たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その86 ゴッドファーザー

 ニューヨーク最大のマフィアを堅気の息子が受け継いだのは、ファミリーが危機に瀕している時だった。

 

 『ゴッドファーザー』は1972年の映画。監督・脚本はフランシス・フォード・コッポラ。脚本には原作者のマリオ・プーゾも参加。主演にマーロン・ブランドアル・パチーノアカデミー賞は作品賞、脚色賞、主演男優賞を受賞。

 

 ヤクザ映画はお仕事映画であると『グッドフェローズ』の時に書いた。

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 『グッドフェローズ』の主人公がサラリーマンだとすると、『ゴッドファーザー』の主人公は創業者一族だ。

 起業家の人生には、二つのドラマチックな転機がある。

 一つ目は、起業の時。これを描いた作品は多い。『ソーシャル・ネットワーク』『市民ケーン』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『ファウンダー』などなど。新しいビジネスを思い付く興奮と成り上がっていく楽しさ、栄光の裏に生じる影がこれらの作品の魅力だ。

 二つ目は、育てた会社が自分のものでなくなる時である。『ゴッドファーザー』はこの時期を描いている。これ系の作品は意外と少ない気がする。私に思い付くのは『天元突破グレンラガン』くらいか。

 会社が自分のものでなくなるプロセスは、大きく分けて三つのパターンがある。

  • 倒産する。
  • 他社に譲渡する。
  • 後継者に引き継ぐ。

 『ゴッドファーザー』は、これらのすべてを描いている。

 冒頭の結婚式では、コルレオーネファミリーが栄華を極めていることが描かれる。有名人も訪れる華やかな式典と、ドン・コルレオーネに持ちかけられる闇の相談の対比は鮮やか。このシーンの元ネタが黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』であることは有名な話だ。

 後日、麻薬の売人ソロッツォがドンにビジネスの話を持ちかける。ドラッグビジネスは、将来有望な新しいビジネスモデルだが、ドン・コルレオーネはこれを断る。コルレオーネファミリーの根幹(=権力者とのコネ)を揺るがす危険な事業だからだ。この会談の際に、二代目と目されているドンの息子ソニーがヘマをする。

 この日を境に、コルレオーネファミリーは抗争に巻き込まれ、ドンが銃撃される。倒産の危機がファミリーに訪れたわけだ。ファミリーが地位を守れるか否かは、後継者の肩にかかっている。

 後継者には2種類の人間がいる。無能か有能かだ。無能な後継者は、先代が築き上げたものを食いつぶす。ビジネスを理解したつもりになっているが、本当は何も理解していない。有能な後継者は、先代が築き上げたものを守り、時にはさらに飛躍させる。

 有能な後継者が見つかるプロセスは、一人の人物が己の才能に気付き開花させていくプロセスでもある。おそらくたいていの場合、その人物は自分が後継者になるとはおもっていない。(この点、『エースをねらえ』っぽさがある。)

 『ゴッドファーザー』はここでも両方を描いている。

 ドンが退いた後、後を継ぐのは長男のソニーだ。ソニーは言動の端々に無能さを漂わせ、ファミリーの没落を予感させる。

 ソニーがいるから、三男のマイケルは堅気をやらせてもらっている。ところが、入院しているドン・コルレオーネが暗殺されそうになっているのを察知し、機転を利かせて父を守る。さらに、ソロッツォと彼に協力する警官を暗殺することでファミリーをも窮地から救うのである。マイケルはマフィアとしての才能に気付き、また、それを周囲にも示すことになる。

 その後、ソニーが暗殺されてしまい、マイケルが後継者となることになる。ドン・コルレオーネが病死した後、内外の敵を粛清し、ラスベガスに拠点を移すことで、マイケルは無事に会社を受け継いだこと(それは彼が完全にマフィアの世界の住人になったことを意味する。)を観客に対して示すのだ。

 

 上にも書いたとおり、育てた会社が自分のものでなくなる過程を描いた映画はあまりない気がする。むしろ、我々は歴史の教科書やニュースでそれを目にすることの方が多い。(会社と国家や宗教は組織であるという点で同じだ。)『ゴッドファーザー』から格式の高さを感じる所以かもしれない。

 だが、一般人にとって事業承継はなかなか馴染みがないイベントだ。これは観客がドラマに入り込めない要素になりうる。が、『ゴッドファーザー』ではマフィアを家族経営の企業として描き、家族の物語という万人に親和性のあるストーリーに落とし込むことで課題をクリアしている。

 

 ところで、マフィアを主人公にするメリットはなんなのだろうか?

 歴史物に対する優位性としては、モダンな作りにできることがある。今風のおしゃれに仕上げられるし、歴史背景に関する知識がいらないから敷居も低い。ただし、日本のヤクザ映画に関しては、おしゃれにしづらいし、専門用語が口頭かつ方言で飛び交うのでむしろ敷居が高い気がする。

 では他の業態に対する優位性は何なのかといえば、それはもう銃で問題解決を図れることに他ならない。派手に、スピーディーに、物事を展開できる。たとえば、スティーブ・ジョブズの映画を撮るとして(実際にあるが)、ジョブズが社長の座を追われる場面は取締役会の決議という地味な画でドラマを展開させなければならないし、復帰したジョブズの成功を瞬間的に示すことは難しい。もしジョブズがマフィアだったなら、これらはジョブズが銃撃されたりビル・ゲイツを射殺したりすることで、ことの成り行きを観客に示すことができるのだっ! ついでに言えば、シンプルに、男の子は武器を手にして戦うのが好きなのである。(余談だが、『ゴッドファーザー』における重要パラメータ「危機察知能力の高さ」もたぶん男子に対する訴求力が高い。『もののけ姫』でアシタカがもののけ姫の襲来を誰よりも早く察知したり、『機動戦士ガンダム』でニュータイプがプレッシャーを感じたりするのはなぜか分からないが厨二病的にかなりポイントが高い。)また、他の組織では武器を持つことができないことから、一般社会から隔絶された異質な社会を作り上げることも容易だ。

 

 マフィア業界における事業承継を描いたこと。この一点だけでも、『ゴッドファーザー』が他の追随を許さない名作であることが説明できてしまう。恐るべし『ゴッドファーザー』。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その85 時計じかけのオレンジ

 非行少年を「治療」して暴力の振るえない人間にします。

 

 『時計じかけのオレンジ』は1971年の映画。監督・脚本はスタンリー・キューブリック。主演はマルコム・マクダウェル

 

 映画のつかみの鉄板としてよく用いられるのが次の三つだ。

  • 金!
  • 暴力!
  • セックス!

 どうやらこれらの三要素は人間の快楽と深く強い関係があるらしい。ちなみに、ここでいう金には貧困も含まれるし、暴力は死としたほうが正確だろう。それから重要度でいえば、死>性>金の順になると思う。

 一方で、これらは不道徳なものでもある。嫌悪感を持つ人も多いかも知れない。いずれにせよ、強い感情の動きを喚起するものであることは間違いない。

 これら金!暴力!セックス!が悪徳であると同時に強烈な魅力を持っていること、それ自体をテーマにした作品が『時計じかけのオレンジ』だ。当然、映画は金!暴力!セックス!のオンパレードになるので、(本能に素直になれば)面白くないわけがない。

 

 冒頭から、主人公のアレックスは女体をかたどった像(乳首からミルクが出る)が陳列されているコロヴァ・ミルク・バーで異様に悪い顔をしているし、浮浪老人にトルチョックかまし、デカパイのデボチカをフィリーしようとしているドルーグにトルチョックかまし、金持ちの家に押し入ってフィリーし……という具合である。

 育ちの良いアレックスはベートーヴェンを愛しており、その点において仲間と価値観が合わない。持ち前の暴力性を発揮して仲間を従わせようとしたアレックスは仲間割れを招き、無事に刑務所に収監されることになる。

 ここから始まる中盤では、画面上からアレックスの剥き出しの暴力性は後退し、代わりに刑務所の美的に儀式化された暴力性が前に出てくる。看守はアレックスに暴行を加えないものの、怒鳴り声で彼を支配しようとする。これも暴力の一種であるが、囚人を管理するためという大義名分のもとにそれは許されている。また、看守の洗練された所作は美しささえ感じさせるのだ。

 アレックスは、早く釈放されるために人格を矯正するための治療を受けることにする。医師たちは、器具で彼のまぶたを固定し(ぜったい痛い)、バイオレンスな映像を無理やり見せる。あらかじめ投与された薬によって、アレックスは強烈な吐き気を覚える。これを繰り返すことにより、アレックスは条件反射的に暴力や性行為、ついでに大好きなベートーヴェンの第九に対して嫌悪感を持たざるを得なくなるのだ。

 この治療は、刑務所にかかるコストを抑えようという目論見で内務大臣が推進しているものだった。目をかっぴろげられているアレックスの図は、この映画でおそらく最もセンセーショナルな映像だが、ここには科学と政治の持つ暴力性が表されている。

 出所を果たしたアレックスであったが、親には見放され、かつての被害者や仲間たちに復讐されても抵抗すらできない。かつて襲った家の主に救われるシーンを挟んで味変してから、やっぱり正体がバレて再び復讐される。密室で第九を聞かされる拷問を受けたアレックスは、ついに自殺を図る。

 この事件は政権に致命的な打撃を与えることになりかねなかったため、内務大臣の粋なはからいによりアレックスは命と同時に本来の人間性を取り戻す。またもや異常に悪い顔で笑うアレックスであったが、観客はその背後に、彼がちっぽけに見えるほど巨大な、国家権力の持つ暴力性を見ることになる。

 

 エスカレートする暴力を見て、我々は快感を覚える。自覚的かもしれないし、無自覚的かもしれないが。

 女医がアレックスに対して吐き捨てるセリフは、我々の心にもグサッと突き刺さる。

「(暴力を見ると)健全な人間は恐怖と吐き気で嫌悪感に反応するわ」

 す、すみません。トルチョックに興奮している自分がいました!

 ということは、『時計じかけのオレンジ』を楽しんでいる我々もまた「健全な人間」ではないということか? 「健全な人間」の世界では、金・暴力・セックスを売り物にする映画は許されないのかもしれない。想像するになんとも味気ない世界である。その世界には『鬼滅の刃』も『千と千尋の神隠し』も『君の名は。』も存在し得ない。

 1971年はまさにアメリカン・ニューシネマの時代。ハリウッドがバイオレンスとエロを解禁し始めていた頃だ。それ以前のハリウッドは、建前上は、まさに味気ない世界を目指していた。(当然、サイレントの時代から名作は数多くある。が、それも結局は自主規制の中でどうにかして金・暴力・セックスを表現しようという試みの成果だ。)

 そう考えてみると、映画監督であるスタンリー・キューブリックがアレックスに一定の共感や同情を覚えるのは当然のことだったに違いない。

 果たして、アレックスは悪逆非道なアレックスのままでいいのか? それは分からない。だが、我々の中にも小さなアレックスがいることは自覚しておいた方がよいかもしれない。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その84 サイコ

 会社の金を横領したら会う人会う人に怪しまれる!

 

 『サイコ』は1960年の映画。監督はアルフレッド・ヒッチコック、脚本はジョセフ・ステファノ。主演はアンソニー・パーキンスジャネット・リー

 

 『サイコ』といえば有名なのがシャワーシーンだし、このシーンのためにこの映画は存在する。そのわりには、そこに至るまでの道のりが長い。

 『サイコ』のストーリーは前半と後半に大きく分けることができる。そのどちらも性質としては倒叙ミステリーに近いもので、罪を犯した人間を中心とするサスペンスが映画の魅力になっている。

 

 前半は会社の金を横領した女の物語だ。

 罪を犯すには三つの要件を満たす必要がある。動機、手段、機会である。人はなんらかの理由がなければ罪を犯すことはない(動機)。目的が存在したとしても、その目的を安全に達成するための手段を持っていなければ犯罪に着手することはできない(手段)。仮に手段を有していたとしても、たいていの手段は常に完全犯罪を保証するものではなく、絶好の機会を要求するものなのである(機会)。

 この物語の第一の主人公であるマリオン・クレインには恋人と結婚するためには金が必要という動機があった。そんな彼女の目の前に会社から大金を預かるという絶好の機会が訪れる。

 本来であれば、マリオンはここで巧みに策を弄し、バレずに横領する手段を考えなければならないわけだが、そんなことをできるほどの頭脳も時間も彼女は持っていない。にもかかわらず、彼女は横領に着手してしまう。鱗滝さんも「判断が早い!」と唸ってしまうほどのスピード感である。レザ・エブラヒム・ソクハンダンでもここまで即断即決はできないだろうという速度で彼女は大金を持ち逃げする。

 完全犯罪とするための手段が欠けた逃走劇は必然的にサスペンスに満ちたものになる。マリオンは偶然会った警察官にめちゃくちゃ怪しまれるし、中古車屋にすら開口一番「トラブルはゴメンですぜ!」と言われる始末。

 それでもなんとか逮捕まではされず、モーテルに泊まることにしたマリオン。そこで彼女は柔和な印象の若旦那ノーマン・ベイツと対話をし、翌朝には帰ろうと心変わりをする。

 構造的に見れば、ノーマン・ベイツはすべてを承知しているホストで、わりとよくあるパターンの人物像でありストーリー展開でもある。「家出をした少女を泊めてくれた家の主人は、彼女が家出少女だと実は承知していて、それとなく彼女を家に帰そうと誘導する……」みたいな感じのやつ。

 ただし、マリオンはノーマン・ベイツと話して(おそらく)「こいつみたいになったらヤバい」と思って帰ることにした点で少し変わっている。沼にハマりきったノーマンを見て、自分も沼にハマりつつあることに気付いたのだ……。

 ともあれ、彼女は自らの過ちを認めることに決めた。この瞬間、彼女の物語は映画の中で存在意義を失い、終わりを告げるのである。

 

 ここで来るのが例のシャワーシーンだ。

 例のBGMと共に交互に映される包丁とマリオン。倒れ際に掴んだカーテンが弾け落ちたのを最後に、辺りに響くのはシャワーが発する水の音だけ。排水溝は流れ出る血を感情もなく吸い込み続ける。動かない*1マリオンの目が大きく映され、彼女自身がそうした無機質な物体の一つになったことを観客は知る*2

 マリオンを刺す腕の動きがなんとも機械的で安っぽさを感じるが(あえてそうしたのかもしれないけれども)、その点を除けば、このシーンの叙情性は今なお傑出している。

 

 このシーンを境に物語の主人公は交代する。観客はノーマン・ベイツとその母親がいかにして逮捕されるかを眺めることになる。

 彼らの殺人もまた突発的なものであり、いつ犯行がバレるとも知れないサスペンスに満ちている。ただし、前半とは違い、後半には謎がある。殺人を犯したであろうノーマンの母親とはいったいどのような人物なのか?という謎だ。

 まあそんなもんは事情通や公的機関ならすぐに分かるわけだが、ここで効いてくるのが前半である。マリオンの恋人と妹は、マリオンの罪を隠したいため警察に頼ることはできない。そこで、私立探偵という、殺されるために用意されたキャラクターが登場する。彼がマリオンの恋人たちにノーマンの母親が鍵であることを伝え、彼らが真相を明らかにする。その真相というのが衝撃的な事実で……!という筋書きだ。

 

 この衝撃を生み出すポイントは、マリオンとノーマンの動機の違いだ。マリオンの動機はだ。映画における最も典型的で最も強力な動機。ここでいう金には、財宝や権力、それらを奪われないために敵を排除することも含まれる。

 対して、ノーマンの動機は痴情のもつれである。これもおそらくは金に次いで典型的な動機だ。が、ノーマンのそれは普通とはちょっと違う。通常ならば、犯罪者と被害者、その両者となんらかの関係を持つ第三者がいて、痴情はもつれる。『サイコ』にはその第三者が存在しない(ノーマンは犯罪に着手した時点でマリオンに恋人がいることを知らない)。三者が存在しないのに痴情がもつれるとはこれいかに。本来ならばありえないことが起こる。ここに映画の面白さが生まれるのである。

*1:本当に動いていないかどうかには議論の余地がある。

*2:死体は有機体ですが、みたいなツッコミは受け付けない。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その83 雨に唄えば

 サイレント時代のハリウッドスターがトーキーによって凋落の危機に陥る。

 

 『雨に唄えば』は1952年の映画。監督はジーン・ケリースタンリー・ドーネン、脚本はアドルフ・グリーンとベティ・カムデン。主演はジーン・ケリーデビー・レイノルズ

 

 『雨に唄えば』といえば、ジーン・ケリーが雨の中で踊るシーン。ミュージカル映画史上に残る名場面だし、一度見れば一生記憶に残るであろう。どしゃぶりの雨が降る町も、心持ち一つで楽しい遊び場になる。

 ミュージカル映画において歌とダンスが重要なのは言うまでもない。この二つのスキルは、パフォーマーの才能に大きく依存する。そして、ダンス方面では、1930年代にフレッド・アステアという不世出の天才が現れる。他のどんなダンサーもフレッド・アステアには敵わない。(これには異論もあろうが、話の都合上ここではそういうことにしておく。)フレッド・アステア以降のミュージカル映画は、いかにしてフレッド・アステアという高い壁を超えるのか?という問題と向き合わなければならなくなった。

 その問いへの答えの一つが舞台装置の活用だ。ダンスのテクニックではなく、アイデアで勝負をする。ダンスはエンターテインメント。観客を楽しませた方の勝ちだ。観客を楽しませるのにテクニックは必ずしも不可欠ではない。

 なぜ『雨に唄えば』を歌い踊るシーンが素晴らしいのか? それはどしゃぶりの雨の中で踊っているからにほかならない。

「ひえ……スーツをこんなに濡らしたら大変だよ~」

「子供の頃、こんなふうに水溜りで遊んだよなあ……」

 フレッド・アステアの美しいダンスよりも、雨の中で踊るジーン・ケリーの方が庶民の心には様々な感情を湧き起こす。(言うまでもなく、フレッド・アステアのダンスにはかけがえのない魅力がある。)

 このシーン以外にも、ドナルド・オコナーの"Make'em Laugh"を始めとして、振り付けに舞台装置を巧みに取り入れたダンスが『雨に唄えば』には多い。ダンスの名手たちが飛び道具を使うのだから、そりゃあ見ていて飽きない。

 工夫をすれば才能の壁は超えられるのである。

 

 それはそれとして、なぜジーン・ケリーの情景において、雨が降っていたのだろうか? ここでいう「雨」とはなんなのであろうか? それは破壊的イノベーションだ。映画業界の構造を根本からひっくり返す技術革新、トーキー(発声映画)の登場である。

 主人公のドンは、ジーン・ヘイゲン演じるリナ・ラモントとのゴールデンコンビで人気を博すハリウッドの大スターだ。彼らのもとに「世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』大ヒット」の一報が届く。制作中の映画は、急遽トーキーとして撮ることになる。

 慣れないトーキーへの挑戦の結果は、惨憺たるものだった。映像トラブルもあり、試写会の会場は爆笑の渦に飲み込まれる。これを見たドンは、己の地位が危うい状況にあることを悟る。

 サイレントとトーキーでは役者に求められるものが異なる。この変化に適応できない役者は淘汰されてしまう。『雨に唄えば』の作劇上、念頭に置かれていたのはジョン・ギルバートの存在だ。彼はサイレント時代のスターだったが、トーキーの時代になると仕事は激減し、アルコール中毒で早逝する。技術的イノベーションは、既得権益を粉々に打ち壊す可能性を秘めている。1927年以降のハリウッドではそれが実際に起ったのだ。

 映画がこのまま公開されれば、ドンの名声は瓦解するだろう。ジョン・ギルバートのように。この危機的状況に対して、友人のコズモは、ドンのボードビルの経験を活かしたミュージカル映画に作品を作り変えることを提案する。

 しかし、ドンはそれでいいが、相方のリナは歌も踊りもてんでダメだ。今さらリナを下ろすことはできない。どうすれば?

 困難にぶち当たったとき、我々はデカルトの名言を思い出さねばならない。「困難は分割せよ」だ。リナが踊れないなら、踊らせなければいい。リナが歌えないなら、声を吹き替えればいい。お誂え向きに、ドンの恋人キャシーは歌える女優志望だ。

 このアイデアに興奮したドンが、帰り道に歌うのが『雨に唄えば』なのだ。破壊的イノベーションによる危機の中でも、その先に待ち受ける明るい未来を想像すれば乗り越えられる。そういう歌なのである。

 しかし、この物語において、とてもじゃないが呑気に歌っていられない人間がいる。リナだ。キャシーの吹き替えによって次の映画は乗り切れたとしても、さらに次からはリナに役が回ってこないことは容易に想定される。なんせ彼女の地声は林家パー子なのだ。ここで彼女が取るべき対策は、キャシーによる吹き替えを秘密にすること以外にない。彼女はキャシーを自分専属の声優にしようと画策するのである。それはリナに取って代わろうとしていたキャシーの将来を摘み取るものだった。

 客観的に見れば多くの人がリナを悪役だと思うだろうが、当事者になればほとんどの人がリナと同じような振る舞いをするはずだ。好きな男を突然現れた女に奪われそうになればそいつをいじめるし、ライドシェアをタクシー業界は叩き潰そうとするのである。

 結局、ドンたちの謀略により、リナはキャシーに敗北することになる。多くの人にとってハッピーエンドだが、リナにとってはバッドエンドだ。破壊的イノベーションに自分の権益が揺るがされそうになったとき、バッドエンドを迎えたくないのであれば(そしてみんなのハッピーを願うのであれば)、リナではなくドンになるしかない。雨に歌わなくてはならないのだ。

 普通、こういうテーマで映画を撮ろうとすると、シリアスになりがちだ。『欲望という名の電車』『サンセット大通り』『イヴの総て』……どれも同じものを描いているが、テイストは重々しい。しかも、どれも旧勢力に同情的だ。アマゾンのせいで潰れる本屋、デジカメのせいで潰れる写真屋、スーパーマーケットのせいで潰れる商店街……我々はともすれば旧勢力に同情しがちである。デイミアン・チャゼルの『バビロン』も同じ罠(?)にはまっている。

 ところが、『雨に唄えば』からは、そんな重厚感は一切感じられない。底抜けの明るさの裏には冷徹な視点がある。重いものを、軽やかに見せる。ダンサーであるジーン・ケリースタンリー・ドーネンの撮った映画は、まるでダンスのような映画だった。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その82 欲望という名の電車

 妹夫婦の家に様子のおかしな姉が転がり込む。

 

 『欲望という名の電車』は1951年の映画。監督はエリア・カザン、脚本はテネシー・ウィリアムズとオスカー・ソウル。主演はヴィヴィアン・リーマーロン・ブランド

 

 ヴィヴィアン・リー演じるブランチは、ニューオーリンズにいる妹のステラに会いに行く。静養のため国語教師の仕事を休んでいるというブランチの様子はどこかおかしい。彼女はホテルに泊まらず、ステラの家に間借りする。

 ステラは結婚していて、夫スタンリーは筋骨隆々の粗野な男だ。かつて地主の令嬢だったブランチにとって、スタンリーは野蛮な庶民でしかなかった。

 一方のスタンリーからすれば、いきなり赤の他人が家に上がり込んできたわけだし、しかもそいつは妻(ひいては自分)の資産である土地を失ったとのたまう高飛車女。不信感で頭はいっぱいになる。

 この二人が同居するのだから、対立が生まれるのは必然だった。この対決はスタンリーの勝利に終わる。ブランチの嘘が暴かれ、虚飾は全て剥がされる。せっかく新天地で得た恋人にはプロポーズまでされたのにフラれてしまう。緊張関係がピークに達した時、スタンリーはブランチを襲う。

 

 この映画の面白さを支えているのは『バージニア・ウルフなんかこわくない』と同じく、歯に衣着せない口論である。

 この口論を生み出す土壌となるのが、家庭という閉鎖的な領域に歓迎されぬ異分子が入り込むという状況である。ただの異分子なら追い出せばいいが、配偶者の家族だからそう簡単には追い出せない。だからなおのことイライラする。これは現代にも通ずるあるあるネタだ。

 その上、ブランチとスタンリーの出自は正反対。農場の地主と工場労働者。本来なら交わらない二人が交わるのは、ブランチが落ちぶれたからにほかならない。時代背景は異なるが『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラに通ずるものがある。1950年代もまた、少数の特権階級の権益が解体されていく過渡期だったのかもしれない。

 そしてやはり『バージニア・ウルフなんかこわくない』と同じく、この映画に展開をもたらすのはだ。後半で嘘がバレることによって、何かが変わる。

 それがどのような嘘かといえば、失われた栄光に、あるいはその代わりになる何かにすがりつくための嘘だ。失われゆくもの(あるいは失われてしまったもの)とどう向き合うのかというのは、『サンセット大通り』や『イヴの総て』なんかのテーマにもなっている。そのどちらも1950年公開なわけで、1950年前後のアメリカには古きものが一掃されようとしているムードがあったのかもしれない。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その81 カサブランカ

 生き別れた恋人と奇跡的な再会を果たすが、彼女には夫がいた。

 

 『カサブランカ』は1942年の映画。監督はマイケル・カーティス、脚本はハワード・コッチとエプスタイン兄弟。主演はハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンアカデミー賞は作品賞、監督賞、脚色賞を受賞。

 

 「君の瞳に乾杯」の名台詞で有名なこの映画は当然ラブロマンスだ。

 これまでラブストーリーは以下の二つのストーリーに大別されそうだということを学んできた。

  • 最初は仲が悪かった二人が困難を共に乗り越えるうちに結ばれる。
  • 一気に燃え上がった愛は社会の荒波にもまれて儚く滅びる。

 しかし、『カサブランカ』はそのいずれでもない。

死んだ恋人の復活

 まず、主人公とヒロインが再会するところから物語は始まる。二人は物語が始まる前に一度別れているのだ。破局したわけではない。パリがナチスに攻め落とされた日、女が突然いなくなって、男はわけもわからぬままパリを脱出した。男は諸国を転々として、モロッコカサブランカにたどり着いた。二人はきっともう二度と出会えない……はずだった。

 つまり、絶世の美女イングリッド・バーグマンは、ハンフリー・ボガートの中で死んだに等しい状態だった。死に別れた恋人は記憶の中で永遠に美しく輝き続ける。(『めまい』や『タイタニック』のパターンだ。)

 ところが、ナチスから身を守るためにアメリカへ逃げようとする人々が集まる街カサブランカにおいて、二人は奇跡的な再会を果たす。死んだはずの恋人が復活したのである。

 普通ならば運命のはからいに感激するはずだが、ハンフリー・ボガートは素直に喜べない。彼は女に裏切られたのだし、しかもその女の横には夫がいるのである。あの日、どしゃぶりの雨の中で、彼女を待ち続けた自分はきっととてつもないアホ面を晒していたにちがいない。(『アパートの鍵貸します』で学んだとおり、男にとって約束をすっぽかされることほど屈辱的なことはない。)

 死んだはずの恋人が復活したのに等しい喜びと、その恋人に裏切られた怒りの狭間で男は葛藤する。これがこの映画の面白ポイントその1である。

いびつな三角関係

 上に書いたとおり、この物語の基本的な人間関係は、男2女1型の三角関係でできている。『フィラデルフィア物語』方式でいけば(というか普通の流れでいけば)、この場合、選択権は女にある。

 にもかかわらず、『カサブランカ』では、選ぶのはハンフリー・ボガートなのだ。彼はイングリッド・バーグマンを奪うか、彼女の夫に譲るかの選択を迫られる。前者を選択する権利があるのであれば、彼に後者を選ぶ理由はないはずだ。ないはずなのに、悩む。悩まざるをえない。ここがこの映画の面白ポイントその2である。

 このようなありえない状況を生み出すのが、カサブランカという社会である。ナチスが各地に侵攻し、ヨーロッパ中から人々がアメリカに逃れようとする。直行便はない。人々はパリ→マルセイユ→オラン→カサブランカリスボンアメリカというルートを辿る。だが、カサブランカからリスボンへ行くのは容易ではない。飛行機の席数は限られているし、ビザを確実に手に入れるには警察署長や闇の商人から高値で買うしかない。

 偶然にも、ハンフリー・ボガートは二人分のビザを手に入れる。といっても、彼の経営する酒場は繁盛しているし、彼はアメリカから追放された人間だからそれを使う理由はない。なんならいわくつきだからさっさと処分したい。そこに現れたのがイングリッド・バーグマンとその夫。彼らは地下組織のリーダーであり、ナチスの影響下にあるカサブランカに長居はできない。

 ボガートはビザをどう使うかで三人の運命を決定することができるというわけだ。だが、夫婦は互いに深く愛し合っているし、夫をナチスに引き渡すことはファシズムに加担することになる。己の欲望を取るか、それとも別の何かを取るか、彼は選択を迫られる。

 

 10年以上前に『カサブランカ』を観た時は「よく分からんかった」という感想しか浮かばなかったが、今観たら分からないことなど何もないし、めちゃくちゃ面白かった。昔観た映画を見返すのも乙なものですね。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その80 オズの魔法使

 家出した少女は謎の世界に飛ばされたので家に帰ろうとします。

 

 『オズの魔法使』は1939年の映画。監督はヴィクター・フレミング、脚本はノエル・ラングレーフローレンス・ライアソンエドガー・アラン・ウルフ。主演はジュディ・ガーランドアカデミー賞は作曲賞と歌曲賞を受賞。

 

 言うまでもなく、『オズの魔法使』は冒険ものである。そしておそらくは冒険もののセオリーとも言うべき要素を備えている。

  • 主人公は強い願いを持っている。
  • 賢者が願いを叶えるために目指すべき目的地を示す。
  • 主人公は旅を始める。
  • 悩める頼りない仲間に出会う。
  • 邪悪で強大な敵がいる。
  • 主人公には邪悪な敵に対抗するための力がある。
  • 力とは魔法のアイテムである。
  • しかし、主人公はアイテムを使いこなすことができない。

 必ずしもこれらの要素のすべてを満たしているわけではないが、おおまかには『桃太郎』や『西遊記』も同じ系統の物語といえるだろう。

 『オズの魔法使』は、それのアメリカ版である。舞台がカンザスであるというところにそれは現れているし、藁でできたカカシ、ブリキ人間というキャラクターもそこからの派生だ。さらにいえば、敵が国家の支配者であるという点も近代以降の作品という感がある。他にも色々アメリカならではのおとぎ話を感じさせる要素が多い。ちなみに、世界の竜巻の75%がアメリカで発生しているなんて情報もネットには転がっている。その数値がどれほど信頼できるかはともかく、ドロシーが竜巻で吹き飛ばされるという設定にもアメリカっぽさがあるのは間違いない。

 実はその点が最も重要な点なのかもしれない。つまり、ファンタジーに必要なのは国籍性なのである。料理と同じだ。缶コーヒーだって「満たされるブラジル」と書いてあるとなんだか美味しそうに感じる。ファンタジーも何かの国に満たされていた方がいい。『オズの魔法使』は意外に冒頭の現実パートが長いが、そのことによって当時のアメリカと無縁な観客もアメリカのイメージを共有できる仕組みになっている。

 『オズの魔法使』といえば、"There's no place like home"(やっぱ家が一番っしょ)というセリフが有名だが、これは「大切なものはすでに手元にある」という意味だ。脳みそを欲していたカカシは登場早々に「なぜ脳がないのに話せるの?」と疑問を呈される。話せる時点ですでに知恵は持っているわけである。そのことをカカシは旅の中で証明し、自覚していく。最終的にカカシはオズの魔法使いから大学の卒業証明書(偽造)をもらうことで悩みが解決される。(「結局、世界というのは人間の認識でできている」という世界観が根底にある。はず。この認識を操作するための装置を用意するところが面白い。)

 そこで思い出す映画が『千と千尋の神隠し』だ。『千と千尋の神隠し』を千尋が成長する物語だと思いこんでいる人が多いが、千尋は成長したわけではなく、もともと持っていた力を解放させていったにすぎない。また、『千と千尋の神隠し』も極めて現代日本的な(つまり有国籍な)雰囲気を持つファンタジーであることにも注目したい。

 有国籍的な世界を確立さえできれば、細部ははっきりいってどうでもいい。たとえば困難を解決するのに観客が驚くような冴えたやり方はいらないのである。ケシの花畑で倒れたドロシーを助けるのは優しい北の魔女でいいし、西の魔女を倒せるのは「カカシを助けるためにぶっかけた水がたまたま魔女の弱点でもあったから」でいいのである。そんなことは『オズの魔法使』の魅力をちっとも損なわない。いやむしろその雑さが魅力とさえ言ってもいいくらいだ。

 ついでに言えば、今の時代から見れば、セットや特殊メイクなんかは絶妙にちゃちい感じがあるが、異世界はドロシーの夢であろうというストーリー構造がそのちゃちさを包み込んでいる。逆に、人工物ゆえの派手な色合いが、当時まだ珍しかった映画の中の色彩を強調することに成功してもいる。そして、ジュディ・ガーランドのかわりになる女優は存在しない。最新の技術を用いれば、これよりはるかにクオリティの高い映画を作ることは容易だし、すでに作られてもいるだろうが、『オズの魔法使』はきっとこれからも唯一無二の名作であり続けるに違いない。時代性と地域性こそが普遍性を生み出すのだ。