今週のお題「練習していること」
日経電子版の無料体験期間が終わったので、朝日新聞デジタルの無料体験をしている。日経と違って朝日は一ヶ月しか無料期間がない。ケチである。
日経と朝日は全く毛色が違う。日経は当然ながら経済の記事が多いのだが、朝日は国内政治とか社会の記事が多い。メインとなる報道の対象が異なるわけだ。この違いが、報道の仕方の差異まで生み出している。日経は物事をマクロで捉えようとするのに対し、朝日は物事をミクロで捉えようとする。日経は現象に注目するのに対し、朝日は人間に注目する。
……という印象を覚えた。私は日経の方が好きである。
『レザボア・ドッグス』を観た。クエンティン・タランティーノのデビュー作。
宝石の強盗を画策したヤクザな男たちの作戦が失敗して裏切り者が誰なのかやんややんや喚き合う映画である。
この映画の中で印象的な言葉がある。登場人物の一人が、仲間たちに気に入られるためにジョークを覚える場面。彼は師匠的な人物にこう言われる。
細かい部分にこだわれば説得力が増す。話の舞台は男子便所だ。便所の細部にこだわれ。手拭きは紙かドライヤーか? 個室にドアはついてるか? せっけんは液体か? 高校で使ってた粉タイプか? お湯は出るのか? 臭いか? どこかの汚いゲス野郎が使ってクソまみれなのか? なにもかも答えられるようにしろ。
クエンティン・タランティーノは朝日新聞派だ。いや、それはどうでもいい。これは奥義だと思った。
優れた映画は優れた構造を持っているが、同時にディテールも優れている。
先日アカデミー賞を取った宮崎駿が『もののけ姫』のメイキングで何を語ってきたか? 藪の中を駆けるアシタカに顔を守る演技をさせたアニメーターに、アシタカはそんなやわじゃないと言っていたのではないか(うろ覚えだが)。たたらを踏む女に辛そうな表情をさせたアニメーターに、作用には反作用があるものだと語っていたのではないか(やはりうろ覚え)。どちらもストーリーには全く関係ないし、おそらく宮崎駿が修正する前のバージョンでも観客の誰も文句を言わないであろうほどの細部。そこまでの細部にこだわるから名作は生まれる。
実写ではこの部分を役者が担う。監督や脚本は大きな枠組みを決めるのであって、最終的な細部を決定するのは役者や衣装、カメラマンえとせとらえとせとらなのである。これについて語ることから私は逃げ続けてきた。これからも逃げ続けるかもしれない。細部についてじっくり語るのは難しい(一言二言触れるのは容易だが)。
神は細部に宿る。そのことをクエンティン・タランティーノに改めて教えられた気がする。
というわけで細部について語る練習をしよう。
男子便所と言えば、昨日の話である。
私が職場の便所に入ると、個室から男が出てきた(女が出てきたら驚く)。別の部署で働いているバイト君だった。どことなく大谷翔平を想起させる雰囲気の高身長ハンサムボーイである。便所の中にはほかに誰もいなかった。
自分が使った直後の個室に入られるのは気まずかろうと思って――いや、本当は私が気まずかったのかもしれない――私は翔平が出てきたのとは違う方の個室に入った。
この便所には二つの個室がある。彼が出てきた個室は洋式、私が入った個室は和式の便器だった。
多くの日本人は和式より洋式の便器を好む*1。私も御多分に漏れず、洋式の方が良かった。そこで、個室の中でベルトを外しながら聞き耳を立てた。便所のドアが開き、閉まる音がする。おそらく翔平が出ていったに違いない。だが、第三者が入ってきた可能性もある。私はなおも聞き耳を立て続けた。便所の中で音を立てるものは換気扇だけだった。今、便所の中にいるのは自分だけ。そう確信が持てたところで、私は個室の扉を開けて、翔平が出てきた洋式の個室の方に移動した。
扉を開けると、目に飛び込んできたのは水の中に浮かぶ茶色いものであった。瞬間、こみ上げる吐き気。反射的に和式の個室に逃げた。
30年以上生きていれば、汚物が残留している便器に遭遇したことは何回もあるが、直前の使用者が判明しているというのは、しかもその使用者が顔見知りであるというのは、初めてのことだった。とてもそんなことをしそうな人物ではなかったのに……。水原一平がギャンブル中毒だったのと同じくらいの衝撃である。
いや、おそらく翔平とて故意に排泄物を残したわけではあるまい。狸ではないのだから。もしなんらかの目的を持って行った行為(たとえば自己の存在証明)だとすれば、むしろ便器の中に排泄しただけまとも……と考えることができるかもしれない。が、常識的に考えれば、これは事故である可能性が高い。翔平は流したつもりだったのに、流れていなかったのだ。
というのも、翔平が使ったトイレはスイッチが半壊していて、ちょうど上手い具合に押さないと水が流れないのである。もちろん水が流れないことに気付いて何度もスイッチを押して流そうとするのが普通である。だが、100人いれば1人くらいは流れていないことに気付かなくても不思議ではない。スマホを置き忘れるような輩もいるわけだし、なにか考え事をしていると確認を忘れることはある。つまり、今回の事故は起こるべくして起こったものだと言えるし、それがたまたま翔平の身に降り掛かったにすぎない。
こうしたアクシデントの原因を属人的な問題として捉えるか、それとも構造的な問題として捉えるか。真の問題解決のためには、後者の視点が重要ではないだろうか? たとえば、この視点なくしてはバリアフリー社会も形成しえないであろう。
翔平は、自分がうんこを便器に残したままだったと知らない。これからも知ることはないだろう。私が教えない限りは。なんと哀れなのだろうか。おそらく、うんこ流さないマンのほとんどは、自分がうんこ流さないマンであることを知らない。恐ろしいことだ。フィードバックがない――これもまたうんこ流さないマンが生まれる構造的原因の一つである。きっとうんこ流さないウーマンもいるに違いない。それがアイドルだったら? ショックだ……。
そんなことを考えながら、私はレバーを押す。水がすべてを洗い流す。
扉を開けて個室を出る。洗面台でキレイキレイを付けて手を洗う。ふと不安になって、再び(私が使った方の)個室を覗く。大丈夫。流れている。
やれやれ、今回は無事だったが、それはたまたまだ。過去に私もうんこ流さないマンになったことがあるかもしれない。
もしかしたら、あなたの背後の便器にも――。