たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

乃木坂46『是非に及ばず』のけだかわいさについて語ります。

 乃木坂46の42ndシングル『是非に及ばず』がすごい。好き。


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メンバーについて

 今回のセンターを務めるのは一ノ瀬美空ちゃん。通称みーきゅん。見る人をキュンキュンさせるアイドルです。

 戯言はともかく、この抜擢はサプライズといえばサプライズだし、そうでもないといえばそうでもない。

 中西、井上に続いて池田がセンターに選ばれた時点で、「5期生」で勝負していく運営の方針はうっすら見えていた。次は一ノ瀬か川崎か。こうなるのは時間の問題だった。

 とはいえ、遠藤や賀喜あたりを挟まずにそのまま一ノ瀬に真夏の全国ツアー座長を務めさせたのは驚きである。こうなると次も川崎か五百城か、はたまた小川あたりかといった雰囲気も出てくる。

 それから今回は6期生からも選抜されて、瀬戸口、矢田、森平、大越というメンツ。これは序列も含めて特に驚きはなし。瀬戸口をフロントに据えたのは運営からの期待を感じるし、たぶん来年中には単独センターがあると予想。

『是非に及ばず』は負け犬たちの歌である。

 私は『ネーブルオレンジ』が大好きなのだが、なんでかといえばやはり中西アルノちゃんと井上和ちゃんの歌声が素晴らしいから。センターのソロで魅せるというのは、思い切って言ってしまえば、それまでの乃木坂にはなかったものであった。

 ところが、『是非に及ばず』はその真逆である。メンバーの伸びやかな歌声を聴かせる類の曲ではない。良くも悪くも誰が歌おうが似たような感じになる曲ではなかろうか。

 この楽曲の主役はギターではないかと思う。イントロもギターから始まるし、なんといっても2:28から始まるギターソロこそこの曲の最大の見せ場ではないだろうか。

 これは大胆である。ロックバンドじゃないんだから。メンバーがギター弾いてるわけじゃないんだから。アイドルソングなのにアイドルが脇役になっている。

 だがそれがいい。

 この楽曲は「負け犬たちの歌」だ。

 タイトルにもなっている「是非に及ばず」は織田信長が本能寺の変に際して述べた言葉とされている。織田信長は部下に裏切られて志半ばで倒れた負け犬だ。

 私たち人類も今、負け犬になろうとしている。AIの進歩が目覚ましく、シンギュラリティは近いと思わずにはいられない。ていうかなんならすでにチャッピーの方が自分より優秀だし……(私はGemini派だけど)。

 しかし、そんなことは人類にとって初めてのことではない。産業革命や新自由主義で職を失った人たちはたくさんいる。人類は自分が生み出したものに駆逐され続けてきた。

 MVに目を向けよう。

 彼女たちがたむろしているのは落書きや貼り紙で埋め尽くされた電話ボックスやバスの中。これらはきっと終盤に出てくる最終処分場から引っ張ってきたものに違いない。つまり彼女たちは社会から不要とされ排除されたゴミを使って自分たちの居場所を作り上げている。それは彼女たち自身も社会の爪弾き者であることを暗示しているのだ。

(故にこの曲は夏曲でなければならない。社会の底辺の苛立ちがピークに達する季節は夏と相場が決まっているから。)

 乃木坂の曲(に限らずJ-POP全般に言えるが)では、自分らしく生きることを訴えるものがしばしばある。だが、自分らしく生きるとはどういうことだろうか。ぼんやり生きていると自分らしくは生きられないということである。自分らしく生きることが歌うに値するのはそれが難しいからだ。なぜ自分らしく生きられないのか。それは社会からの圧力が存在するからである。社会は一定の尺度で測れないもの、劣ったものは切り捨てようとする。それは社会の定めた尺度に沿って生きることを人間に強いる圧力になる。その圧力の被害者が積み上げられたゴミの山である。そういう社会の圧力を間接的にせよはっきりと映像化した楽曲は乃木坂の中ではたぶん珍しい。

 そんな負け犬たちの歌には、叩きつけるように吐き捨てるように、短い言葉で訴えるのが相応しい。『ネーブルオレンジ』とは真逆たる所以である。

負け犬はけだかわいい。

 私は負け犬が大好きだ。

 けちょんけちょんにされて惨めな思いをしている人間がこの世で一番愛おしい。それはたぶん私が自分自身を惨めな人間だと思っている裏返しでもある。「こいつは俺だ! 俺はこのとおりだったんだ!」と思える。小さくて可愛い奴らである。

 絶望の淵にいる時、その人の本当の人間性が現れる。生活に不自由なく幸せに暮らしている人間が他人に優しいのは当たり前だ。苦しい時でも強者に迎合せず、自分の生き方をまっすぐ貫ける人こそが一番気高くてかっこいいと思う。

 私の好きな映画、アニメを思い返してみると負け犬がもがいている話ばかりだ。『アパートの鍵貸します』『セッション』『ラ・ラ・ランド』『もののけ姫』『少女革命ウテナ』『コードギアス 反逆のルルーシュ』などなど……。こうしてみると私は一貫して負け犬を愛していたんだなと今になって気付かされる。

 そんな負け犬たちを乃木坂ちゃんたちが演じるとなると、これはもう最高である。気高さと可愛さが爆発している。略してけだかわ。けだかわいさこそ『是非に及ばず』の肝である。

みーきゅんきゅんきゅんきゅん

 この曲の持ち味を最大限に引き出せるのは負け犬の気高さとかわいさを同居させることができる人間である。

 となれば、この曲のセンターを任せられるのは一ノ瀬を置いて他にはいない。

 一ノ瀬は仲間のプロデュースができるアイドルだ。井上和の必殺技「にゃんにゃんにゃぎ」は一ノ瀬の発案だし、小川を最初に赤ちゃん扱いして愛でたのも一ノ瀬だ。周囲のメンバーをよく観察し、その人の良い部分を引き出そうとする尊い精神が彼女にはある。次の動画は彼女のそういう性格がよく表れていると思う。


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 彼女には技術もある。愛らしさだけではなく、燃えるような熱さと氷のようなクールさを表現できる技術が。昨年の神宮で披露した『Against』が心に残っているファンも多いのではないだろうか。

 『是非に及ばず』の持ち味を最大限に引き出せるのが一ノ瀬であるが、逆もまた然り。一ノ瀬の持ち味を最大限に引き出せるのは、『是非に及ばず』のような可愛いとかっこいいが絶妙にブレンドされた楽曲に違いない。

 私は『是非に及ばず』が乃木坂のライブの新しい定番曲となることを確信しております。

仕事はなぜクソゲーなのか

 iPhone17eを買った。Apple Arcadeを無料で3ヶ月体験できるよというので『ドラえもんのどら焼き屋さん物語』というゲームをプレイしてみた。

 最初は面倒臭さを感じて10分も経たずに放り投げてしまった。「老いるとゲームすらできなくなるのか……」と悲しさを感じたものである。

 奮起して再度トライしたところ、ひととおりの概要が分かった段階でのめり込み始め、数時間があっという間に溶けてしまった。

 

 ところで、ゲームというのはタスクをこなすことの繰り返しである。その点では仕事と全く同じである。

 にもかかわらず、なぜゲームにはのめり込んでしまい、仕事は辛く苦しく退屈なものなのか。なぜゲームのように仕事を究めることができないのか。仕事をゲーム化すれば、仕事が楽しくなるのではないか。もっと上手に仕事ができるようになるのではないか。

 ゲームが人を没頭させる、その秘密を探るため、我々調査隊はアマゾンの奥地へと向かった……。

ゲームの基本構造

 『ドラえもんのどら焼き屋さん物語』は藤子・F・不二雄作品のキャラクターが登場する経営シミュレーションゲームである。

 どら焼き屋を経営するということは、どら焼き(を含めた各種のお菓子)を製造・販売して、お金を稼ぐということである。それを原資にして、食材調達、新製品開発、店舗の内装・外装の整備などを通して一層の売上拡大を図ることになる。売上が拡大すれば、さらに大きな投資をすることができる。大きな投資はさらに大きな売上を呼び……この繰り返しである。

 これがゲームの持つ魔力の仕組みである。上に書いた説明を抽象化すると次のようになる。

  1. タスクの達成
  2. 報酬(フィードバック)の獲得
  3. 選択肢の拡張
  4. 新しい、より高難度のタスクの解放
  5. タスクの達成(=1に戻る)

 このようなループ構造になっている。この中には、挑戦に成功する喜び、成長する喜び、自分で選択する喜びが詰まっている。こうした喜びを高速回転で、延々と味わうことができる。だから人はゲームにハマってしまう。

『スイカゲーム』に当てはめる

 ほかのゲームにも当てはめて考えてみよう。例えば『スイカゲーム』はどうだろうか。

 『スイカゲーム』は小さい果物を融合させて大きな果物の生成を目指すゲームである。例えば、サクランボとサクランボをくっつけるとイチゴになる。イチゴとイチゴでブドウになり、ブドウとブドウでデコポンになる。全体としては、サクランボ→イチゴ→ブドウ→デコポン→柿→リンゴ→梨→桃→パイナップル→メロン→スイカの順で変化していき、スイカとスイカをくっつけると消滅する。

 このとき、メロンは「これをスイカにする」というタスクを内包している。と、同時にメロンは「パイナップルとパイナップルをくっつけた報酬」でもあるし、プレイヤーはメロンを作ったことで初めて「スイカを作る可能性を手に入れた」=選択肢が拡張されたということでもある。

 ここにもやはり、上に書いたループ構造が存在するのだ。それも極めて洗練された形で。

 ただし、『スイカゲーム』のループ構造はスイカを消滅させた時点で途切れてしまう。この弱点を補完するために、『スイカゲーム』にはポイントが導入されている。このポイントはリーダーボード(順位表)を作るための指標となる。スイカを消滅させられる上位のプレイヤーにとっては、リーダーボード(順位表)が報酬となりタスクとなる。

難易度調整も大事

 また、ループ構造が機能するには、入口がないといけない。ループ構造の始まりはタスクの達成なので、なるべく早くタスクを達成させることが必須となる。言い換えると、最初のタスクは誰でもクリアできる難易度でなければならない。

 ループ構造と同じくらい、難易度調整が大事ということである。プレイヤーのレベルに気を遣うことは極めて重要だ。

仕事はなぜクソゲーなのか

 ゲームにハマってしまう理由が分かったところで、なぜ私は仕事にハマれないのかを考えてみたい。

ループの成り立つ余地がない

 上のループ構造に当てはめて見ると、次のようになる。

 ゲームでは最初のタスクは最も簡単なタスクだが、現実ではそのような難易度調整はなされない。着任直後からいきなり高難度のタスクが降りかかることも珍しくない。

 そのようなタスクを達成したとて、フィードバックがない。給与はタスクの達成度とは無関係だし、誰も褒めてくれない。そもそも自分が何を成し遂げたのかあまり把握できていない。ただし大きなヘマをやらかした時だけは不快なフィードバックがある。

 タスクを達成してもスキルが向上したりすることはない。したがって、どんなにタスクをこなしても、より高難度のタスクを達成できるという感覚は皆無。

 タスクのクリアが新しいタスクを呼ぶなどという順序は存在せず、タスクに取り組んでいる最中から無秩序に処理しきれない量のタスクが降って湧いてくる。

 ループ構造のかけらもない。クソゲーの極みである。(これを読んで「そんなことないけどなあ」と思ったあなたは幸せ者です。)

容易に測定可能な共通の指標の欠如

 フィードバックに関してもう少し掘り下げてみたい。

 一般に組織からのフィードバックとして人事評価というものがある。典型的な例として国家公務員の人事評価について考えてみよう。

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 国家公務員においては、一部MBO(目標による管理)が行われている。期中に設定した目標の達成度で評価をするというやつである。

 ポイントは次の二つ。

  • 人事評価の結果が昇給やボーナスの内容に影響を与える。
  • 職員が目標を定める。

 これは明らかに破綻している。……と思うのは私だけであろうか?

 このような形の人事評価が行われる目的は、能力に基づく人事管理を行うことと人材育成だという。

 さて、ゲームではプレイヤーのタスクの達成度(=業績)が即座にフィードバックされる。なぜそのようなことが可能なのかといえば、容易に測れる指標を設定し、それを常時測定しているからである。

 そしてプレイヤー間でスコアを競わせる場合には、共通の指標を用いることが前提となっていることはあえて述べるまでもないだろう。例えば、『スイカゲーム』においてあるプレイヤーの評価にはポイントを用い、また別のプレイヤーの評価にはスイカを作るまでのタイムを用いる、などということは絶対にあり得ない。それぞれの指標に応じたリーダーボードを作ることはあっても、一つのリーダーボードの中で異なる指標が用いられることは想像すら難しい。

 ところが、国家公務員の人事評価においては、そのような絶対にあり得ないことが発生する可能性がある。(「可能性がある」というのはかなり控えめな言い方だが、私は当事者ではないのでそのような言い方に留めておく。)

 なぜならば、職員の業績を測るための指標は職員自身が設定するからだ。これはつまり、職員の数だけ指標が存在するということになる。上司がコントロールして難易度を揃えれば共通の指標となりうる、と弁護することも理論上は可能かもしれない。しかし、それは至難の業ではないだろうか? 果たして現実的に可能なのだろうか?

 もちろん職員自身が目標を設定して取り組むこと自体は否定しない。ただ、それに基づいて報酬を定めるのは明らかにゲームとして破綻している。全職員を一つの順位表の中に位置付けるならば、共通の指標を用いるのが大前提中の大前提ではないだろうか?

 なぜこのような制度を策定したのか。それももしかしたらゲームと関係があるかもしれない。ゲームにおいて大事な要素の一つが、プレイヤー自身が選択している感覚である。目標を従業員自身で設定すれば、従業員は与えられた目標よりも意欲的に目標を達成しようとするに違いない。この仕組みを最初に考えた人の思いは想像に容易い。その思いを尊重するならば報酬に紐づけるべきではないと私は思う。

 この破綻した制度の行き着く先は、容易に達成可能な目標を困難な目標に見せかける技術を競うゲームであろう。その技術こそが官僚に必要な能力だと考えるなら人事院の目的は達成されるわけだが、果たして……?

学校はなぜクソゲーなのか

 人材育成とゲームの関係性を考えていくと、学校教育にも目を向けずにはいられない。

 「なぜ学校は楽しくないのか?」という問いにも、ゲーム的な観点から見ると答え(の案)を出すことができる。

 それは難易度調整がされていないからである。数十人の子供を一つの教室に詰め込んで一つの授業を受けさせるからである。

 子供には能力の違いがある。ある子供は最初からレベル100かもしれないし、また別の子供はレベル1からあっという間にレベル100まで駆け上がるかもしれない。反対に、ある子供はレベル1から遅々としてレベルアップしていかないかもしれない。そのような能力差は考慮されず、画一的な内容で授業は進行していく。

 その結果、ある子供にとっては「新しい、より高難度のタスク」が一向に解放されず、別の子供にとっては「タスクの達成」ができないまま「新しい、より高難度のタスク」に挑戦させられるということが起きる。授業のペースに奇跡的にマッチングした生徒だけが学校教育で快感を味わうことができる。

 この点、塾はある程度の配慮がなされていることがたぶん多い。成績に応じてクラス分けがなされ、レベルの高いクラスでは高難度の授業が行われ、レベルの低いクラスでは低難度の授業が行われる。

 (今はどうか知らないが)塾では順位表の貼り出しもよく行われる。順位表は『スイカゲーム』に限らず様々なゲームで用いられるが、一部の成績上位者にとってはやりがいのある目標となる。

 なぜ塾ではそのような取り組みが可能なのかというと、学力という容易に図れる指標を用いているからにほかならない。一方、学校教育の目的は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」*1という曖昧なもので、容易に測定可能な指標も設定のしようがないように思われる。

 ただ、じゃあ学校では人格教育も行われているかというとそこはかなり微妙なところで、たしかに道徳の授業などもあるにはあるが、国語算数理科社会に比べれば圧倒的にウェイトが低いことは疑いようもない。個人的には、道徳心の育っていない子供だけで教室の中に社会を形成させることはむしろ人格的成長の妨げになるのではないかという気がしてならない。パラグアイ4部リーグでプレーすればスポーツマンシップは自ずと育まれるのかという話である。

 部活動にも同様の問題を見出すことができるだろう。

 

 こんな感じで、ゲームとして世の中を眺めると見えてくるものがある気がしてきた。というわけで、今後は人生に役立てるためにゲームで遊んでいきたいと考えている。

『失敗の本質』感想

 『失敗の本質』を読んだ。

 『失敗の本質』は組織論の本だ。抽象的な議論だけでは難しいし退屈だから、具体例が必要になってくる。どんな具体例を取り上げるかで本の面白さは決まってくると言っても過言ではない。

 成功した組織を取り上げるのか、失敗した組織を取り上げるのか。いずれにせよ、その組織の成功・失敗について読者との間に共通認識がなければならない。さらに、その組織が読者にとって身近な存在かも重要だ。

 『失敗の本質』が取り上げる具体例は、大東亜戦争*1における日本軍である。

 この時点で面白くなることは半分保証されたようなものと言っても過言ではない。敗戦は日本の近現代史において最も重要で、最も悲惨な出来事であることは間違いないし、それだけに日本軍は我々にとってこの上なく身近な反面教師である。しかも、戦争という人の生き死にに関わる話だから、多くの読者はきっと心を揺さぶられるに違いない。

 

 この本の中で語られている日本軍の失敗の原因はいくつかあるが、ここでは「作戦目的の曖昧さ」について取り上げたい。

 曖昧な作戦目的とは、例えばこのようなものである。

ミッドウェー島を攻略し、ハワイ方面よりする我が本土に対する敵の機動作戦を封止するとともに、攻略時出現することあるべき敵艦隊を撃滅するにあり

 これのどこが曖昧なのだろうか。ミッドウェー島を攻略して、敵艦隊が出現したら撃滅する。実に分かりやすいではないか。

 この単純明快な作戦目的が曖昧とされるのは、目的が二つあるためだ。

  • ミッドウェー島を攻略する。
  • 敵艦隊を撃滅する。

 限られた兵力を前者に投じれば、後者が達成されない可能性がある。逆もまた然り。そのような条件の中で、二個の目的のどちらを優先すべきなのかが分からない。両方を追い求めればいずれもが中途半端になってどちらも得ることができない。二兎を追う者は一兎をも得ずというやつである。

 というわけで、「作戦目的の曖昧さ」という言葉はなかなか奥が深い。

 私が読み取ったところでは、作戦目的の曖昧さを構成するものは三つの要素である。

  • 目的が一個ではない。
  • 目的を達成する手段が十分に検討されていない。または手段と目的の結びつきが強固ではない。
  • 目的が共有されていない。

 これは『イシューからはじめよ』で説かれていたことと通じる。

 まず「バリューのある仕事とは何か」という問いへの答え(仮説)を出す。先ほど挙げた例で言えば、ミッドウェー島を攻略することと敵艦隊を撃滅することのどちらが戦争全体を有利に進める上でより重要なのかを決めるということになるかもしれない。

 そして、定めるべき仮説は検証できるものでなければならない。イシューを設定する時点で、検証の方法が設定されていなければならないのだ。太平洋戦争で言えば、長期に及べば勝てないことはあらかじめ分かっていたのだから、早期に戦争を終結させる現実的な道筋を明確に思い描いておかなければならなかった。ところが、「ビビらせれば講和してくれるっしょ」という曖昧な期待を胸に戦争を始めてしまったわけである。

 

 なるほど! やっぱりイシューから始めることが大事だったんだ! イシューから始めないのが失敗の本質だったんや!

 ……と思いたくなる。

 しかし、これは失敗の本質ではないと私は言いたい

 曖昧な目的以外の原因(情実の優先、短期決戦の成功体験への固執、情報と兵站の軽視、統合戦略の欠如などなど……)も同様である。

 これらは単に大東亜戦争という個別具体的な状況において日本軍が連合軍に惨敗した原因に過ぎない。

 我々が生きている世界は大東亜戦争とは全く違う環境にあるので、それらをそのまま我々に当てはめることはできない。

 この本の終盤にこのような記述がある。

日本の政治組織についていえば、日本軍の戦略性の欠如はそのまま継承されているようである。しかしながら、日本政府の無原則性は、逆説的ではあるが、少なくともこれまでは国際社会において臨機応変な対応を可能にしてきた。原則に固執しなかったことが、環境変化の激しい国際環境下では、逆にフレキシブルな微調整的適応を意図せざる結果としてもたらしてきたのである。

 これは「作戦目的の曖昧さ」が常に失敗をもたらすわけではない、それどころか成功を導く場合もあることを示唆している。

 

 それでは失敗の本質とは何なのか?

 それは戦略と組織の環境とのミスマッチであり、組織学習の機能不全である。

 『失敗の本質』第3章では、次のような分析枠組みが示される。

  1. 前提条件として外部環境(国際・国内情勢、技術の発展段階などなど)がある。
  2. 組織は外部環境の生み出す機会や脅威に適合するように、資源を蓄積し、展開する。(=戦略を立てる。)
  3. 戦略は組織構造、管理システム、組織行動の相互作用を通じて遂行される。
    組織構造:組織の分業や権限関係の安定的なパターン
    管理システム:組織構造以外のコントロールシステム
    組織行動:構成員の相互作用のプロセス
    →簡単に言えば、戦略を遂行するのは構成員であり、構成員の行動は組織の仕組みによってある程度決まるということである。
  4. 上記により得られた成果に応じて、組織は戦略の強化または変更を行う。(組織学習)

 要するに、組織は試行錯誤を通じて戦略を変化させていきながら環境に適合していくはずだということである。

 厄介なのは、外部環境はある時から突然現れるわけではないということだ。極端な話、ビッグバンの時点から外部環境は存在する。時間と共に外部環境は変化していく。それに応じて組織も変化していかなければならない。

 ある時点において環境に完璧に適合した組織があるとする。その組織は戦略、組織構造、管理システム、文化などなどを今の環境にさらに適合するよう強化していく。ところが、それが変化の妨げになってしまうことがある。環境Aに適合した結果、新しい環境Bに適合するよう変化できなくなってしまう。日本軍はまさに日露戦争の成功体験を基に戦略を研ぎ澄ませていった結果、大東亜戦争当時の環境に適合できなくなってしまっていたのだ。

 つまり、組織のあり方には、その時に存在する外部環境だけではなく、それまでにその組織が歩んできた歴史も大きな影響を与えるというわけである。

 

 そのように考えていくと、『失敗の本質』が日本軍を題材にした効果について、冒頭で述べた以上のものが見えてくる。

 この本に書いてある理論を学んで、自分の所属する組織について考えを巡らせるとする。その際、点検の対象として、環境・戦略・資源・組織構造・管理システム・組織行動・組織学習の7つが考えられる。それに加えて、さらに一歩進んで、「組織の歩んできた歴史が視野や思考を歪めていないか」ということにまで思いを馳せたい。

 そのためにはまず歴史を知らねばならない。その意味で、日本軍の行動様式について知ることは単に組織論のケーススタディ以上の意味を持つのである。日本軍はただの反面教師ではなく、我々の過去の姿でもあるというわけだ。

 いやはや、実によくできた本ですね。

*1:「戦場が太平洋地域にのみ限定されていなかったという意味」で本書ではこの呼称を用いている。

読書感想文は本を読む前に書くのがいいのかもしれない

 社会人12年目にしてやっと『イシューからはじめよ』を読んだ。

 

 この本の主張を端的にまとめると、短い時間で圧倒的な成果を出すには「最初に仮説を立てましょう」ということ。ただの仮説ではなく、本質的な問題についての仮説でないといけない。さらに、本質的なだけでは足りず、現時点で検証可能でないといけない。

 これの何がいいかというと、仮説を証明できた場合に確実に大きな成果が得られる。証明のために何をすればいいかが明確なので、無駄な作業が発生しない。

 逆に仮説を立てないと、まず闇雲に調査をしてから何か意味がありそうなことを考えるという順番になるわけで、よほど運が良くない限り無駄が多くなる。

 とまあ、そんな感じの話であると理解した。

 

 読みながら思ったのは「こんなん無理でしょ」ということである。そして、自分はなんらかのイシューをどこかの段階で設定するような仕事はしていないぞ?ということである。

 というわけで、自分はこの本のターゲットではなかったのかもしれないということを思った。

 

 それから数日後、別の本にマーカーを引きながら、こんなことを思った。

「読んでる時に大事だと思う場所と、ブログを書くときに参照できる場所って違うんだよな〜」

 その時、気付いた。

 これこそイシューから始めることで解決される問題なのでは?

 ブログを書くという行為は知的生産ではないか。(ちなみに『イシューからはじめよ』ははてなブログの記事がスタートにあるんだってさ。衝撃的だね。)

 だとすれば、イシューから始める=本を読むよりも先に感想文を書いてしまう。そうすることで読書の生産性を高めることができるのではないか?

 しかし、本を読むよりも先に読書感想文を書くことなど可能なのか?

 いや、可能な気がする。

 そもそも人はなぜ本を読むのか?

 それは人生観と世界観を変えるためである。

 同じことは感想文にも言えるはずである。

 あらかじめ世界観がちょっとだけ変わるような感想文を書いておく。

 言い方を変えれば、その本を読んで自分の世界観がどのように変わるか想像する。

 読書中は感想文に使えるパーツを探す。

 そうすれば本を読んだ後に

「大したこと書けないな〜。めんどくさいな〜」

「一言で要約してみるけど、正確さに自信がないなあ。でも読み返すのめんどくさいなあ。まあ「そう理解した」とでも書いとけばいっか」

と思わずに済むはずである。

 無論、読んでみたら思ってたのと違う可能性はある。だが、その外れた予測こそ、その本の意外性=面白ポイントを指し示しているのである。

 う〜ん、これはなんだかいける気がするぞ。

 というわけで、次回はそのように記事を書いてみたいと思ふ。

『テスカトリポカ』感想

 『テスカトリポカ』を読んだ。

 メキシコの麻薬戦争に負けた売人が再起を図ろうと日本で頑張る話。タイトルはアステカ帝国で信じられていた神の名前。

 感想を一言で言うと、全体としては面白いけど面白くないところもあるという感じ。

 

 映画の冒頭で観客を惹きつけるために使われる三つの要素がある。

  • エロ

 名作は大体これらのいずれか又は複数を使っている。それだけこれらには求心力がある。

 その点、麻薬はエンターテインメントの題材としては優秀である。麻薬は犯罪組織にとって巨大な資金源であり、犯罪組織には死がつきまとうからである。

 『テスカトリポカ』の優れたところは、麻薬という題材の潜在能力をきちんと引き出しているところにある。つまり、ビジネスとしての犯罪を描き出しているのだ。

 

 読みながら思ったこと。

 コカインには圧倒的な商品力がある。リピーター率が極めて高く、値段を釣り上げても需要が落ちない。このビジネスの最大の肝は、捕まらずに流通させることにある。したがって、生産から販売までを一気通貫して行う必要がある。コカの木は南米原産だから、メキシコやコロンビアといった南米において麻薬カルテルが強大な力を持つことになる。

 その土地でしか取れないものが巨大な富を生み出すという意味では、中東の石油ビジネスに似ている。石油は違法なものではないから国家が掌握している。でもコカインは違法な商品だから、国家ではなく犯罪組織が取り扱う。違法であるがゆえにリスクプレミアムが乗り、コカインはさらに高く売れる。

 つまり、法規制が犯罪ビジネスを生み出している。もちろんこれは犯罪ビジネスに限った話ではない。新たに生まれた規制は裏にも表にもビジネスチャンスを生み出す。新たな規制は、規制に適合するための技術の価値を飛躍的に高めるし、ずるして規制をすり抜けることの価値も高める。

……のか!といったことである。

 

 麻薬ビジネスのビジネス的な面を掘り下げていくと、犯罪者の生きる裏の世界と我々の生きる表の世界と重なることに気づかずにはいられない。犯罪を躊躇なく犯すという一点を除けば、そこにあるのはただの資本主義の論理だからである。

 この小説には資本主義のほかにも家族やアステカ帝国の神話といったキーワードがあるのだが、そこら辺はあんまり面白くなかった。特に後者。

今年はミュージカルを観る年にしたい

 今年はミュージカルを観る年にしたい。

 そんなふうに思った。

 

 先日、劇団四季の『マンマ・ミーア』を見に行った。父親を知らない少女が結婚式に父親候補3人を招待してみたら……!?というドタバタコメディミュージカルである。タイトルで分かるとおりABBAの楽曲を用いているのが特徴。

www.shiki.jp

 『マンマ・ミーア』を観るのは初めてではない。10年以上前、中学か高校のイベントで見たことがある。

 ここがすごい。

 公式ホームページには2002年12月に上陸と書いてある。ということは、劇団四季はもうかれこれ23年以上、このタイトルを上演し続けているというわけである。

 演劇というビジネスを成功させるためには、おそらくチケットを損益分岐点以上の枚数売ることが必要になってくる。

「何が当たるか分からない」

 これがエンターテイメントビジネスが向き合い続けねばならない問題である。

 企業に求められるのは勝率を上げる工夫である。

 劇団四季はこの問題に「集客力のあるタイトルを上演しまくる」という方法で立ち向かっている。

 『マンマ・ミーア』以外にも『ライオンキング』や『CATS』などロングラン作品は多い。

 ただし、これを行うためには、二つの壁を乗り越えなければならない。

 一つは、人間の壁である。

 人間は老いるし、病気にもなれば怪我もする。

 短期間の公演であれば、そのようなリスクが顕在化する確率はさほど高くない。が、長期間になればなるほど人間というリスクが顕在化する確率は高くなっていく。数十年の公演を一人の役者に依存して行うことは不可能と言ってよい。

 だから劇団四季はスターに頼らない。独特の演技法のメソッドがあり、専属の役者を多数抱えている。

 もう一つの壁が、会場の壁である。

 劇場の所有者にとって、劇場という資産を運用するに当たり大切なことは回転率である。できれば劇場を365日誰かに貸し続けたい。

 そうなると劇団四季が「この作品ヒットしたからもっと上演したいぞ!」と思っても、契約期間が過ぎてしまうと次の借り手に譲らざるを得ない。公演すれば確実に儲かるのに、諦めるしかない。

 この問題をクリアするために劇団四季は専用の劇場を持っている。

 劇団四季の直近の営業利益は33億円。コロナ禍が明けてからは毎年このくらいの水準で稼いでいる。

決算公告 | 会社概要 | 劇団四季

 参考として、東宝の演劇事業は34億円、阪急阪神ホールディングスのエンタメ事業は130億円(阪神タイガース含む。)、松竹の演劇事業は17億円。名だたる大企業と同等以上に稼いでいると言えそうである。

 

 『ISSA in Paris』というミュージカルもみた。

www.umegei.com

 HPを覗くとまず目に飛び込んでくるのは、主演のイケメン実力派俳優二人である。

 Introductionを見ると、モーリー・イェストン、高橋知伽江、藤田俊太郎、海宝直人、岡宮来夢と、売りとなるスタッフやキャストの名前を強調している。

 そう、こちらのアプローチは属人的なのである!

 20年以上上演している『マンマ・ミーア』と異なり、『ISSA in Paris』は新作のオリジナルミュージカル。

 その時点で劇団四季とは正反対の戦略を取らざるを得ない。

 タイトルに集客力がないからキャストの魅力で訴求する。キャストは四季のような常備軍ではなく傭兵集団である。

 劇場を長期間確保するのはリスクが高いから、日生劇場、梅田芸術劇場、御園座を1月に満たない期間だけ借りて公演を行う。

 劇の中身に着目すると、『ISSA in Paris』の方が圧倒的に豪華である。セットは大掛かりかつ多様だし、音楽は生演奏。ここにも新作オリジナル作品であるが故の努力が感じられる。(劇団四季ほど固定費がかからないというのも一因かもしれない。)

 対して、『マンマ・ミーア』は一つのセットの表裏を使っての演出。歌はもちろん生歌だが、それ以外の音楽はたぶん録音。全国どこでも上演できる仕様。簡素だが、それでも客を感動させられるという自信を感じる。

 ただ、セットが簡素だったのは今回の『マンマ・ミーア』が非専用劇場での上演だったからだ。これが例えば専用劇場での『ライオンキング』なんかだとセットはかなり豪華になるものと想像できる。

 

 このように、同じミュージカルと言っても、その作りは演目ごとに全く異なるのである。

 これは奥深えぞ……とオラは思った。

 たとえば、今度奥田いろはが出演するミュージカル『秘密の花園』は韓国からの輸入作だが、四季のディズニー系作品と違って集客力が保障されているとは言い難い。だから製作委員会方式や500席規模の劇場、半年の公演期間とリスクコントロールにかなり腐心している印象。

 林瑠奈が出演する『民王』は、東宝とテレビ朝日の共催。東宝の演劇運営ノウハウ&劇場×テレ朝のIP&宣伝力のシナジーを期待した事業だと想像できる。『秘密の花園』に比べるとリスクが低そうな気がする。実際、600席と劇場規模は少し大きめ。公演期間も1月と長め。比較的攻めている、が、『民王』というタイトルを考えると慎重な気もする。

 ……みたいに妄想が広がっていく。

 というわけで今年はミュージカルを観る年にしたいと思ったのである。

乃木坂46 14th YEAR BIRTHDAY LIVE 感想 

 乃木坂46の14th YEAR BIRTHDAY LIVEに行ってきた。

 チケットを応募するときは悩んだ。モチベーションが少し下がっていたからである。

 というのも、1月にあった6期生のスタ誕ライブは2日ともチケットが当たり、2月にはカップリングコレクションのチケット(しかもまたしてもプレミアム)が当たり、今年すでに3回もライブに参加している。ちょっとお腹いっぱいな気分になった。

 しかも、会場が東京ドーム、日程は平日。

 正直、東京ドームはそんなに良い会場ではないと思っている。これまでバックナンバーと櫻坂のライブで2回東京ドームを経験したことがある。どちらもスタンド席の上から何段目という位置だった。会場が広く、勾配が急。アーティストがかなり遠い。それでいて音響があまり良くない印象(バックナンバーの前に行ったSSAの藤井風のライブがかなり音響が良かったので、相対的にそう感じただけかもしれない。)。魅力的な点を挙げるならば交通の便が良いところだろう。

 とはいえ、以前書いたリアルミーグリの力でなんとかモチベーションが復活。応募したところ、19日と20日の2日間も当たってしまった。しかも19日はまたしてもプレミアムシート。初めて当たった時は二度と最前列など当たらないと思っていたが、1年も経たないうちに3回も最前列近くが当たってしまった。乃木坂のライブをステージの近くで見たいみなさん、のぎ動画に登録するのです。意外と競争率低いぞえ……。

 

 ただ、今回分かったのは、広い会場でのプレミアムシートはそれほど旨味がないということである。

 乃木坂のライブの良いところは、どの席でも近くで乃木坂ちゃんを見られる確率が高いことである。トロッコで巡回したり、スタンド席の中にお立ち台を設けてそこに乃木坂ちゃんが現れたり、さまざまな工夫でハズレの席の客でも幸せになれるように工夫が施されていることが多い。

 今回のライブでもアリーナには十字型にステージが配置され、アリーナ席が当たればどの席からでも乃木坂ちゃんを近くで見ることができたはずである。スタンド席前方ならば大型トロッコに乗ったメンバーがよく見えたに違いない。

 とはいえ、上述のとおり東京ドームは急勾配。スタンド席上方からスタンド席真ん中あたりを見てもかなり遠いし、移動中に転んだりしたら大変なことになる可能性がある。となると、客席にお立ち台を設けたとしても、絶対に遠くから眺めることしかできないエリアが生まれる。(実際、櫻坂のライブではメンバーを近くで見ることなどできなかった。)

 なんと乃木坂はこの問題に対して一つの回答を出す。気球である。気球に乗ったメンバーが天井界の客に会いに行くという演出。実際のところ最上エリアにいた客が満足できる距離だったのかは分からないが、「ハズレの席を作らない」というスタッフの意気込みを感じた。

 このようにして、乃木坂は広い会場全体を満遍なく満足させるライブを作ろうとしていたのである。素晴らしいライブだったのではないだろうか。

 だが、言い換えると、最前席が常に最前席であるとは限らないということでもある。普段ならばそれも大した問題にはならないのだが、東京ドームほど広い会場ともなると、メインステージを空ける時間がけっこう長くなってしまう。

「ここ、プレミアムシートだよな……? 料金ちょっと高いよな……?」

と内心思わなかったといえば嘘になってしまう。

 20日もアリーナ席が当たったのだが、そちらの方が十字部分に近くて良かった気がしなくもない。噴射された金テープも19日はお裾分けしてもらったけど、20日は手に余るほど降ってきたし……。

 無論、乃木坂に最前席を優遇するようなライブをしてほしいわけではない。ただ、次回はプレミアムじゃなくてもいいかもしれないという教訓を得たという話である。(だからプレミアムシートはよく当たるのかもしれない。)

 

 ライブ本体の感想は手短に書いていく。乃木坂のライブが名曲揃いで素晴らしいのはいつものことなので、一点だけどうしても書きたいことだけ書いておく。梅さんの卒コン感動したとか、『Actually…』のアルノと『ごめフィン』のさくちゃんにはいつも心踊らされるわねえとか、書こうと思えば書けることはいくらでもあるのだが、長くなるので割愛する。

 ただ一個だけ伝えたいこと、それは……

 火炎放射は熱い!

 それなりに距離があっても一瞬で体感温度四十度ぐらいになる。ステージ上だともっと熱いだろう。みんな涼しい顔してるのが偉い。

 違う!

 伝えたかったのはそんなことではない!

 二日目の『Rewindあの日』『悲しみの忘れ方』である。

 圧倒的だった。

 それぞれ中西アルノと林瑠奈のソロ歌唱(と言っていいのか分からんが。)が存分に堪能できた楽曲。心が震えた。(奥田も裏方に徹しながら歌唱力がダダ漏れしていて、彼女がメインの曲があっても良かった。)

 合唱には合唱の良さがあるけれども、やはりソロにしかない良さもある。アルノや林のような実力のある子には、ソロでその技術、力強さ、個性を表現させてあげる場が絶対に必要なのよ。

 ライブは全員で作り上げるものだからソロパートをもっと増やしてとは言わないけどさ、これを楽しめるのがライブ当日とリピート配信の二日間だけってのは勿体なさすぎないですか。運営さん。来年のソフト発売までお預けってひどくないですか。運営さん。

 切り抜いてYouTubeにアップしてほしい。切実に。メンバーの才能をライブ会場とTBSチャンネルに封じ込めていていいと思っているのかと私は問いたい。ライブバージョンを音源化して配信せんかいって話なんですわ。

 ソニーが4.5万曲の版権取得したなんてニュースになっとりますけども、ソニーの営業利益の3割は音楽部門が稼いでるなんて言うとりますけども、その足元ではこんな風に貴重な音源が死蔵されてるんですわ。

 なんだかだんだんイライラしてきたぞ。

 まあ、それくらい中毒性のある歌声だったということなのです。