たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『オッペンハイマー』を観た

 『オッペンハイマー』は2023年の映画*1。監督・脚本はクリストファー・ノーラン。主演はキリアン・マーフィ―。アカデミー賞は作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞を受賞。

ビッグプロジェクトもの

 タイトルにもなっている主人公のJ・ロバート・オッペンハイマーは、原子爆弾の開発チームのリーダー。原爆の父である。

 したがって、この映画は必然的にビッグプロジェクトものとなる。ビッグプロジェクトものの映画といえば、『戦場にかける橋』が筆頭に挙げられるが、ほかにも『イミテーション・ゲーム』などがある。*2

 ビッグプロジェクトに欠かせない要素としては、言うまでもなく、達成すべきビッグなプロジェクトがある。通常、一人の力で達成できるものはビッグなプロジェクトとは言わないから、仲間も必要だ。

 加えて、プロジェクトを達成するために必要なリソースが揃ったら、あとは完成を待つだけとなるが、それではドラマが生まれない。したがって、プロジェクトの成功を阻止しようとするライバルもかなり重要な要素となる。

 ついでにいえば、プロジェクトの進行度合いを示すゲージのようなものもあるとなお良い。特に、今回の映画で作ろうとしているのは、いまだかつて作られたことのない爆弾だ。巨大な橋と違って、できあがっていく様子が目に見えるものではない。代わりに何で進捗状況を示すのか、は地味に映画のクオリティに直結するポイントかもしれない。

 ここらへんは基本なので、名匠クリストファー・ノーランなら当然に押さえている。この時点で面白いかつまらないかでいえば、面白い映画となることがほぼ確定している。

 問題は、面白いのさらにその先へ行けるかどうかだ。

プロジェクトの持つ意味

 ビッグプロジェクト系映画が成立すれば、観客は必ず次のような感情を覚えることになる。

「ビッグなプロジェクトを達成した! やったー!」

 名作と言われるには、ここにひとつまみのスパイスを加えることが必要だ。そのために有害又は不毛な目標を設定するという手法が存在する。

 『戦場にかける橋』では、主人公は敵軍(日本軍)のために橋を作る。敵軍を利するわけだから、味方にとっては有害な目標だ。プロジェクトを達成する喜びは、純粋なものではなくなる。「本当にプロジェクトを達成してよいのか?(よかったのか?)」という疑念が混じることになる。これが深い味わいを生む。

 『イミテーション・ゲーム』でも、せっかくエニグマの解読を達成したのに、あえて仲間を見殺しにするエピソードが挿入される。功績も口外禁止で、チューリングは全然関係ない罪(同性愛者であるという罪)で惨めな死に追いやられてしまう。

 この手法を採用すると、主人公はビッグプロジェクトを達成した功労者であると同時に、罪人となる。矛盾があり、がある。いずれもエンターテイメントにとっては重要な要素だ。映画はぐっと名作に近づいていく。

 『オッペンハイマー』でも、プロジェクトの達成は日本の市民の虐殺を意味し、人類が自らの力で滅亡する可能性の誕生を意味する。間違いなく有害な目標である(もちろん見方によって様々な評価がありうるが、あらゆる評価はそういうものである)。しかも、社会へのインパクトでいえば、これ以上に大きなものはそうそうない。

 つまり、オッペンハイマーという題材はこの上なく魅力的なのだが、そこにはリスクもある。センシティブな問題に触れることになるので、生半可な気持ちで取り扱うとやけどを負うことになる。

法廷もの

 その主題の重大さゆえに、『オッペンハイマー』はプロジェクト達成からが長い。おそらく3時間のうち1時間が、達成後に割り当てられている。

 戦後、オッペンハイマーは情報漏洩を疑われ、聴聞を受けることになる。これは非公式の裁判のようなもので、結果次第でオッペンハイマーの研究者生命は絶たれることになる。つまり、『オッペンハイマー』は2/3がビッグプロジェクトもの、1/3が法廷ものの様相を呈している。

 もちろん、ただ映画のテイストが変わるだけではない。ビッグプロジェクトパートで発生した仲間とライバルの要素が、法廷ものパートに効いてくるのだ。

 最終的に、オッペンハイマーは勝利を収める。一度公職を追放されるものの、彼を追い落としたストローズもまた後に屈辱を味わい、一方でオッペンハイマーの名誉は回復されるのだ。

 そんなわけで本作は、3時間でビッグプロジェクトものと法廷ものの二つを楽しめるお得作品となっている。

時間軸シャッフル

 とはいえ、ここで一つの懸念が生まれる。

 外形上、法廷パートの焦点は、オッペンハイマー個人の処遇に当たることになる。せっかく核兵器という人類レベルで重要なモチーフについて描いたのに、一個人の問題に閉じていく構造でよいのか?

 これに対するアンサーとしては、「法廷パートもまた『核兵器とはなんぞや』を描くために存在する」というものが考えられるし、『オッペンハイマー』もそのように作られていると思われる。だからオッペンハイマーが政治闘争に勝つか負けるかなど本来的にはどうだっていい問題なのだ。

 ビッグプロジェクトパートでは、原爆というガジェットそれ自体が描かれる。法廷パートでは、ガジェットを取り巻く人々の思惑が描かれる。核兵器を推進するのか拒絶するのか。いかにして自己正当化するのか。何を、誰を恐れているのか。本当の根源にあるものはなんなのか……。(この中に、核兵器が使われるとどのようなことが起きるのかは入っていない。『オッペンハイマー』への批判がその点に集中することは容易に想像できる。この映画が何を描こうとしたかを重視するか否かによって見解は分かれるだろう。)

 言うまでもなく、この映画の本題は法廷パートにある。したがって、ビッグプロジェクトパートは法廷パートに内包されることとなる。オッペンハイマーが原爆を作るまでの過程は、聴聞での陳述の内容なのである。

 ここにまた別の視点、オッペンハイマーが放逐された後のストローズの視点も時間軸を越えて混じってくるから映画はかなり複雑になる。

 特に序盤において、映画の筋を追いきれず、観客はかなりストレスフルな状況に置かれる。あまりのストレスに、私は眠りに落ちた。睡眠不足が祟ったせいか、2回観たけど2回とも寝た。でも身体が睡眠を求めているなら寝ることは良いことだ。むしろ普段は昼寝もろくにできないのが悩みなので、これは映画の素晴らしい効能とさえいえる。

 それはともかく、初見の序盤は脳みそをかき回されるような感覚で混乱する。後半あたりからだんだんと状況が整理されてきて落ち着いてくる。このあたり、つまりは時間軸をシャッフルするという手法を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかも人によって見解が分かれるところかもしれない。

 私は初見では悪印象だったのだが(分かりやすい方が一回で理解できてお得だから!)、2回目はさすがに理解できたのでこれも悪くないと思った。というか、時間軸シャッフルのおかげで分かりやすくなっている面もあることに気付いた(気がする)。それに、混沌としている間に原爆の制作が進んでいって、原爆完成の直前ぐらいからだんだんと物事がクリアになっていく感覚、これぞまさにオッペンハイマーが体験した世界なのではないか。いや実際はそんなんじゃなかっただろうけど、少なくとも、そういう妄想をする余地はある。

 

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*1:日本公開は2024/3/29

*2:近いものとしては『カメラを止めるな!』もあるが、あれは即興的なのでミッション・インポッシブルに近いかもしれない。『風立ちぬ』はプロジェクトが先立つ物語ではないから少し違う気がする。