解釈をしたい。

 「音に聞く」は名高いといった意味だ。「晴るの風」を有名だと述べるということは、主人公は晴るを経験したことがないのであろう。これが現実ではなく心象風景だと考えれば、しかも「晴る」=「夢の実現」だとするならば、ほとんどの人はそうなのかもしれない。「音に聞く晴るの風」の意味はこれで完結している。

 だが、もし「晴るの風の音を聞く」という意味もここに込められているとしたらどうだろう。僕らは春風だ。この歌=春風は凪いで、晴るの風の音に耳を澄ませてみよう。という風に「さぁこの歌よ凪げ!」を理解することが可能になる。この説を裏付けるように、YouTubeの公式動画の公式字幕では、"Hear the sound of a sunny wind. Now let this song calm down!"と表記されている。(最初からそれを見ておけば良かった……。)ここまでは春風の歌。ここからは晴風の歌だというわけだ。

晴れに晴れ、花よ咲け

咲いて春のせい

あの雲も越えてゆけ

遠くまだ遠くまで

 春は花が咲くのを晴るのせいだと思っていて、晴るは春のせいだと思っている。相思相愛。

 

 というわけで、すべての歌は恋愛ソングか失恋ソングか応援ソングに分類できる理論に基づけば、一見難解な曲もわりと簡単に理解できるようになる。ではなぜ『晴る』が難解に見えるのかといえば、あらゆる感情を情景に託しているからである。情景を巧みに描く名曲はあるが、これほど情景描写に徹しているのはかなり珍しい。たぶん。スピリットオブ俳句。その点を除けば、一般的な応援ソングと構成要素は変わらない。『晴る』の歌詞の魅力は、徹底的な自然の情景描写にあると言って間違いない。そこをベースにして、様々な言葉遊びが生まれている。

 前回も書いたように、応援ソングとは夢について歌ったものではなく、未来について歌ったものだ。だから、『晴る』にラブ要素がないと考える必要は全くない。上の解釈に従っても、フリーレンとヒンメルの関係を歌ったものだと考える余地は十分にある。

 

 『葬送のフリーレン』は失恋ソングアニメである。つまり、過去を思うことに面白ポイントを見出しているアニメだ。『スタンド・バイ・ミー』だとか『アメリカン・グラフィティ』だとか『ALWAYS三丁目の夕日』だとか『おもひでぽろぽろ』などのノスタルジー喚起型映画の系譜に連なる(『ALWAYS三丁目の夕日』は見たことがないのでもしかしたらぜんぜん違うかもしれない)。

 「過去を思い出す」という行為それ自体がエンターテイメントになりうる。人間は思い出話が大好きだし、歴史を学ぶことも大好きだ(機械的な暗記を強いられなければの話だが)。

 『葬送のフリーレン』が画期的なのは、思い出される過去がリアルなものである必要はないと看破したことにある。フリーレンが思い出す過去は、剣と魔法の世界のファンタジーで我々にとっては縁もゆかりもないお話である。だが、そんなことはどうでもいいのだ。考えてみれば、我々の多くはアメリカの1959年のオレゴン州を生きたことなど一瞬たりともない。それでも『スタンド・バイ・ミー』からはノスタルジーを感じてしまう。であれば、ファンタジー世界を舞台にした『スタンド・バイ・ミー』だって成立しうるに違いない。それを証明しているのが『葬送のフリーレン』なのだ。(回想が多用される点では『おもひでぽろぽろ』に近い。)

 特に第一クールにおいて、フリーレンたちの旅は、ヒンメルたちとの思い出を回想させるためにあるといってもよいほどだった。各話のクライマックスの前には、ほぼ必ず回想が挟まれている。ヒンメルたちの残像を辿る旅なのだからまさに失恋ソングさながらである。

 ところが、第二クール。一級魔法使い選抜試験に入ると、回想が一気に少なくなる。フリーレンは存在感を示しつつも、物語の焦点は明らかにフェルンをはじめとする若き魔法使いたちに当てられている。これまで過去を思い出すことに楽しみを見出していたアニメが、未来を描き始めたのだ。

 さあ、第二クールの主題歌『晴る』は、過去と未来のどちらを見ていたか。そう、未来である。第一クールの主題歌『勇者』は失恋ソング(過去志向の歌)にカテゴライズできる。『勇者』と『晴る』の趣の違いは、見事にアニメ本編の内容の変化を反映していたわけだ。若きアーティストたちの感性の鋭さが恐ろしい……。

 

 ちなみに、この記事で一番の歌詞を後ろから遡って解説したのもやはり『葬送のフリーレン』リスペクトによるものである。そういうことにしたい。

この世のほぼすべての歌は三種類に分類できる

 以前から思っていた。歌詞って似たもんばっかじゃねーか?と。私は歌詞で音楽を聴くことをしない派なので、あまり深く考えてこなかったが、不意に気になった。

 そこで調べてみることにした。ヒットソングは何を歌っているのかを。利用したのはApple Musicにあるプレイリスト「平成ヒッツ」。計135曲10時間24分の歌詞をスプレッドシートに打ち込んだ。

 そして分かったのはヒットソングには三種類しかないということだ。ほぼすべての歌は以下の3つのテーマに関するものだ。

  • 好き(ラブソング)
  • 好きだった(失恋ソング)
  • 夢(応援ソング)

 さらに、これらのテーマを伝えるための表現方法もほぼ共通している。説明していこう。

ラブソング

 ラブソングは基本的に愛がどれほど大きいかを語っている。愛の大きさをいかにして語るか、その挑戦の歴史が世で歌われるラブソングの数々だ。

 この歴史の中で頻出の技法は、数多くあるが、まず大きく二つに分類できる。

  • 「あなた」について語る
  • 「私」について語る

「あなた」について語る

 愛について語るなら、愛の対象である「あなた」について語るのは当然のことだ。語るべきはただ一つ。「あなた」がいかに価値ある存在かということ。

 そのたった一つのことを表現するために、次のようなレトリックが存在する。

  • 効能
  • 聖遺物
  • 特殊能力
  • 残像
  • 無条件
  • 比較
  • 希少性
  • 追究
  • 表現不可能
効能

 なにかの価値を伝える一番わかりやすい方法は、それがどれだけのメリットをもたらすかを語ることだろう。CMなどでも商品の機能を伝えるのは常套手段だ。

 というわけで、「あなた」がいかなる効能を持っているかを語るのがラブソングの第一歩だ。

嫌なことがあった日も君に会うと全部フッ飛んじゃうよ

『Automatic』宇多田ヒカル

初めて一途になれたよ

純恋歌湘南乃風

聖遺物

 聖人はあまりにもすごいので、聖人にまつわる物さえもすごいパワーを宿してしまう。「あなた」とて例外ではない。

アクセスしてみると 映るcomputer screenの中

チカチカしてる文字 (I don't know why)

手をあててみると I feel so warm

『Automatic』宇多田ヒカル

 ただし、この手法はあまり使われない。

特殊能力

 「あなた」はすごいので、他の人にはできない特殊能力を持っていることもある。

七回目のベルで 受話器を取った君

名前を言わなくても 声ですぐ分かってくれる

『Automatic』宇多田ヒカル

 この手法もあまり使われない。

残像

 「あなた」のパワーはすごいので、その影響はなかなか消えることがない。目を閉じても、そこにいなくても、「あなた」が見えてしまう。

瞳を閉じれば いつも君がいる

『BE MY BABY』吉川晃司

伝えきれぬ愛しさは

花になって 街に降って

どこにいても君を”ここ”に感じてる

『Love so sweet』SPIN

無条件

 たいていのものの価値は、一定の条件のもとに発動する。極端な話、あらゆるものは「私が存在する限りにおいて」価値を持ちうるのだ。

 だが、そうではないものが存在するとしたらどうだろうか。それは現実に存在するあらゆるものを超える価値があるといってよい。

君がすべてさ

『BE MY BABY』吉川晃司

となりで笑って いてくれるのならば

これ以上他に何も要らないよ

『fragile』持田香織

比較

 効能を語ることと同じくらい基本的な手法として、比較が存在する。

 一般的な形は次のようなものだろう。

目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる

純恋歌湘南乃風

 これを応用して、比較対象を下げることもある。その際に、比較対象としてなぜかよく登場するのがだ。街の類語として人々や人混みなどもある。

せわしい街のカンジがいやだよ 君はいないから

LOVE PHANTOM稲葉浩志

 だが、街以上に頻出なのが、「あなたに出会うまでの時間」や「あなたに会えない時間」。

ちょうど風のない海のように退屈な日々だった

思えば花も色褪せていたよ 君に会うまでは

LOVE PHANTOM稲葉浩志

出逢えたことから全ては始まった

(中略)

会えない夜は決まって 寂しさおそう

『fragile』持田香織

追究

 価値あるものは追究したくなる。そのすべてを知りたいし、潜在している価値を引き出したいとも思う。ちょうど今の私のように。逆に、価値のないものを追究する人間はいないだろう。だから、追究したい欲望が生じることは「あなた」の価値を表すことになる。

たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていって

その瞳から僕をのぞいたら いろんなことちょっとはわかるかも

今夜月の見える丘に稲葉浩志

希少性

 宝石がなぜ価値があるかといえば希少性があるからだ。希少性は物の価値を高める。というわけで、「あなた」の希少性を語ることも非常に多い。

僕らの出逢いがもし偶然ならば? 運命ならば?

君に巡り会えた それって『奇跡』

『キセキ』GReeeeN

あっというまに日が暮れて さよならの時が来る

MajiでKoiする5秒前竹内まりや

この度はこんな私を選んでくれてどうもありがとう。

『トリセツ』西野カナ

表現不可能

 さて、これまで8つの手法で「あなた」の価値を語ってきたが、翻って考えてみると、これは「あなた」の価値を伝えることは容易ではないことを意味する。それだけ愛は深遠なるものだということだ。

 というわけで、それをそのまま言ってしまうという手法もよく存在する。

言葉が不器用すぎて 邪魔ばかりする

好きなのに伝わらない こんな想い切なくて

『fragile』持田香織

ああ アイラブユーの言葉じゃ

足りないからとキスして

マリーゴールドあいみょん

「私」について語る

 これまで述べてきたのは愛の対象について語る手法だが、逆に愛の主体、つまり「私」に比重を置いて語る手法も存在する。

 一応述べておくと、「あなた」は「私」に影響を与えるので、「あなた」を語ることは「私」を語ることでもある。その逆もまた然り。なので、この分類は私の独断と偏見によるものである。

 とはいえ、ある程度明確な分類の基準もある気がしている。というのも、ここで目指されるのは「あなたの価値」を訴えることではない。聞き手の共感を得ることにあるのだ。言い換えれば、恋愛あるある話といってもいいかもしれない。

 具体的には以下の12種類がある。

  • きっかけ
  • 蓄積
  • 衝動
  • 暴走
  • 不正直
  • 不安
  • 背伸び
  • 提案
  • 失敗の肯定
  • 決意
  • 許し
  • 願望
きっかけ

 まず恋の始まりについて語る。めったに使われない。

大親友の彼女の連れ おいしいパスタ作ったお前

家庭的な女がタイプの俺 一目惚れ

純恋歌湘南乃風

蓄積

 二人で長い時間を過ごしてきたねと述べる。これはわりとある。

君のくれた日々が積み重なり 過ぎ去った日々2人歩いた『軌跡』

『キセキ』GReeeeN

衝動

 「私」の衝動について語ることは最もメジャーな手法の一つだ。生じる衝動には様々なものがあるが、以下は頻出。具体的に言及しない場合も多い。

  • 一緒に踊りたい
  • 近づきたい
  • 手を握りたい
  • 抱きしめたい
  • 口づけをしたい
  • 一つになりたい
  • 歌っちゃう

 衝動を引き起こすのは「あなた」なのだから、これは「あなたの効能」なのでは?という気もするが、衝動が必ずしもポジティブな意味を持つとも限らないし、また、夏の海や夜の街などが衝動を掻き立てているパターンも多い。

YO! SAY,夏が 胸を刺激する

ナマ足 魅惑の マーメイド

HOT LIMIT井上秋緒

暴走

 衝動が行き過ぎると人は暴走する。時には相手に自分の願望を押し付けてしまうこともあるし、時には相手のすべてを分かった気になってしまうこともある。とにかく人と人がディープに付き合うからには傷つけ合わずにはいられない。それが恋愛なのだ。しらんけど。

愛しているのさ 狂おしいほど

『BE MY BABY』吉川晃司

ふたりでひとつになれちゃうことを

きもちいいと思ううちに

少しのズレも許せない

せこい人間になってたよ

LOVE PHANTOM稲葉浩志

ボーダーのTシャツの 裾からのぞくおヘソ

しかめ顔のママの背中 すり抜けてやって来た

MajiでKoiする5秒前竹内まりや

不正直

 照れくさかったり、関係を変えたくなかったりで、本当の気持ちを言えないことが往々にしてある。それが恋愛。しらんけど。

あいまいな態度が

まだ不安にさせるから

こんなにほれてることは

もう少し秘密にしておくよ

『Automatic』宇多田ヒカル

不安

 「あなた」の価値があまりに高すぎると、失いたくなくて怖くなったりする。あるいは、自分がそれに見合うのかどうか不安を覚えることがある。付き合う前ならそもそも眼中に入っているのかなという不安もある。それが恋愛。しらんけど。

ROSIER 愛したキミには ROSIER 近づけない

ROSIER 抱きしめられない ROSIER 愛しすぎて

『ROSIER』LUNA SEA

君から見た僕はきっと ただの友達の友達

『高嶺の花子さん』清水依与吏

背伸び

 「あなた」に見合う人間になるために、少し背伸びしてしまうこともある。

渋谷はちょっと苦手 初めての待ち合わせ

MajiでKoiする5秒前竹内まりや

タイトなジーンズにねじ込む

わたしという戦うボディ

『VALENTI』康珍化

失敗の肯定

 かように恋愛には様々な落とし穴がある。それを嘆くこともできるが、ポジティブに捉えることもできる。失敗は成功のもとだ。

二人の遠回りさえ 一片の人生

『HOWEVER』TAKURO

決意

 そうした失敗の果てに、「あなた」を幸せにしてみせるという決意をする。これには改心が伴うことも多い。もちろん決意の種類はそれだけじゃなくて、「あなたを絶対にものにする」だとか色々ある。ともかく気概を見せることが重要だ。

抱きしめて 抱きしめて 離さない

マリーゴールドあいみょん

戦闘の準備は ぬかりない 退がらない その手を離さない

『決戦は金曜日』吉田美和

許し

 カップルの場合、決意の前提として、相手がリスタートを許してくれることが必要になる。だから、これまでの罪を赦してくれるように懇願することもたまにある。

 また、逆の立場から、無情な相手に対してNoを突きつけられず許してしまうパターンもある。好きな人が他の人といちゃついているのを嫉妬深く睨んでいるような歌(『女々しくて』とか)もある種の許しかもしれない。

俺をゆるしてよ

そしてもう一度

『BE MY BABY』吉川晃司

提案

 大好きな人とは一緒に素敵なことをしたいものだ。それを相手に提案するのは恋愛においては必ず現れる一幕。

手をつないだら 行ってみよう

燃えるような月の輝く丘に

今夜月の見える丘に稲葉浩志

願望

 相手のことを好きだと、様々なことを願う。「君が僕のことを好きだと思っていればいいのになあ」とか。ときに願いは非現実的なものであったりもする。たとえば、「二人が永遠に一緒にいられたらいいのに」とか、さらに発展させて「生まれ変わってもまた結婚しよう」とか。

笑顔咲ク 君とつながってたい

さくらんぼ』愛

なにかの手違いで

好きになってくれないかな

『HAPPY BIRTHDAY』清水依与吏

失恋ソング

 失恋ソングは、恋愛ソングの裏だ。だから、構成要素はラブソングと同じ。ただ、それをネガティブに捉えたり、裏返して使えばいいだけ。

 たとえば効能なら、「あなたがいるから笑顔になれる」の裏は「あなたがいなくなったから笑えなくなった」である。

 残像だと、「あなたがいないときも、いつもあなたのことを思っている」なら、「あなたはもういないのに、いつもあなたのことを思ってしまう」とネガティブに捉える。これを発展させると、「過ぎてゆく季節に置き去りにされてしまう」みたいなフレーズが生まれる。ちなみに、こうしたフレーズでは、なぜか時間ではなく季節という単語が好まれる傾向にある。より叙情的だからだろうか。

 無条件だと、「あなたさえいればいい」なら「僕にはもうなにもない」でいい。

 比較だと、「あなたに出会うまで世界は灰色だった」は「あなたと別れてから世界は灰色になった」になる。

 希少性だと、「あなたと出会えたのは奇跡」なら「こんな恋はもう二度とできない」になる。

 追究だと、「あなたのことを分かりたい」なら「結局分からなかったね」か「お互い分かりすぎちゃったね」になる。

 表現不可能だと、「この気持ち言葉にできない」なら「私の気持ち伝わらなかった」になる。

 「私」について語る手法に関しては、そのまま使えばいいかもしれない。ただ結末が破滅に向かうだけ。

応援ソング

 打って変わって、応援ソングでは恋愛を離れて夢について歌う。

 まず前提として、夢とは叶えられたら嬉しいものであり、かつ、叶えるのが非常に困難なものだ。

 したがって、応援ソングの歌詞は大きく「実現に関するもの」と「困難に関するもの」に二分できる。

実現に関するもの

 夢の実現に関するものは、次の7つの手法が存在する。

  1. 行動
  2. ビジョン
  3. 原体験
  4. 衝動
  5. 実現可能性
  6. チャンス
  7. 仲間
行動

 夢の実現に必要なのが行動だ。といっても歌の世界では具体的なことを述べる必要はない。「進め」「走り出そう」「扉を開けよう」「冒険しよう」などなどふわっとしたことを述べておけばOKだ。

追いかけて 遥かな夢を

『負けないで』坂井泉水

ビジョン

 だがそもそもなんのために行動すればいいのか。そこで大事なのがビジョンになる。とはいえやはり歌の世界では具体的なビジョンは必要ない。「輝きたい」「優しい人になりたい」とかそんなもんでいい。あるいは、夢を語るという行為もある意味ではビジョンを描いていることになるだろう。

そしていつか 誰かを愛し

その人を守れる強さを

自分の力に変えて行けるように

『どんなときも。』槇原敬之

原体験

 そのようなビジョンはどこから生まれたのか? おそらくなんらかの原体験がある。それを思い出すことが歌の世界では推奨されがちだ。

 ちなみに、原体験とビジョンは必ずしもセットで運用する必要はない。原体験に触れれば、それはもうビジョンについて歌っているも同然だからだ。

あの頃の僕らはきっと全力で少年だった

全力少年スキマスイッチ

衝動

 そうした原体験に端を発する衝動が、夢を叶えるための原動力になる。衝動それ自体を歌ってもいいし、胸の奥底にある自分の衝動に耳を傾けろみたいなメッセージを発してもいい。

呼んでいる 胸のどこか奥で

いつも心躍る 夢を見たい

『いつも何度でも』木村弓

実現可能性

 しかし、いくら衝動があっても、夢が実現する見込みがなければ二の足を踏んでしまうものだ。というわけで、応援ソングでは、可能性があることを訴える。

果てしなく 道は続いて見えるけれど

この両手は 光を抱ける

『いつも何度でも』木村弓

チャンス

 「実現する可能性はある? こんなに努力しているのに叶わないじゃないか!」という苦情が予想されるので、「今は運が向いていないだけ。いつかチャンスが転がり込んでくるよ」ということを歌う。

欲しいものは いつだって 不意に襲う偶然

EZ DO DANCE小室哲哉

仲間

 夢を叶えるため、仲間の存在が支えてくれる場合もある。なんなら歌い手自身がその仲間である場合もある。

行くあてが 同じ仲間と 全ての嘘 脱ぎさる

EZ DO DANCE小室哲哉

困難に関するもの

 夢の実現には大きな困難が伴う。ポジティブなことばかり言っていると非現実的な歌になってしまうので、厳しいことも述べる必要がある。

 困難については次の8つの手法で歌われがちだ。

  1. 未知の領域
  2. 無知蒙昧
  3. 苦難
  4. 臥薪嘗胆
  5. 自分軸
  6. 孤独
  7. 比較
  8. 人生の短さ
未知の領域

 夢が叶った先に何が待っているのか。それは未知の領域だ。それは恐怖を生み出すと同時に、胸を高鳴らせるものでもある。

その先に何があるのかは分からないけど

『There will be love there ー愛のある場所ー』川瀬智子

無知蒙昧

 夢は未知の領域ゆえに、どうすればそこにたどり着けるのかも分からない。だから、人々は迷う。見当違いの場所を見ていることもあるだろうし、自分の実力不足を感じることもある。

地上にある星を誰も覚えていない

人は空ばかり見てる

つばめよ高い空から教えてよ 地上の星

つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

地上の星中島みゆき

苦難

 人々は無知蒙昧ゆえにその行く先には苦難が待ち受けている。あらかじめそれを予言しておき覚悟を促す。

 ただ予言するだけではなく、その苦難こそが夢に近づくために必要なのだと助言するパターンもかなり多い。

どんなときも どんなときも

迷い探し続ける日々が

答えになること 僕は知ってるから

『どんなときも。』槇原敬之

臥薪嘗胆

 苦難に挫けたら夢は叶わない。だから応援ソングでは苦難に耐えるよう訴える。

消えたいくらい辛い気持ち

抱えていても

鏡の前 笑ってみる

まだ平気みたいだよ

『どんなときも。』槇原敬之

自分軸

 苦難として想定されるものの一つに、妨害を試みる他者が存在する。そうした他者は珍しいものではなく、むしろ多いぐらいだ。となると、他者=世間=常識と考えることができる。夢を追うことは、社会の常識に背くことなのだ。(少なくとも歌の世界では。)

 だから、応援ソングでは社会のルールを無視すること、自分本位になること、これをひっくるめて自分を軸として生きるよう歌われる。

どんなときも どんなときも

僕が僕らしくあるために

「好きなものは好き!」と

言える気持ち 抱きしめてたい

『どんなときも。』槇原敬之

孤独

 社会のルールを無視したり、他人を傷つけたりしてでも夢に向かえば、孤独にならざるを得ない。夢を追うことは孤独になることなのだ。

風の中のすばる

砂の中の銀河

みんな何処へ行った 見送られることもなく

地上の星中島みゆき

比較

 では、もし自分軸を持たず、苦難に打ち負けたらどうなるのか? それを想像させて、そんなのは嫌ですよね?と説得する手法。それが比較だ。

 あるいは、今の自分がそういう人生を歩んでいるパターンもある。これもまた夢を追う楽しさと対比させてるわけだから比較と言える。

”昔は良かったね”と

いつも口にしながら

生きていくのは

本当に嫌だから

『どんなときも。』槇原敬之

僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう

アポロ11号は月に行ったっていうのに

『アポロ』ハルイチ

人生の短さ

 意外にもわりと少ないパターンとして、人生の短さを引き合いに出す手法もある。

生まれて死ぬまであっちゅー間

『ガッツだぜ!!』トータス松本

衝動という統一原理

 ここまでは分かりやすく「ラブソング」「失恋ソング」「応援ソング」に分類して考えたが、これらには共通点がある。

 ラブソングと失恋ソングは、恋愛が終わっているか否かの差しかないから構成要素が同じだ。では、応援ソングとラブソングはどうなのか。テーマが愛か夢かという違いは大きいように見える。だが、衝動という構成要素は同じだった。そして、応援ソングにおいて重要なことは、夢は叶えると嬉しいものであり、かつ、叶えるのは難しいものであるということだった。これは恋愛にも同じことが言えないだろうか。もてない人間にとって恋愛は夢になりうる。

 結局のところ、恋愛ソングも失恋ソングも応援ソングも、衝動を掻き立てる何かについて語っている。恋愛ソングにおいてはそれが特定されていて、失恋ソングにおいてはそれが失われている。応援ソングにおいては、それがぼんやりしている。違いはそれだけだ。

 さらに単純化していえば、それぞれの歌は見ている時間が違うにすぎない。過去を見ているのが失恋ソング、今を見ているのがラブソング、未来を見ているのが応援ソングというわけ。

 ということは、一つの歌の中で異なるテーマを同時に歌うことも可能だ。たとえば、『きよしのズンドコ節』はテーマが変遷するし、『天体観測』は失恋ソングであると同時に応援ソングでもある。

理念型は鋳型ではなく座標である

 上に書いたように、ほぼすべての歌はラブソング・失恋ソング・応援ソングのいずれかに分類できる。そこで使われている技法も、数は多いが、限られたものしかない。

 一見意味が分からない歌も、これらの枠組みに当てはめて考えていくと、何が言いたいのかが見えてくるはずだ。たとえば『丸の内サディスティック』は応援ソング(夢について語っている歌)だと考えると、解説サイトを見なくてもおおよその言いたいことは分かってくる。ただムードのある言葉を羅列しているように見える、その裏には強固なロジックがある。

 さらに、なんだかすごい歌が、他の歌とどう違うのか、何がすごいのかも見えてくる。たとえば松本隆作詞の『星間飛行』。「水面が揺らぐ 風の輪が広がる 触れ合った指先の 青い電流」は、「あなた」と出会って生じた衝動について語っている。その特徴は美しい情景、それも自然物を用いた情景にある。この歌は全パート語りたいくらいだが割愛して、その後、「濃紺の星空に 私たち花火みたい」というくだりが出てくる。ここもやはり自然物なのだが、注目したいのはその高低差。水面から始まり星空に帰結する。縦の空間の広がりが凄まじい。しかも、「濃紺の星空」という表現は、他の作詞家がよく用いる「街」、比較対象としての群衆に相当するものだと思われる。こうした自然物が描き出す情景の美しさが『星間飛行』の特徴の一つであることは間違いない。ついでにいえば、「私たち花火みたい」は、希少性の表現でもある。

 もちろん、いずれにも当てはまらないような歌があるかもしれない。その場合には、無理に三類型のいずれかに押し込める必要はなくて、その歌はテーマに独自性があると評価すればよい。

ヒットソングに限ったことではない

 結果的に、ヒットソングの歌詞は予想どおり、いや予想以上に、同じテーマについて語っていて、語り口さえも似たようなものばかりだった。

 だが、だからこそ歌詞の多様性に驚かされる。上に書いたことはあくまで抽象的な枠組みにすぎず、それを具体的にどのような言葉で表現するかには無限の可能性がある。テンプレートみたいな歌詞で勝負する直球派のアーティストは少なくないが、それでも同じ歌詞の歌が二つ存在することはない。ひねりを利かせて独特の歌詞を生み出す技巧派が紡ぎ出す言葉は、歌詞の世界の奥深さを教えてくれる。

 実は、歌の世界以外も、たとえば小説や漫画や映画も同じなのではないかという仮説が自分の中に芽生えている。あらゆる芸術作品は、ラブソングか失恋ソングか応援ソングのいずれかに分類できるのではないか。今後も探求を続けていきたい。(そう、この記事もまた歌に対するラブソングなのだ。)

『リング』

 鈴木光司の『リング』を読んだ。

 

 

 貞子で有名なので、ホラーの印象が強いが、実際はサスペンス又はミステリーの色合いが強い。

 主人公は雑誌の記者で、離れた場所にいた4人の人物が同時刻に似たような変死を遂げていることに気付く。

 彼らにいったい何が起こったのかを探っているうちに、主人公は一本のビデオテープにたどり着く。それが変死の鍵を握るのかどうか、そもそも4人がそれを見たのかも分からぬまま、主人公はビデオを見る。御存知のとおり、そのビデオは呪いのビデオだった。

 ポイントは次の二つだ。

・主人公は1週間後に死ぬ。

・呪いを解く方法は存在するが、それが何なのかは示されない。

 これによって物語は、「呪いを解く方法とは何なのか?」という謎の答えに向かって強い力で引っ張られていくことになる。さらに、主人公の妻と幼い子どもまでビデオを見てしまうことで引力はさらに強くなっていく。

 主人公は一人の相棒とともに、謎に迫っていくのだが、それは地道な調査によるものだ。ここで描かれているのは、呪術と科学の相克である。呪術的なもの(たとえば宗教など)は科学によってその存在感を失ってきた。主人公たちがやろうとするのは、それと同じように科学によって目の前にある呪術を倒そうという試みであり、一種のバトル要素だ。

 主人公たちは、ついに山村貞子にたどり着く。貞子は伊豆大島で生まれた超能力者。母親もひょんなことから超能力を得て有名になったのだが、世間から中傷を浴び自殺してしまった。貞子もまた世を恨みながら死んでいくのであった。

 実はホラーと親和性の高い要素に、家族がある(気がする)。『ヘレディタリー』、『シャイニング』、『シックスセンス』などなども家族の話だ。ホラーに欠かせないのが強い恨み。強い恨みは強い感情によって生まれ、強い感情は長年の蓄積によって育まれる。一定の感情が長期間にわたり蓄積されるということは、閉じたコミュニティである可能性が高い。究極の閉じたコミュニティ=家族……という仕組みではなかろうか。また、家族は遺伝や相続を伴う共同体だから、呪いの継承ともこじつけやすい。

 それはともかく、主人公たちは貞子の遺骨を探し出し、弔う。タイムリミットが過ぎても主人公は生きていた。どうやら呪いは解けたらしい。

 ……と思いきや、どんでん返しがある。有名なので書いてもいい気がするが、あえて伏せよう。ここで描かれるのは呪術と科学の融合だ。読者にとってはそれまでの伏線が一気に収束していく快感がある。

 どうでもいいが、1991年に出版された本(書かれたのは1989年)で、呪いとウイルスを絡めて描いているのがすごい。今ではバイラルマーケティングなんて言われたりもするが、当時は一般的ではなかったはずだ。作家の想像力は時代の先を行く。

 

 卓越した小説だが、ところどころに拙さも感じる。「これは作者のデビュー作に違いない」と思ったら、デビュー前の作品だった。ミステリーに当たらないという理由で横溝正史賞の受賞を逃したのだとか。

 優れた筋があれば、細部に拙さがあっても傑作は傑作たりうる。また、傑作であっても、閉じたコミュニティでは正当に評価されない(と言っていいかわからないが)こともある、ということを教えてくれる作品だ。

 

 ちなみに、映画版は上で挙げた要素をほぼ捨てている。だが、テレビから化け物が出てくるというイメージはかなり強烈で、日本中に貞子というキャラクターを印象付けた。これは完全なる映画オリジナルだ。素晴らしい原作を使いながら、「呪いのビデオ」という一点だけに注目して全く別の作品を作り上げることも、なかなかできることではあるまい。

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』に行ったら前世の記憶が蘇った

 令和6年4月14日、『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』を観に行った。

 

 会場はIMMシアター(生きてるだけで丸儲けシアター)。東京ドームのすぐそばにある、705席の小さな劇場だ。

 乃木坂465期生は、単独で代々木体育館を埋める集客力を持つ。代々木体育館は一万席を超える規模だ。狭い劇場のチケット抽選は激戦となることが予想された。私は10日程に申し込んだが、当たったのは1枚だけだった。

 

 最寄り駅は水道橋。学生時代は毎日*1、隣駅である春日から大学まで歩いていたため、懐かしさを感じる。といいつつも、学生時代の3年間*2、水道橋まで足を伸ばしたことは一回たりともなかったのだが……。

 12時からの開演だった。会場は11時15分。終演は3時頃になると思われたため、事前に昼食を取っておく必要がある。あらかじめ調べておいた11時開店の餃子屋に10時50分頃に行くと、すでに店は開いていた。中に入ると客はほとんどいない。東京の人気店だから混むのではないかと予想していたが、拍子抜けである。とはいえ、徐々に席が埋まっていく。大量の餃子をかき込んで店を出たときには、店の外に長い行列ができていた。早めに来たのは我ながら素晴らしい判断だったと言わざるを得ない。

 

きらっきらっきらっきらっ……♪ 水っ晶 宝っ石♪

 

 厳かな雰囲気で劇は始まる。

 それは月野うさぎの夢。

 鐘の音が鳴り響き、景色は一変する。

 

チリリン♪チリリン♪

「うさぎ! いつまで寝てるの! 起きなさい!」

 

 少女漫画はいつだって主人公の寝坊から始まる。慌ただしい登校風景は小気味よいテンポの音楽を奏で、その勢いのまま物語は展開していく。

 

 月野うさぎは日本語話者の黒猫ルナと出会い、セーラームーンに変身する。彼女は妖魔たちと戦うために、セーラー戦士のスカウトを開始する。

 そうして出会ったのが、天才中学生と名高い水野亜美、超能力を有する火野レイ、不良と噂される転校生の木野まことの三人。彼女たちもまた、セーラー戦士としての才能を開花させる。

 ここには『シンデレラ』の変身と『桃太郎』の仲間集めの面白さがある。興味深いのは、セーラー戦士たちにとっての「変身」の意味だ。

 『シンデレラ』において、変身は夢の実現を意味する。つまり、「なりたいけどなれない姿」に変身するのがシンデレラ。主人公が他者の力によって欠落しているものを獲得し、社会的地位を向上させるという構造は、『マイ・フェア・レディ』にも『プリティ・ウーマン』にも共通する。

 ところが、例えば、水野亜美はもともと頭脳明晰であり、セーラー戦士になった後もその頭脳を活かして戦う。アニメ版『美少女戦士セーラームーン』では、セーラーマーキュリーは攻撃能力が低い。彼女の最後の攻撃は「小型パソコンでの殴打」だった。彼女のメインウェポンはあくまで頭脳なのである。彼女は変身によって自分に欠けているものを獲得するわけではない。自分の才能を活用する先を見つけただけだ。同様のことがセーラーマーズとセーラージュピターにも言える。

 セーラームーン』における「変身」とは、「本当の自分の発見」なのだ。このことは、彼女たちが前世からの宿命に殉じていくストーリーによっても補完されていく。

 ただ「変身」に付与する意味が異なるだけではない。『セーラームーン』は意図的に、『シンデレラ』の「他者から幸せを与えられる」という構造を否定しようとしているのだ。セーラー戦士たちが戦うダーク・キングダムの幹部は、全員が男である。また、ヒーローとして登場するタキシード仮面は要所要所でセーラームーンを助ける一方で、最終的にはセーラームーンによって救われる対象となる。セーラームーン自己実現は男に依存していない(かといって男の存在を拒絶しているわけでもない)。幻の銀水晶も結局はセーラームーンの体内にあったわけで、魔法の力すら最初から自己の中に内在していた。

 加えて、セーラー戦士たちは変身によって社会的地位を向上させることもない。彼女たちは、正体を隠して生きていく。テレビによって掻き立てられる虚栄心を抑える姿は、まるで僧侶か軍人のようである。彼女たちにとって大事なのはあくまで本当の自分を発見することなのだ。ここには『竹取物語』の要素がある。

 こうしたセーラー戦士たちに対置されるのが、クイン・ベリルである。彼女は好きな男をプリンセス・セレニティ(=セーラームーン)に取られた嫉妬から、狂気に囚われる。(これは『白雪姫』の要素だ。)何者にも依存しないセーラームーンと王子様に依存するクイン・ベリル。二人の対決が物語のクライマックスとなる。

 

 ……分厚い。

 様々なおとぎ話の要素を取り入れて、一つの物語に再構成しつつ、単なる踏襲に陥らず現代的な価値観に基づき発展させている。

 アニメ『美少女戦士セーラームーン』は、この壮大な叙事詩を描くために全46話を費やしたが、捨てエピソードはほぼない。それだけの厚みがこの物語にはある。

 それを2時間半に凝縮するわけである。目まぐるしい展開。面白くないわけがない。音楽も演出も良い。

 

 正直なところ、私が期待していたのは「可愛い井上和ちゃんを近くで拝めること」だけだった。なんせ700席しかないのだ。どこの席であろうと、ライブなら上位10%以内に入る近さである。この御褒美を目の前にして、それ以外のものが気になる人間がいるだろうか。いや、いない。へろへろの歌声や棒読みの台詞回しでも構わなかったのだ。

 ところがである。乃木坂465期生は「近くで見れる」以上のものを提供してくれた。私の眼前で繰り広げられたのは、「良いミュージカル」だった。特に月野うさぎ役である井上和ちゃんは、おそらく三石琴乃の演技を意識して演じていたと思われる。私は井上和を通して月野うさぎを見ていた。五百城茉央ちゃんもアニメのとおりの木野まことだった。他の三人もしっかりした演技と歌を披露していて驚いた。彼女たちの脇を固めるのは元宝塚をはじめとした実力派である。

 私はただただミュージカル『美少女戦士セーラームーン』の世界に没頭した。

 

 そして、失われていた記憶が蘇る。

 『美少女戦士セーラームーン』は名作だったこと。大学時代に全話を制覇したこと。当時書いていたブログでおそらく一万字を超える感想を書いたこと。

 それだけじゃない。それよりもはるか前、小学生時代に原作を読んだこと。「シュープリーム・サンダー」を「シュークリーム・サンダー」だと思っていたこと。神社の巫女が「バーニングマンダラー」を放つのは神仏習合の事例の一つであること。

 なぜ『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』の文字列のうち、「乃木坂46"5期生"」にしか目が行かなかったのか。「セーラームーン×乃木坂465期生=最×高」だということになぜ気付かなかったのか。

 きっと私は社会人生活の中で一度死んでしまったに違いない。前世の記憶はそこで蓋をされたのだ。

 それでも私とセーラームーンは再び出会った。井上和に導かれ何度も巡り合ってしまった。

 

 公演後、私は後楽園にいた。

 後楽園は初代水戸藩徳川頼房によって作られた現存する最古の大名庭園日本三名園偕楽園兼六園・後楽園だが、この後楽園は岡山の後楽園だから間違えないように。名前の由来は「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」(天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)にある。

 歩いていると、昔の記憶が蘇ってくる。

 水戸の藩主だった私は、岩槻藩の姫君だったプリンセス・ニャギニティと恋をしたんだっけ。民の苦労を知るために二人で稲作をしたことが懐かしい。顔についた泥を腕で拭おうとするにゃぎはまるで猫のようだった。しかし、そんな日々もつかの間。嫉妬した正室の中西アルノが差し向けた毒蛇によって二人とも死んでしまうのだ。きっと民衆を出しにしていちゃついていた罰が下ったに違いない。天下の憂いに先立って楽しんでしまうとこうなる。

 にゃぎとアルノが巡り合った現世となっては良い思い出である。(そう、前世のアルノはにゃぎに嫉妬したのではなく、私に嫉妬したのだ。)

 

 というわけで、そんな素晴らしい『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』は、千秋楽を配信で見られる&ブルーレイの発売も決定している。乃木坂ファンもセーラームーンファンも要チェケラ。

 

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』千秋楽公演のライブ配信が決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト

 

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』のBlu-ray発売決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト

*1:毎日ではないという説もある。

*2:後期課程+1年

『オッペンハイマー』を観た

 『オッペンハイマー』は2023年の映画*1。監督・脚本はクリストファー・ノーラン。主演はキリアン・マーフィ―。アカデミー賞は作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞を受賞。

ビッグプロジェクトもの

 タイトルにもなっている主人公のJ・ロバート・オッペンハイマーは、原子爆弾の開発チームのリーダー。原爆の父である。

 したがって、この映画は必然的にビッグプロジェクトものとなる。ビッグプロジェクトものの映画といえば、『戦場にかける橋』が筆頭に挙げられるが、ほかにも『イミテーション・ゲーム』などがある。*2

 ビッグプロジェクトに欠かせない要素としては、言うまでもなく、達成すべきビッグなプロジェクトがある。通常、一人の力で達成できるものはビッグなプロジェクトとは言わないから、仲間も必要だ。

 加えて、プロジェクトを達成するために必要なリソースが揃ったら、あとは完成を待つだけとなるが、それではドラマが生まれない。したがって、プロジェクトの成功を阻止しようとするライバルもかなり重要な要素となる。

 ついでにいえば、プロジェクトの進行度合いを示すゲージのようなものもあるとなお良い。特に、今回の映画で作ろうとしているのは、いまだかつて作られたことのない爆弾だ。巨大な橋と違って、できあがっていく様子が目に見えるものではない。代わりに何で進捗状況を示すのか、は地味に映画のクオリティに直結するポイントかもしれない。

 ここらへんは基本なので、名匠クリストファー・ノーランなら当然に押さえている。この時点で面白いかつまらないかでいえば、面白い映画となることがほぼ確定している。

 問題は、面白いのさらにその先へ行けるかどうかだ。

プロジェクトの持つ意味

 ビッグプロジェクト系映画が成立すれば、観客は必ず次のような感情を覚えることになる。

「ビッグなプロジェクトを達成した! やったー!」

 名作と言われるには、ここにひとつまみのスパイスを加えることが必要だ。そのために有害又は不毛な目標を設定するという手法が存在する。

 『戦場にかける橋』では、主人公は敵軍(日本軍)のために橋を作る。敵軍を利するわけだから、味方にとっては有害な目標だ。プロジェクトを達成する喜びは、純粋なものではなくなる。「本当にプロジェクトを達成してよいのか?(よかったのか?)」という疑念が混じることになる。これが深い味わいを生む。

 『イミテーション・ゲーム』でも、せっかくエニグマの解読を達成したのに、あえて仲間を見殺しにするエピソードが挿入される。功績も口外禁止で、チューリングは全然関係ない罪(同性愛者であるという罪)で惨めな死に追いやられてしまう。

 この手法を採用すると、主人公はビッグプロジェクトを達成した功労者であると同時に、罪人となる。矛盾があり、がある。いずれもエンターテイメントにとっては重要な要素だ。映画はぐっと名作に近づいていく。

 『オッペンハイマー』でも、プロジェクトの達成は日本の市民の虐殺を意味し、人類が自らの力で滅亡する可能性の誕生を意味する。間違いなく有害な目標である(もちろん見方によって様々な評価がありうるが、あらゆる評価はそういうものである)。しかも、社会へのインパクトでいえば、これ以上に大きなものはそうそうない。

 つまり、オッペンハイマーという題材はこの上なく魅力的なのだが、そこにはリスクもある。センシティブな問題に触れることになるので、生半可な気持ちで取り扱うとやけどを負うことになる。

法廷もの

 その主題の重大さゆえに、『オッペンハイマー』はプロジェクト達成からが長い。おそらく3時間のうち1時間が、達成後に割り当てられている。

 戦後、オッペンハイマーは情報漏洩を疑われ、聴聞を受けることになる。これは非公式の裁判のようなもので、結果次第でオッペンハイマーの研究者生命は絶たれることになる。つまり、『オッペンハイマー』は2/3がビッグプロジェクトもの、1/3が法廷ものの様相を呈している。

 もちろん、ただ映画のテイストが変わるだけではない。ビッグプロジェクトパートで発生した仲間とライバルの要素が、法廷ものパートに効いてくるのだ。

 最終的に、オッペンハイマーは勝利を収める。一度公職を追放されるものの、彼を追い落としたストローズもまた後に屈辱を味わい、一方でオッペンハイマーの名誉は回復されるのだ。

 そんなわけで本作は、3時間でビッグプロジェクトものと法廷ものの二つを楽しめるお得作品となっている。

時間軸シャッフル

 とはいえ、ここで一つの懸念が生まれる。

 外形上、法廷パートの焦点は、オッペンハイマー個人の処遇に当たることになる。せっかく核兵器という人類レベルで重要なモチーフについて描いたのに、一個人の問題に閉じていく構造でよいのか?

 これに対するアンサーとしては、「法廷パートもまた『核兵器とはなんぞや』を描くために存在する」というものが考えられるし、『オッペンハイマー』もそのように作られていると思われる。だからオッペンハイマーが政治闘争に勝つか負けるかなど本来的にはどうだっていい問題なのだ。

 ビッグプロジェクトパートでは、原爆というガジェットそれ自体が描かれる。法廷パートでは、ガジェットを取り巻く人々の思惑が描かれる。核兵器を推進するのか拒絶するのか。いかにして自己正当化するのか。何を、誰を恐れているのか。本当の根源にあるものはなんなのか……。(この中に、核兵器が使われるとどのようなことが起きるのかは入っていない。『オッペンハイマー』への批判がその点に集中することは容易に想像できる。この映画が何を描こうとしたかを重視するか否かによって見解は分かれるだろう。)

 言うまでもなく、この映画の本題は法廷パートにある。したがって、ビッグプロジェクトパートは法廷パートに内包されることとなる。オッペンハイマーが原爆を作るまでの過程は、聴聞での陳述の内容なのである。

 ここにまた別の視点、オッペンハイマーが放逐された後のストローズの視点も時間軸を越えて混じってくるから映画はかなり複雑になる。

 特に序盤において、映画の筋を追いきれず、観客はかなりストレスフルな状況に置かれる。あまりのストレスに、私は眠りに落ちた。睡眠不足が祟ったせいか、2回観たけど2回とも寝た。でも身体が睡眠を求めているなら寝ることは良いことだ。むしろ普段は昼寝もろくにできないのが悩みなので、これは映画の素晴らしい効能とさえいえる。

 それはともかく、初見の序盤は脳みそをかき回されるような感覚で混乱する。後半あたりからだんだんと状況が整理されてきて落ち着いてくる。このあたり、つまりは時間軸をシャッフルするという手法を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかも人によって見解が分かれるところかもしれない。

 私は初見では悪印象だったのだが(分かりやすい方が一回で理解できてお得だから!)、2回目はさすがに理解できたのでこれも悪くないと思った。というか、時間軸シャッフルのおかげで分かりやすくなっている面もあることに気付いた(気がする)。それに、混沌としている間に原爆の制作が進んでいって、原爆完成の直前ぐらいからだんだんと物事がクリアになっていく感覚、これぞまさにオッペンハイマーが体験した世界なのではないか。いや実際はそんなんじゃなかっただろうけど、少なくとも、そういう妄想をする余地はある。

 

weatheredwithyou.hatenablog.com

*1:日本公開は2024/3/29

*2:近いものとしては『カメラを止めるな!』もあるが、あれは即興的なのでミッション・インポッシブルに近いかもしれない。『風立ちぬ』はプロジェクトが先立つ物語ではないから少し違う気がする。

◯んちだいずかん

 うずまき、いっぽん、びちびち。

 

 世の中にはいろいろな◯んちがある。

 

 一休さんは◯んちが得意。

 

 今日も殿様に無理難題をふっかけられた。

 

「この屏風に描かれた虎さんを捕まえてくれないか」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんの◯んちに殿様も開いた口が塞がらなかった。

 

"Then please release the tiger from the folding screen."

 

 殿様は屏風を捨てた。

 

 翌日、一休さんが橋を渡ろうとすると、立て看板にこう書いてあった。

 

「このはしわたるべからず」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんは◯んちを披露した。

 

"I am walking on ◯it. I am not walking on the bridge."

 

 その後、一休さんを見たものはいない。

 

 一休さんのほかには誰も橋を渡ることはできなかったから。

朝日新聞とレザボア・ドッグスと流れない便器

今週のお題「練習していること」

 

 日経電子版の無料体験期間が終わったので、朝日新聞デジタルの無料体験をしている。日経と違って朝日は一ヶ月しか無料期間がない。ケチである。

 日経と朝日は全く毛色が違う。日経は当然ながら経済の記事が多いのだが、朝日は国内政治とか社会の記事が多い。メインとなる報道の対象が異なるわけだ。この違いが、報道の仕方の差異まで生み出している。日経は物事をマクロで捉えようとするのに対し、朝日は物事をミクロで捉えようとする。日経は現象に注目するのに対し、朝日は人間に注目する。

 ……という印象を覚えた。私は日経の方が好きである。

 

 『レザボア・ドッグス』を観た。クエンティン・タランティーノのデビュー作。

 宝石の強盗を画策したヤクザな男たちの作戦が失敗して裏切り者が誰なのかやんややんや喚き合う映画である。

 この映画の中で印象的な言葉がある。登場人物の一人が、仲間たちに気に入られるためにジョークを覚える場面。彼は師匠的な人物にこう言われる。

細かい部分にこだわれば説得力が増す。話の舞台は男子便所だ。便所の細部にこだわれ。手拭きは紙かドライヤーか? 個室にドアはついてるか? せっけんは液体か? 高校で使ってた粉タイプか? お湯は出るのか? 臭いか? どこかの汚いゲス野郎が使ってクソまみれなのか? なにもかも答えられるようにしろ。

 クエンティン・タランティーノ朝日新聞派だ。いや、それはどうでもいい。これは奥義だと思った。

 優れた映画は優れた構造を持っているが、同時にディテールも優れている。

 先日アカデミー賞を取った宮崎駿が『もののけ姫』のメイキングで何を語ってきたか? 藪の中を駆けるアシタカに顔を守る演技をさせたアニメーターに、アシタカはそんなやわじゃないと言っていたのではないか(うろ覚えだが)。たたらを踏む女に辛そうな表情をさせたアニメーターに、作用には反作用があるものだと語っていたのではないか(やはりうろ覚え)。どちらもストーリーには全く関係ないし、おそらく宮崎駿が修正する前のバージョンでも観客の誰も文句を言わないであろうほどの細部。そこまでの細部にこだわるから名作は生まれる。

 実写ではこの部分を役者が担う。監督や脚本は大きな枠組みを決めるのであって、最終的な細部を決定するのは役者や衣装、カメラマンえとせとらえとせとらなのである。これについて語ることから私は逃げ続けてきた。これからも逃げ続けるかもしれない。細部についてじっくり語るのは難しい(一言二言触れるのは容易だが)。

 神は細部に宿る。そのことをクエンティン・タランティーノに改めて教えられた気がする。

 

 というわけで細部について語る練習をしよう。

 

 男子便所と言えば、昨日の話である。

 私が職場の便所に入ると、個室から男が出てきた(女が出てきたら驚く)。別の部署で働いているバイト君だった。どことなく大谷翔平を想起させる雰囲気の高身長ハンサムボーイである。便所の中にはほかに誰もいなかった。

 自分が使った直後の個室に入られるのは気まずかろうと思って――いや、本当は私が気まずかったのかもしれない――私は翔平が出てきたのとは違う方の個室に入った。

 この便所には二つの個室がある。彼が出てきた個室は洋式、私が入った個室は和式の便器だった。

 多くの日本人は和式より洋式の便器を好む*1。私も御多分に漏れず、洋式の方が良かった。そこで、個室の中でベルトを外しながら聞き耳を立てた。便所のドアが開き、閉まる音がする。おそらく翔平が出ていったに違いない。だが、第三者が入ってきた可能性もある。私はなおも聞き耳を立て続けた。便所の中で音を立てるものは換気扇だけだった。今、便所の中にいるのは自分だけ。そう確信が持てたところで、私は個室の扉を開けて、翔平が出てきた洋式の個室の方に移動した。

 扉を開けると、目に飛び込んできたのは水の中に浮かぶ茶色いものであった。瞬間、こみ上げる吐き気。反射的に和式の個室に逃げた。

 30年以上生きていれば、汚物が残留している便器に遭遇したことは何回もあるが、直前の使用者が判明しているというのは、しかもその使用者が顔見知りであるというのは、初めてのことだった。とてもそんなことをしそうな人物ではなかったのに……。水原一平がギャンブル中毒だったのと同じくらいの衝撃である。

 いや、おそらく翔平とて故意に排泄物を残したわけではあるまい。狸ではないのだから。もしなんらかの目的を持って行った行為(たとえば自己の存在証明)だとすれば、むしろ便器の中に排泄しただけまとも……と考えることができるかもしれない。が、常識的に考えれば、これは事故である可能性が高い。翔平は流したつもりだったのに、流れていなかったのだ。

 というのも、翔平が使ったトイレはスイッチが半壊していて、ちょうど上手い具合に押さないと水が流れないのである。もちろん水が流れないことに気付いて何度もスイッチを押して流そうとするのが普通である。だが、100人いれば1人くらいは流れていないことに気付かなくても不思議ではない。スマホを置き忘れるような輩もいるわけだし、なにか考え事をしていると確認を忘れることはある。つまり、今回の事故は起こるべくして起こったものだと言えるし、それがたまたま翔平の身に降り掛かったにすぎない。

 こうしたアクシデントの原因を属人的な問題として捉えるか、それとも構造的な問題として捉えるか。真の問題解決のためには、後者の視点が重要ではないだろうか? たとえば、この視点なくしてはバリアフリー社会も形成しえないであろう。

 翔平は、自分がうんこを便器に残したままだったと知らない。これからも知ることはないだろう。私が教えない限りは。なんと哀れなのだろうか。おそらく、うんこ流さないマンのほとんどは、自分がうんこ流さないマンであることを知らない。恐ろしいことだ。フィードバックがない――これもまたうんこ流さないマンが生まれる構造的原因の一つである。きっとうんこ流さないウーマンもいるに違いない。それがアイドルだったら? ショックだ……。

 そんなことを考えながら、私はレバーを押す。水がすべてを洗い流す。

 扉を開けて個室を出る。洗面台でキレイキレイを付けて手を洗う。ふと不安になって、再び(私が使った方の)個室を覗く。大丈夫。流れている。

 やれやれ、今回は無事だったが、それはたまたまだ。過去に私もうんこ流さないマンになったことがあるかもしれない。

 もしかしたら、あなたの背後の便器にも――。