たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『雪国』は織姫と偽彦星の物語?

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 

 日本で一番有名な小説は、おそらく『吾輩は猫である』だと思います。

 タイトルと同じ一文から始まる冒頭がかなり有名で、キャッチーさもある。しかも、作者があの元千円札のおじさん、夏目漱石です。

 では、第二位はなんだろうか?

 古典を含めると源氏物語枕草子などが入るかもしれませんが、近代以降の文学に限れば、実はこれ、『雪国』なのではないでしょうか。

 やはり冒頭の一文がかなり有名です。そして、その一文の中にタイトルが入っている。作者はノーベル文学賞受賞者である川端康成

 というわけで、この超ビッグタイトルである『雪国』を読んだので、感想を書きます。

あらすじ

 個人的には、こういう文学作品はあらかじめネタバレしといたほうがかえって読むのが楽しめると思います。そういうわけなので『雪国』がどのような話なのかを結末まで説明します。

 物語は島村という妻子持ちの男を中心に描かれます。島村は、雪国へ向かう汽車の中で葉子という美しい娘を見かけます。葉子は病気の男の面倒を一生懸命にしています。島村は窓ガラスの反射を通して、その様子をこっそりと観察するのでした。

 駅に着いて、島村は宿に行きます。そこにいたのは一人の美しい芸者・駒子。島村は駒子に会いに、この雪国へやってきたのです。二人が出会ったのは半年前の春のこと。当時、駒子はまだ見習いだったのですが、二人の間にワンナイトラブ的なイベントがありました。

 今回の滞在で、島村は駒子の名前や、駒子が葉子&病気の男・行男と同じ家で暮らしていること、駒子は行男と元許嫁と噂されるくらいには深い関係であること、行男の療養費を稼ぐために駒子が芸者になったようであること、などなどを知ります。時が経ち東京に帰る島村を駒子が見送っている最中、葉子が現れて、行男が危篤であることを知らせます。しかし、駒子は行男のもとへ行くのを拒み、島村を最後まで見送ります。

 翌秋、島村は再び雪国へ行きます。行男はやはり、駒子が島村を見送っている間に息を引き取ったようでした。行男の母親でもある駒子の師匠が死に、駒子は置屋(芸者を抱える家のこと)に居を移していました。しかし、相変わらず駒子はあっけらかんとしていて、島村の宿へ通い詰めます。島村は駒子があと何年で借金を返済し終えるかといったような身の上話を聞いたりします。その間に、葉子とも僅かな交流があり、葉子の行男への執着や駒子との確執を感じたりします。そして、島村は、だんだんと駒子と別れなければいけないという気になってくるのです。

 ある夜、駒子と島村が夜道を歩いていると、村の繭倉で火事が発生します。映画を上映していた折、映写機が発火したのだとか。急いで駆けつけると、焼け落ちる繭倉から気絶した葉子が落下するのを二人は目撃します。駒子は葉子を抱え「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫びます。島村は駆け寄ろうとしますが、救助に行く男たちに押しのけられてしまいます。

『雪国』は難しい

 『雪国』は難しいです。

 私は当初、150Pにも満たないこの物語を一瞬で読めることを期待していたのですが、久々のThe昭和純文学に度肝を抜かれ、思ったようには読みすすめられませんでした。

 この本が完成したのは1948年頃のようです。初出は1935年らしいので、大雑把に80年くらい前の小説。当然、使われる言葉は今と違って、それへの慣れが必要です。それに川端康成は(三島由紀夫ほどではないものの)美文の使い手で、テクニカルな比喩が多めです。また場面や会話において唐突な飛躍があり、それについていけないことも多々あります。

 ……というようなことを読んでいる最中は思ったのですが、具体例を挙げるために頭から読み返したら、なぜかスラスラ読めました。読みづらいポイントが一切見つからない。なぜなんだー! 『雪国』に限らず、こういう本は少なくとも2回読んだ方が良いのかもしれません。

 ただ、一つ間違いないのは、「芸者とはどういう存在だったのか?」ということについては事前に勉強しておいた方が良さそうです。勉強と言ってもウィキペディアを読むくらいで十分ですが。

 我々は芸者についてどんなイメージを持っているでしょうか? おそらく、京都あたりにいて、酒宴の席を盛り上げる人くらいのイメージではないでしょうか。実際、それは間違っていません(たぶん)。

 現代と『雪国』の時代における芸者で決定的に違うのが、売春婦としての芸者が存在したかどうかです。現代ではおそらく芸者が性的サービスを提供することはないかと思いますが、『雪国』が書かれた頃はまだ売春を行う芸者が存在したようです。島村が駒子に初めて会った翌日、駒子に「芸者を世話してくれ」と言い、駒子が嫌悪感を示す場面があります。会話の流れやらでもなんとなく分かりますが、これは今で言えば「デリヘルを呼んでくれ」的な発言だったのではないかと推測します。

 とはいえ、全員が売春をしていたわけではなく、売春を行わない芸者はパトロンを持っていて、そのパトロンのことを旦那と呼んだのだとか。島村と駒子が初めて会った場面で「旦那が死んだ」という記述があるのですが、これは駒子が寡婦であるという意味ではないのですね。たぶん。

 それから、芸者になる際には、お金を借りて、その借金を返済するまでの間、タレント事務所的なところで働くというシステムだったっぽいです。「年期は四年だと言った。」とあるのは、駒子があと四年働けば引退できるといった意味だと思います。

何を描いているのか

 上のあらすじでも分かるとおり、この小説にはおよそドラマチックなストーリーがありません。

 一人の複雑なバックグラウンドを持つ芸者と高等遊民が出会い、恋が成就する予感は一切ないままに、うっすらとした交流を深めるだけの物語。

 ぼんやり読むと、「だからなに?」と言いたくなるくらいの話です。

 私は、この小説は「徒労の美しさ」を描いているのではないかと思いました。

 駒子は同好の士もなく、一人で小説を読むのを楽しんでいるのですが、読んだ小説の題と作者と登場人物とその関係を逐一書き留めていることを島村は知ります。

「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか」

「しようがありませんわ」

「徒労だね」

「そうですわ」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。

 全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとしたとたんに、雪のなるような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにかかえって彼女の存在が純粋に感じられるのであった。

 駒子にとっての小説とは都会的なものへの憧れを象徴するもので、決して現実にならない空想のようなものなのです。

 島村は実物を見たこともない西洋の舞踏を研究して文章を書くことで小金を稼いでいます。彼にとって西洋の舞踏は空想でしかありませんが、だからこそそれは純粋なものであり、その点こそが島村にとって重要なのです。ミロのヴィーナス理論ですね。もっと俗なたとえを出せば、マスクしていると美男美女に見えるのと同じようなもんです。たいていの現実は、空想のままでいたほうが美しいのです。

 幻想を幻想のままにして楽しんでいる二人は合わせ鏡のようで、駒子にとっての島村、島村にとっての駒子、どちらも幻想です。つまり憧れの対象です。そして、妻子持ちの島村は家族を捨ててまで駒子と添い遂げようという気はさらさらなくて、従って二人の恋もまた幻想のようなもの。つまりは徒労なのです。

 徒労であるこの恋は、必ず終わりを迎えます。だから島村と駒子が惹かれ合った時にはすでに物語は「二人がいかに別れるか」を目指して動いているのです。そして、その瞬間は当然のように、幻想を幻想のままにできなくなった時(つまりほどほどの距離を保てないほど恋心が高まりすぎてしまった時)に訪れるのです。

 タイトルは重要です。『雪国』というタイトルである以上、雪国という舞台設定に重大な意味があります。おそらくは、雪と駒子の白い肌(白粉)を重ね合わせています。雪国は駒子のメタファーなのではないかと。それは都会とは隔絶された世界であり、島村にとっては幻想の国なのです。

 かつて、この雪国では寒い冬に麻の縮を作っていたようです。それが大層な儲けになったかといえば、そうでもなく、ここにも徒労があります。縮に関するパートの中に、こんな文があります。

 そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心込めた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。

 この「人を鞭打つ」の部分が重要そうです。

 この小説にはメタファーがたくさんあります。それを読み解く楽しさとしんどさがあります。

 一つはあけび。島村は「あけびの新芽も間もなく食前に見られなくなる」頃に駒子と出会い、あけびが実を付ける頃に駒子と別れようという気になる。あけびは二人の関係性を暗示しているのでしょうか?

 もう一つは、。三回目の滞在から蛾がそこかしこに登場します。

蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。

 蛾もまた、駒子のメタファーです。駒子が最初に住んでいた部屋が蚕の部屋だったことから推察できます。そう考えると、引用した文は「悪い虫を寄せ付けぬように」という夫人からの鋭い牽制だったのかもしれません。

 駒子の部屋の描写でもう一個注目すべき点は鏡台が粗末であることでしょうか。ここに駒子の自己肯定感の低さが表現されている気がします。実際、駒子はことあるごとに島村が自分のことを嘲笑しているのではないかという不安を口にします。(そもそも鏡というアイテムがこの小説において非常に重要な存在であることは、冒頭で島村が列車の窓ガラスを鏡として葉子を観察していることからも明らかです。が、私も完全に理解できていないので、この点について深くは書きません。)

 ここを把握しておくと、最後の場面は葉子が落下する点以外に注目すべきことがあるのが分かります。燃えたのが繭倉なのです。

 これが何を意味するのか?ということなのですが、ここからは私の妄想が多分に混じります。駒子と葉子は同一人物なのではないかと私は考えたりしています。それは客観的に葉子は妄想上の存在なのだとかそういう意味ではなくて、メタ的に、駒子の中にいるもうひとりの駒子としての役割を葉子は背負っているのではないかということです。駒子が本田圭佑だとすれば、葉子はリトルホンダ。駒子が天上ウテナだとすれば、葉子は姫宮アンシー。そういう話。

 駒子と葉子はともに清潔で美しいうえに、ふたりとも気分屋で、おそらく同じ男を愛している。そして、それは徒労である。あまりにもキャラクターとして似すぎで、そこに意味がないわけがありません。葉子は駒子の生霊みたいなものなのです。葉子と駒子はいがみあいながらも根底では愛し合っている節がありますが、粗末な鏡台(自分への評価の低さ)との整合性も取れます。それにこの物語の主人公は明らかに駒子ですが、その割には最初に登場するのが葉子だというのも普通に考えれば妙です。駒子と葉子は二人で一つの役割を持っていると考えれば、やはり腑に落ちます。

 より具体的に言えば、駒子の中の行男を愛する心を象徴しているのが葉子なのではないかと。言い換えれば、駒子の中の現実を追い求める心を表しているのが葉子なのではないか。駒子がどんどん深く島村にのめり込んでいくにつれ、葉子と島村が接近するのも、島村がそこに寒気を覚えるのも説明がつく気がします。

 だから、繭倉とともに葉子が燃えるラストは、駒子の中にある島村を欲する心が沈黙させられる様を描いているのではないか。それは実に暴力的です。しかし、おそらく葉子は死んだわけではない(島村のことをすっぱり忘れられるわけではない)のです。駒子は葉子を「つらい荷物」として抱えて生きていくのでしょう。

 ラストシーンで意味深に描かれるのが天の河です。

 「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」

 そういう声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。

 この天の河はなにを意味しているのでしょうか?

 実はこれ、非常に単純なことではないかと私は考えています。天の河といえば、織姫と彦星です。駒子は蚕であり、三味線を弾く(ベガは琴座の星)、裁縫が捗らない……など様々な要素が(ぴったりではないものの)符号します。島村と牽牛はまるで重なりませんが、この物語が永遠に続く遠距離恋愛ではないことを考えれば、あえてずらしているとも解釈できます。ともかく、天の河は島村と駒子を隔てるものだと考えて間違いないのではないでしょうか。

 天の河に関しては下のような記述もあります。

「(略)一年に一度来る人なの?」

「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね」

 『雪国』とは、織姫と彦星の恋を描いた物語。しかし、その彦星は偽物の彦星なのです。だからこそ、織姫の純粋さが一層輝く。そういう話なのかなと今のところ私は考えています。

まとめ

 というわけで、『雪国』でした。

 当初は「『雪国』読んだけどわけわからん!」と書こうと思っていたのに、読み返したら非常に読みやすいことが分かり、あれやこれやが何を意味しているのかが分かった気になったりして、思いの外、長文になってしまいました。

 しかも、これでまだまだ書けていないことがけっこうあったりします。葉子の顔に浮かんだ火の意味とか、刑罰の意味とか。それから、この物語が三つの季節を描いて終わっていること、四季を描いていないことにも意味深なものを感じています。それが厳冬の頃であるというのにも、美味しいところだけ味わいたい島村の気持ちが見えているのかなあと。

 やはり名作は読み応えがありますね~。