令和6年4月14日、『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』を観に行った。
会場はIMMシアター(生きてるだけで丸儲けシアター)。東京ドームのすぐそばにある、705席の小さな劇場だ。
乃木坂465期生は、単独で代々木体育館を埋める集客力を持つ。代々木体育館は一万席を超える規模だ。狭い劇場のチケット抽選は激戦となることが予想された。私は10日程に申し込んだが、当たったのは1枚だけだった。
最寄り駅は水道橋。学生時代は毎日*1、隣駅である春日から大学まで歩いていたため、懐かしさを感じる。といいつつも、学生時代の3年間*2、水道橋まで足を伸ばしたことは一回たりともなかったのだが……。
12時からの開演だった。会場は11時15分。終演は3時頃になると思われたため、事前に昼食を取っておく必要がある。あらかじめ調べておいた11時開店の餃子屋に10時50分頃に行くと、すでに店は開いていた。中に入ると客はほとんどいない。東京の人気店だから混むのではないかと予想していたが、拍子抜けである。とはいえ、徐々に席が埋まっていく。大量の餃子をかき込んで店を出たときには、店の外に長い行列ができていた。早めに来たのは我ながら素晴らしい判断だったと言わざるを得ない。
きらっきらっきらっきらっ……♪ 水っ晶 宝っ石♪
厳かな雰囲気で劇は始まる。
それは月野うさぎの夢。
鐘の音が鳴り響き、景色は一変する。
チリリン♪チリリン♪
「うさぎ! いつまで寝てるの! 起きなさい!」
少女漫画はいつだって主人公の寝坊から始まる。慌ただしい登校風景は小気味よいテンポの音楽を奏で、その勢いのまま物語は展開していく。
月野うさぎは日本語話者の黒猫ルナと出会い、セーラームーンに変身する。彼女は妖魔たちと戦うために、セーラー戦士のスカウトを開始する。
そうして出会ったのが、天才中学生と名高い水野亜美、超能力を有する火野レイ、不良と噂される転校生の木野まことの三人。彼女たちもまた、セーラー戦士としての才能を開花させる。
ここには『シンデレラ』の変身と『桃太郎』の仲間集めの面白さがある。興味深いのは、セーラー戦士たちにとっての「変身」の意味だ。
『シンデレラ』において、変身は夢の実現を意味する。つまり、「なりたいけどなれない姿」に変身するのがシンデレラ。主人公が他者の力によって欠落しているものを獲得し、社会的地位を向上させるという構造は、『マイ・フェア・レディ』にも『プリティ・ウーマン』にも共通する。
ところが、例えば、水野亜美はもともと頭脳明晰であり、セーラー戦士になった後もその頭脳を活かして戦う。アニメ版『美少女戦士セーラームーン』では、セーラーマーキュリーは攻撃能力が低い。彼女の最後の攻撃は「小型パソコンでの殴打」だった。彼女のメインウェポンはあくまで頭脳なのである。彼女は変身によって自分に欠けているものを獲得するわけではない。自分の才能を活用する先を見つけただけだ。同様のことがセーラーマーズとセーラージュピターにも言える。
『セーラームーン』における「変身」とは、「本当の自分の発見」なのだ。このことは、彼女たちが前世からの宿命に殉じていくストーリーによっても補完されていく。
ただ「変身」に付与する意味が異なるだけではない。『セーラームーン』は意図的に、『シンデレラ』の「他者から幸せを与えられる」という構造を否定しようとしているのだ。セーラー戦士たちが戦うダーク・キングダムの幹部は、全員が男である。また、ヒーローとして登場するタキシード仮面は要所要所でセーラームーンを助ける一方で、最終的にはセーラームーンによって救われる対象となる。セーラームーンの自己実現は男に依存していない(かといって男の存在を拒絶しているわけでもない)。幻の銀水晶も結局はセーラームーンの体内にあったわけで、魔法の力すら最初から自己の中に内在していた。
加えて、セーラー戦士たちは変身によって社会的地位を向上させることもない。彼女たちは、正体を隠して生きていく。テレビによって掻き立てられる虚栄心を抑える姿は、まるで僧侶か軍人のようである。彼女たちにとって大事なのはあくまで本当の自分を発見することなのだ。ここには『竹取物語』の要素がある。
こうしたセーラー戦士たちに対置されるのが、クイン・ベリルである。彼女は好きな男をプリンセス・セレニティ(=セーラームーン)に取られた嫉妬から、狂気に囚われる。(これは『白雪姫』の要素だ。)何者にも依存しないセーラームーンと王子様に依存するクイン・ベリル。二人の対決が物語のクライマックスとなる。
……分厚い。
様々なおとぎ話の要素を取り入れて、一つの物語に再構成しつつ、単なる踏襲に陥らず現代的な価値観に基づき発展させている。
アニメ『美少女戦士セーラームーン』は、この壮大な叙事詩を描くために全46話を費やしたが、捨てエピソードはほぼない。それだけの厚みがこの物語にはある。
それを2時間半に凝縮するわけである。目まぐるしい展開。面白くないわけがない。音楽も演出も良い。
正直なところ、私が期待していたのは「可愛い井上和ちゃんを近くで拝めること」だけだった。なんせ700席しかないのだ。どこの席であろうと、ライブなら上位10%以内に入る近さである。この御褒美を目の前にして、それ以外のものが気になる人間がいるだろうか。いや、いない。へろへろの歌声や棒読みの台詞回しでも構わなかったのだ。
ところがである。乃木坂465期生は「近くで見れる」以上のものを提供してくれた。私の眼前で繰り広げられたのは、「良いミュージカル」だった。特に月野うさぎ役である井上和ちゃんは、おそらく三石琴乃の演技を意識して演じていたと思われる。私は井上和を通して月野うさぎを見ていた。五百城茉央ちゃんもアニメのとおりの木野まことだった。他の三人もしっかりした演技と歌を披露していて驚いた。彼女たちの脇を固めるのは元宝塚をはじめとした実力派である。
私はただただミュージカル『美少女戦士セーラームーン』の世界に没頭した。
そして、失われていた記憶が蘇る。
『美少女戦士セーラームーン』は名作だったこと。大学時代に全話を制覇したこと。当時書いていたブログでおそらく一万字を超える感想を書いたこと。
それだけじゃない。それよりもはるか前、小学生時代に原作を読んだこと。「シュープリーム・サンダー」を「シュークリーム・サンダー」だと思っていたこと。神社の巫女が「バーニングマンダラー」を放つのは神仏習合の事例の一つであること。
なぜ『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』の文字列のうち、「乃木坂46"5期生"」にしか目が行かなかったのか。「セーラームーン×乃木坂465期生=最×高」だということになぜ気付かなかったのか。
きっと私は社会人生活の中で一度死んでしまったに違いない。前世の記憶はそこで蓋をされたのだ。
それでも私とセーラームーンは再び出会った。井上和に導かれ何度も巡り合ってしまった。
公演後、私は後楽園にいた。
後楽園は初代水戸藩主徳川頼房によって作られた現存する最古の大名庭園。日本三名園は偕楽園・兼六園・後楽園だが、この後楽園は岡山の後楽園だから間違えないように。名前の由来は「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」(天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)にある。
歩いていると、昔の記憶が蘇ってくる。
水戸の藩主だった私は、岩槻藩の姫君だったプリンセス・ニャギニティと恋をしたんだっけ。民の苦労を知るために二人で稲作をしたことが懐かしい。顔についた泥を腕で拭おうとするにゃぎはまるで猫のようだった。しかし、そんな日々もつかの間。嫉妬した正室の中西アルノが差し向けた毒蛇によって二人とも死んでしまうのだ。きっと民衆を出しにしていちゃついていた罰が下ったに違いない。天下の憂いに先立って楽しんでしまうとこうなる。
にゃぎとアルノが巡り合った現世となっては良い思い出である。(そう、前世のアルノはにゃぎに嫉妬したのではなく、私に嫉妬したのだ。)
というわけで、そんな素晴らしい『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』は、千秋楽を配信で見られる&ブルーレイの発売も決定している。乃木坂ファンもセーラームーンファンも要チェケラ。
『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』千秋楽公演のライブ配信が決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト
『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』のBlu-ray発売決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト