『イノベーションのジレンマ』を読んだ。
内容
なぜ大企業は新しい技術の波に乗り遅れてしまうのだろうか?
素朴に考えると、自分たちが持っている技術にこだわってしまうがために新しい技術を採用できないのだろうと思ってしまう。
「ガラケーを作っていた人たちはガラパゴスケータイの方がスマートフォンより優れているに決まっていると思わずにはいられない。それが人情ってもんでしょう」
そんなふうに考えてしまいそうになる。
しかし、そうではない。
そもそも大企業は新しい技術の波に乗ることができない。やらないのではなく、できない。構造的に不可能。
『イノベーションのジレンマ』に書かれているのはそういう話だ。
大企業の強みには毒がある。
大企業は優れた技術をただ持っているのではない。優れた技術を開発し続けている。そのための組織体制や価値基準を持っているし、技術の発展を喜んでくれるお客さんを持っている。そういうプロセスで市場から金をかき集めることを期待している株主もいる。
お客さんを喜ばせる技術を磨きに磨き上げていくことができる。これが大企業の大企業たる所以である。
しかし、それこそが滅亡する理由でもある。
「お客さんを喜ばせる技術を磨ける」という言葉は、「お客さんが喜ばない技術には手を出さない」ということを含意している。
リソースは有限だ。限られたリソースをどのように活用するか? この判断が適切であればあるほど、お客さんを喜ばせる技術は高いと言える。
ところが、破壊的イノベーションというやつは、お客さんが喜ばない技術の顔をしてやってくるのである。
破壊的イノベーションは新しい尺度を持ち込む。
大企業はお客さんを喜ばせるために尺度を採用する。「この尺度に沿って技術を向上させていけばお客さんが喜んでくれるぞ!」という尺度である。
破壊的イノベーションは、この尺度において既存の技術(持続的イノベーション)よりも劣っている。それゆえに、大企業は破壊的イノベーションを採用できない。
これは大企業が尺度の選び方を誤るという話ではない。大企業の顧客は実際に破壊的イノベーションを歓迎しないのだ。求める要件を満たしていない商品を欲する理由はない。大企業は顧客のニーズを把握しているからこそ、破壊的イノベーションを採用しないのだ。
では、劣った技術である破壊的イノベーションがなぜ大企業のテリトリーを破壊できるのか?
それは新しい尺度を提示するからである。その尺度に基づいて商品の価値を測る顧客を新たに見つけるからである。既存の市場にはいない新しい顧客に食べさせてもらっている間に、破壊的イノベーションは性能を向上させていく。そのうちに破壊的イノベーションは、大企業が採用している尺度においても市場の需要を超える性能を持つようになる。この瞬間、大企業が戦場にしている市場への侵攻が始まる。
新しい市場から芽生えて、次第に大企業のテリトリーを侵略するようになる。これが破壊的イノベーションが大企業を破壊するパターンである。
大企業の大きさが小さな市場を拒む。
「新しい市場から芽生える」という点は極めて重要だ。これが大企業からのバリアになる。
大企業はその大きな売り上げに見合うだけの利益を求める。しかし、新しい市場はその時点では大きな利益をもたらしてはくれない。まだ小さい市場に比べて組織が大きすぎれば、なおさら新しい市場の魅力は乏しくなる。
もしかしたら、それでも新しい市場が将来大きくなることが確約されているのなら大企業も手を出すかもしれない。しかし、新しい市場がそのような成長を果たすかどうかは誰にも分からない。大企業が小さな市場に力を注ぐ理由はほとんどないのだ。
対策:小さな組織を作ろう。
このようにして、大企業は破壊的イノベーションの波に乗り遅れる宿命にある。
その時、大企業は滅びるか、より上位の市場(よりハイスペックが求められて、より利益率の高い市場)に移行するかの2択を選ぶことになる。
なんとか破壊的イノベーションの波に乗ることはできないのだろうか?
道はある。新しい組織を作ればよいのだ。リソースを持たず、顧客を持たず、それゆえに特定の価値観も持たない、そんな組織であれば新しい波に乗ることも可能である。
毒を使うことが下剋上の鍵
内容はだいたいこんな感じ。
この本を読んでいて、『ストーリーとしての競争戦略』にも通じる部分があるなと思った。
『ストーリーとしての競争戦略』で書かれていたのは、不合理な部分が全体の合理性を生み出している戦略は、他社には模倣できないということであった。
企業の活動において大切なのは差別化である。他社との違いこそが利益の源泉だからだ。だが、優れていれば模倣される。差別化→模倣される→差別化→模倣される→……このイタチごっこをどうすれば終わらせられるのか。
その答えが、不合理な活動を組み合わせて全体として合理的な活動を構築するという手法である。他社は完璧にトレースしない限り、部分的な模倣をすることになる。だが、部分的な模倣をしても、その活動は不合理なので利益向上にはつながらない。むしろ利益を低下させる。だから模倣されない! 差別化が継続される! パンパカパーン!
そういう話であった。
『イノベーションのジレンマ』も大きな枠組みは同じである。破壊的イノベーションで戦う企業は本来であれば大企業に模倣されれば太刀打ちできないはずである。同じことをやれば勝敗の差を分つのは資源の多寡に決まっている気がする。にもかかわらず、小さな企業が大企業を打ち滅ぼす下剋上がなぜ起きるのか? 上述のとおり、大企業が小企業を模倣することはありえないからだ。模倣すれば自壊待ったなし。
ストーリーとしての競争戦略は不合理な活動が毒になっているのに対し、イノベーションのジレンマは身の丈に合わない活動が毒になっている。駆け出しの小さい企業にしかできないことがあるというわけだ。
自分より強い者に勝つための鍵は、敵に毒を飲ませることなのかもしれない。
組織を変えるのは無理
『イノベーションのジレンマ』は企業版『失敗の本質』だ。
『失敗の本質』に、組織が環境に適応するプロセスとして次のような枠組みが示されていた。
- 前提条件として外部環境(国際・国内情勢、技術の発展段階などなど)がある。
- 組織は外部環境の生み出す機会や脅威に適合するように、資源を蓄積し、展開する。(=戦略を立てる。)
- 戦略は組織構造、管理システム、組織行動の相互作用を通じて遂行される。
組織構造:組織の分業や権限関係の安定的なパターン
管理システム:組織構造以外のコントロールシステム
組織行動:構成員の相互作用のプロセス
→簡単に言えば、戦略を遂行するのは構成員であり、構成員の行動は組織の仕組みによってある程度決まるということである。- 上記により得られた成果に応じて、組織は戦略の強化または変更を行う。(組織学習)
このようなプロセスを経て、旧日本軍は日露戦争をロールモデルとした組織を作り上げていった。ところが、そうやって作り上げた組織こそが、第二次世界大戦当時の環境に適応することを難しくしてしまった。
『イノベーションのジレンマ』に書かれていることも同様で、大企業が大企業になるために作り上げた組織こそが、破壊的イノベーションの台頭に適応することを難しくしてしまう。
ただし、『失敗の本質』は旧日本軍のみを題材として取り上げたがために、ともすれば「学習できる組織を作ろう!」という感想を抱かせるおそれがある。「頑張れば失敗しない組織を作れるんだ!」とある種の根性論に読者を導いてしまう可能性がある。
それに対して、『イノベーションのジレンマ』は「そんなん無理やねん」と冷静にツッコんでくれる。既存の組織を変えるのはそんなに容易い話ではないのだ。(例外はあるが、あくまで例外だ。)
その上で希望を示してくれているのが『イノベーションのジレンマ』の素晴らしいところである。「法則に抗うのはやめよう。法則を利用しよう」ということが、この本で最も価値ある教えではないだろうか。
一つの尺度に依存する危険性
最後にもう一つ、この本を読んで強く感じたのが「尺度」の重要性である。
破壊的イノベーションは新しい尺度を持ち込む。大企業は既存の尺度に囚われてしまうがために滅んでいく。
尺度に囚われてしまうのは企業だけの話ではない。一人一人の人間も尺度に囚われがちなものである。
人々はそれぞれ自分が設定した尺度に基づいて人生の価値を測っている。美貌、身長、体重、友達の数、足の速さ、学歴、資産、インプレッション数、回転寿司で食べる皿の枚数、瞼が二重か一重か、読んだ本の数、観た映画の数、トーク力、髪の本数……その他色々。
適切な尺度を設定することは人生をゲーム化するようなもので、人生を楽しむコツなのかもしれない。一方で、ゲームが暴走して偉いこっちゃになってしまう人がいる。
忘れてならないのは、無数の尺度がこの世に存在することだ。マリオカートが苦手なら鉄拳をやればいいのである。誰かの作ったゲームをプレイする必要もない。自分でゲームを作ったっていい。
大事なのは幸せであることなのに、我々は幸せそのものや幸せをもたらすものそのものを感じ取ることができないから、何らかの尺度を用いて代替的に観測する。それ自体が間違いなのだという気もしないではない。
とりあえず、尺度に自覚的になることから始めるとなんかいいことがあるような気がする。


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