たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『多様性の科学』 鬼舞辻無惨が滅びるのは必然である理由

今週のお題「読書の秋」

 

 『多様性の科学』を読みました。「~の科学」と書かれると数式とか化学式とかが出てきそうな雰囲気がほのかに醸し出されますが、全然そんなことはありません。いやむしろ、この本にはいくつかの悲劇的なストーリーやサクセスストーリーが例示されていることを考えると、ある種の小説であるとさえ言っていい。

 だから少し話を聞いていってください。

 

 現在、多様性、あるいはダイバーシティという言葉はそこかしこで目にします。お台場によく行く人にはいっそう馴染み深い言葉でしょう。

 LGBTQの権利を認めようとか、男女平等を推し進めようとか、障害者の暮らしやすい社会を作ろうとか。

 基本的に、そういった主張は基本的人権という切り口から語られます。人権を軸に考えれば差別は当然に許されないし、自分の主張を押し通すにあたって人権ほど強力な武器もないので当然といえば当然です。一方で我々は知っています。そういった差別(あるいは差別的状況)が許される理屈をこねくり回すことがどれだけ容易かを。

 この本の主張を私なりに一言でまとめると「多様性は盾ではなく武器である」です。「他人の人権なんか知ったこっちゃねぇー!」と考えている世の中の多くの人にとっても、多様性は無視できないファクターなのです。なぜなら、多様性は強い組織あるいは社会を築くにおいて欠かせないものだからです。

 認知的多様性のある組織(考え方の異なる人が多い組織)は認知的多様性のない組織よりも優れた成果を上げることが実験によって分かっています。

 これは考えてみれば当然のことです。リレーのような単純な競技であれば、ウサイン・ボルトが4人いるチームが絶対的に強いかもしれません。しかし、もし競技がサッカーであれば、11人全員がメッシのチームは、おそらくそんなに強くありません。メッシにディフェンダーやキーパーとしての適性があるとは思えません。野球であれば、全員がダルビッシュのチームはおそらくそんなに強くありません。奪三振数はなかなかのものを期待できるかもしれませんが、ダルビッシュに野手適性があるかは疑問です。そもそもピッチャーという一つのポジションだけを考えても、右投げと左投げ両方いた方がよいと思われます。つまり、複雑な状況になるほど、多様性の重要性は増していきます。現代社会はビジネスにせよ研究にせよなんにせよ複雑な状況にあります。

 多様性はイノベーションをも生み出しますイノベーションの中には、全く異なるアイディアをミックスさせることで新しいものを生み出すものがあります。これの鍵もまた認知的多様性です。

 たまに「日本にはなぜGAFAのような企業が生まれないのか」と問う人がいますが、それを見るたびに私は心の中でツッコんでいました。「いや、それを言うなら『なぜアメリカ以外でGAFAのような企業が生まれないのか』でしょ」と。そしてもう一つツッコみます。「スティーブ・ジョブズジェフ・ベゾスイーロン・マスクセルゲイ・ブリンも移民か移民二世なわけで、世界代表みたいなアメリカとほぼ日本人だけの日本が対等にはそりゃなれんでしょ」と。実際、この本によると、アメリカの偉大な企業の経営者やノーベル賞受賞者の半分近く(あるいはそれ以上)が移民か移民の子孫だそうです。

 以上から多様性の重要性が分かったとしましょう。頑張って色々な考え方の人が集まるチームを作ったとします。しかし、それだけでは上手くいかないかもしれません。多様性が上手く働くのを阻害する罠が世の中にはたくさんあるからです。

 その代表格がヒエラルキーです。

 「朱に交われば赤くなる」と言いますが、どれだけ多様な人間を取り揃えようと、いずれその思考は組織に染められていきます。特に、上司が強い職場ではそれが顕著なようで、ヒエラルキーの強固な職場となると、自分の命がかかっていても人は上司に意見できないのだとか(この本には登山や飛行機事故のエピソードが描かれています。なかなか衝撃的です)。恐ろしいですね。こうなると多様性もへったくれもありません。上司以外は意見を発せないなら多様な思考に意味はないのです。

 じゃあヒエラルキーを一切なくせばいいのかというとそうでもないのが難しいところです。妥協点は、恐怖によって支配するのではなく、尊敬によって繋がろうといったところのようです。これは近頃耳にする、職場には心理的安全性が欠かせないとか、リーダーは人格が大事だよとかといった話と整合的です。

 『鬼滅の刃』もこの観点から読むと重要な真実を描いていることが分かります。鬼と鬼殺隊の勝敗を分けたのは多様性の有無です。同じ鬼でありながら珠世さんを排除しようとした鬼舞辻無惨と、人を食らう鬼であるはずの珠世さんと禰豆子を受容した鬼殺隊。ここが鬼舞辻無惨の敗因だったことは疑いようがありません。

 もう一つの罠がエコーチェンバー現象です。

 世の中には色々な多様性があります。そう考えると、多様性を確保するには人口が多いほうが有利そうな感じがします。しかし、ここが面白いところで、実は多くの人がいる場所ほど多様性は失われやすいようです。というのも、多様性は大きな力を秘めていますが、同時にしんどいものでもあります。みんな、自分と似ている人間と交流したほうが楽なのです。では、自分と似ている人間は、人口が少ない場所と多い場所、どちらの方でより見つけやすいか? もちろん後者です。大学のクラスオリエンテーションで仲良くなった友達は、大学生活が本格的に始まると疎遠になっていきます。あれもこれで説明ができます。色々な人と交流が可能になったことで自分よりも気が合う仲間を見つけたからもう自分なんかと付き合う必要がなくなったのです。悲しい。

 この究極がインターネットです。インターネットでは自分と同じ考え方の人は検索すれば容易に見つけることができます。そういった人たちをフォローしていって、あるいは自分好みの人や記事をAIにサジェストしてもらっていった結果、自分好みのコミュニティーができあがります。こうした空間が先鋭化していくと、異なる意見は誹謗中傷により排除され、そのことによりますます元々持っていた信念が強化されていくのだとか。怖いですね~。どうすればこの地獄から抜け出せるのでしょうか? この本では、とある生粋の白人至上主義者が現実に目覚めるまでの感動的なストーリーが描かれています。私が読み解いたところでは、人は信念や価値観をいくつも持っているので、その中のエコーチェンバーセンサーに引っかからないところから崩していけばワンチャンあるっぽいです。

 最後のトラップが標準化です。

 人間は十人十色です。ということは、それぞれに適した環境もまた十人十色です。これを無視して一様な環境に押し込めてしまうと人間は力を発揮できません。デスクを好きにデコれない職場とデコれる職場では後者の方がパフォーマンスは上がるそうです。軍用機のコックピットは標準化されたものと可変式のものとでは、前者が圧倒的に事故率が高いのだとか。

 言われれば「そりゃそうだろ」ってな感じですが、この標準化の罠は色々なところに潜んでいます。教育は標準化されています。みんな同じ時間同じ場所で働く職場も多いことでしょう。また、「健康的な食事とはこういうのですよ!」という論もありますが、あれも標準化の罠だそうです。何が健康的な食事かは人によって違うのだとか。刃牙が炭酸を抜いたコーラを飲んでいるからといって、自分にも炭酸抜きコーラが有効とは限らないのですね。

 

 エッセンスはこんなところでしょうか。ここに書ききれない面白い情報はたくさんあります。人間は臓器をアウトソーシングしている(意訳)とか。

 この本は「なぜCIAは同時多発テロを防げなかったのか?」というところからスタートします。そのような切り口からダイバーシティを語る、それ自体が斬新です。我々は多様性を語りながら、実のところその語り口に多様性が欠けていたのではないか……?と気付かされました。

 多様性は組織だけでなく、個人にとっても重要です。ノーベル賞受賞者は一般の科学者より芸術を嗜んでいる率が高いのだとか。興味のないジャンルの読書をすることもきっと自分に多様性を宿す糧になるのではないでしょうか?

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