プラトンの『国家』を読んだ。
学生時代、プラトンの著作をいくつか読んだ私は、ついにこの大作に挑んだ。プラトンといえば『国家』である。日本の高校生を経験した人であれば、倫理の授業でそう習ったはずだ。
この本、とにかく分厚い。岩波文庫で合計1000P超。一冊1200円もして、上下巻構成である。
しかし、私には自信があった。読める。必ず読み切れる。なぜなら、プラトンは易しい。読みやすい。そして面白い。『メノン』などはたしか1日か2日で読めた。
『国家』は見かけほど分厚くない!!
そこまでは記憶がある。
その後どうなったかはまるで覚えていない。
戦いに敗れたのだ。
それから数年間、『国家』は本棚の肥やしとなっていた。
だが、ついに、読んだ!
長い戦いだった……。一ヶ月近くかかった。
この本、プラトンの著作としては難解である。(とはいっても、たぶん近世以降の哲学書に比べれば難易度は低いだろう。)
中には過激すぎて正視に耐えない部分がある。配偶者は共有しろとか、支配者は私有財産を許されてはならないとか、子供は戦場に連れていけとか……。詩人は国家から追放しろとかも言う。おいおいおい、プラトンってこんなヤベー奴だったのか?
上巻の中盤あたりではかなり悩んだ。このまま読み進めるべきか否か。そうなると読書スピードが下がる。最初は一日に40P以上読み進められたのが、10Pぐらいしか進まなくなってくる。
だが、そこを乗り越えると、調子が出てきた。下巻の中盤あたりに差し掛かると、それは一昨日の話であるが、一日に50P以上読めるようになった。こうなると止まらない。私は帰宅すると、通勤カバンから本を取り出し、机の上に置いた。
翌日(つまり昨日)の朝、2,30ページを読む。頭をクリアにするためにコーヒーを飲んだら、落ち着いて読書ができなくなったので、愚にもつかないブログ記事を書いた。なんだ、「オススメのタブレット1選」で粘土板を作ろうってオチは?
ブログを夕方に書き終わって、再び『国家』を読み始める。ページ数にして200P近くはあったと思う。読み終わったときには深夜。日付が変わったところだった。風呂にも入らなかった。疲れてそのまま寝た。爽快感に包まれて。
これが、これがプラトンなのである。
感想
テーマは正義
この本は『国家』というタイトルであるが、テーマは個人の正義についてである。「正義の人だと他人に思われること」ではなく、正義それ自体がその人自身にとって得になるか?ということを論証したものだ。
「もしあなたがイクラを食べて透明人間になれるなら、絶対に温泉に行って異性の裸を覗きますよね!? 誰にもバレなければ、あなたはそのことによって少しも損をしないはずだ! だったら、正義であることじゃなくて悪いやつだと思われないことが重要なんじゃないですか!? なんなら、正義であるせいで、せっかく透明になっても覗きもできやしないのだから、正義なんて損するだけだ!!」
あなたなら、こういった主張をいかに論破するだろうか?(言うまでもなく、「私は覗きなんてしない!」なんてのはナシだ。大事なのはあなたがどうするかじゃない、みんながどうすべきなのかだ。)
プラトンは足がかりとして、個人の相似形としての国家についての分析を試みる。個人についての分析よりも、より大きい国家の分析の方が取り組みやすいだろうからだ。必然的に、これは国家論へとわれわれを誘うことになる。だが、この本はあくまでも個人の善についての議論であり、最後は、死後の世界を見てきた男、エルの物語で締めくくられる。
プラトンの予言
難題だけに、プラトンは時に必ずしも明白ではない論理構成を取ったりする。現代人からすれば「本当に?」と言いたくなる部分も少なくない。ただし、これはプラトンが真摯に論理的な弁証を試みているからこそ、見えてくる粗であるとも言える。不誠実な人は自分の主張でしかないものを証明不要の真理かのように見せてくるものだろうし、それゆえにうっかりすると「本当にそうか?」と疑いを差し挟むことができなくなってしまう。
だが、彼の洞察は極めて鋭いことが未来人である私たちには分かる。
たとえば、ソクラテスが独裁制について述べている場面で次のようなことが言われる。
僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ
彼がもし追放されて、そしてふたたび敵たちに抗して帰国するとしたら、そのときにはもう、すっかり僭主(独裁者)になりきって帰ってくるのではないかね?
ナチスドイツを、ヒトラーを知っているわれわれは、プラトンは彼にとって2000年以上先の未来で起こる出来事を的確に予言していたことが分かる。
これを見せられると、やはりプラトンを侮るなかれ!という気分になる。(ただし、『国家』は優生学的な側面もあるから紙一重の感はある。)
反論を試みることは容易かもしれないが、それでもプラトンの積み上げる論理には一定の説得力があって、読み終えた時には、正義を行うように努めよう、知を追い求めようという気になってくる。
詩人追放論について
上記のとおり、『国家』には現代の価値観では(というか当時の価値観に照らし合わせても)なかなか許容し難い主張が書かれている。特に詩人不要論に関しては、この大作のトリにあてがわれている。
だが、『国家』を通読すれば、受け入れられなくても理解はできる。この本は解説も充実している(なんせ脚注、補注、解説を合わせると100Pを超える!)から、なぜプラトンが詩人不要論というところにまで踏み込まねばならなかったのかが分かる。
古代ギリシャにおいては、詩人(物語を語る人)というのはなんでも知っている人だと思われていて、百科事典のような扱いを受けていたらしい。これは司馬遼太郎の小説を歴史書だと考えるようなもので、そりゃプラトンも物申さずにはいられないわけだ。
それにプラトンは感情に任せることを肯定するような悲劇や喜劇は人々を堕落させると説いているわけで、もしかしたら、たとえば『鬼滅の刃』のような現代の英雄譚はプラトン的にアリかもしれない。煉獄さんが死んで炭治郎が泣くのはプラトンさんブチギレ案件だろうが、それに対して猪之助が叱咤するのにはプラトンさんもニッコリだろう。猪之助も泣いてしまうのをどう判定するかは分からないが。
エモすぎる師弟愛
この『国家』自体、ソクラテスとその友人たちとの会話劇としての構成を取っている。ある意味では、これも叙事詩なわけである。そこにはたしかに感情を大きく揺さぶるようなドラマ性はないわけだが、しかし、なかなかどうして心を揺さぶるものがある。
ピークは巻末の解説にある。次の一文がエモすぎる。ちなみに、プラトンは幼少の頃からソクラテスと親しみ、プラトンが28歳の頃にソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」罪で死刑に処せられる。それを念頭に置いて読んでほしい。
このソクラテスの死によってプラトンが、自分にとってソクラテスという人間がいかなる存在であったかを、はっきりと自覚するに至ったこと、そしてそれとともにソクラテスの言行とその生き方死に方が指し示すものが何であったかを見きわめようという、あらがいがたく強い欲求が彼を動かし始めたこと、要するに、プラトンにとってソクラテスは、いまやその不在によって決定的に顕在するようになったことは、疑いないであろう。
なんだこれは。「ロードか!? いや、『ヒカルの碁』か!?」と書こうと思ったが、それすら矮小化に思える。
実在の人物、それも直接親しんだ師を主人公とした物語を書き続けるというのは冷静に考えるとなかなかクレイジーな所業だ。ソクラテスとプラトンの哲学にとって、対話こそが重要だったから対話篇を書くというのは分かる。しかし、主人公はソクラテスでなくてもいい。プラトン自身であってもいいはずだ。死んだソクラテスがどんなことを言っていたか書き残したいという気持ちは分かるが、プラトンの著作は20作以上にも及び、そのほとんどで主人公をソクラテスが務める。
考えてみてほしい。千鳥の大悟が志村けんの死後、志村けんとの思い出を再現した漫才やコントしかやらなくなったとしたら……。さすがに心配になってくる。狂気が滲んでいる。
いったいプラトンはどんな気持ちでソクラテスと自分の兄たちを会話させていたのか。プラトンのソクラテスへの愛が深すぎる。「プラトニックラブはBL!」とか言ってキャッキャしている場合ではない。
というわけで、かなりしんどかったが、読破した爽快感は格別な本であった。
とはいえ、『法律』は……ちょっと挑む気になれない。
私が選ぶ名場面集
内容を詳しく解説しようとは思わない。そんなことできる能力もないし、結論だけつまみ食いして『国家』を分かった気になるのは大間違いである。だいたい、大事なことは倫理の授業で習っているはずだ。それを覚えていないなら、要約の持っている力なんてのはその程度のものだということである。
というわけで、以下では個人的に響いた箇所を取り上げてみたいと思う。
EDって最高!
物語の冒頭、ソクラテスは老人ケパロスに老いはどのようなものか尋ねる。
ケパロスは、老いを嘆く老人たちを引き合いに出しつつ、彼らの嘆きの本当の原因は老いではないのだと述べて、次のソポクレスのエピソードを話す。
『どうですか、ソポクレス』とその男は言った、『愛欲の楽しみのほうは? あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた、
『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無常の歓びとしているのだ。たとえてみれば、凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの』
どんな質問やねんという感じだが、ソポクレス(ソフォクレスのギリシャ語読み。ちなみに、プラトンは正確にはプラトーンだし、ソクラテスはソークラテースだ。アリストテレスもアリストテレースだぞ。)の回答がイカす。
老人になって機能不全になったことで、むしろ欲望に溺れずにすむ。これが喜びでなくなんであろうというわけだ。
しかも、通読した後にこの部分を読み返すと、この台詞が極めて重要な意味を持っていたことに気づく。『国家』という作品がここに凝縮されていると言っても過言ではない。
ファスト&スロー?
ソクラテスが魂について次のように洞察する場面がある。
魂がそれによって理を知るところのものは、魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり、他方、魂がそれによって恋し、飢え、渇き、その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは、魂のなかの非理知的な<欲望的部分>であり、さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい
行動経済学の本を読んでいると、人間には理性を司る部分と本能を司る部分があるといった話がほぼ確実に出てくるが、それと似たようなことを語っている。早い。
最小限の変革
理想国家に至るために、何が必要かということの議論の冒頭で出てくる話。
「では、つぎにわれわれが探究して示さなければならないのは、思うに、現在もろもろの国において、われわれが述べたような統治のあり方を妨げている欠陥はそもそも何であるか、そして、ある国がそのような国制のあり方へと移行することを可能ならしめるような、最小限の変革は何かということだ。
これは哲学者が支配者にならなければならないという話と哲学者とはどのような人を言うかという話への導入部分であり、おそらく作品にとってそれほど重要な部分ではない。
だが、人が変革を求める時、往々にしてドラスティックなことを言いがちである。そこでは変わることが重視されて、変わらなくていいことは語られない。プラトン、あるいはソクラテスは、最小限の変革を考える。本当に何かを変えたいなら、実現可能性まで考慮に入れるべきだということだろう。(哲人政治が現実的かはさておき。)
支配されてくれ
哲学者が尊敬されない理由について述べた場面の一部。
たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ、一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ、ともね。ただし、役に立たないことの責は、役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって、すぐれた人々自身に問うべきではないのだと、命じてやりたまえ。(中略)一般に支配を受ける必要のある者はすべて、支配する能力のある者の門を叩かねばならぬというのが、ほんとうなのだ。いやしくも真に有為の支配者であるならば、支配者の方から被支配者に向かって、支配されてくれなどと願うべきではない。
あなたが無能扱いしている人は本当に無能だろうか?
選挙が近い。あなたが投票しようと思っている政治家は「支配されてくれ」と叫んではいないだろうか? おそらく叫んでいることだろう。「清き一票を」と。そうしない政治家は見つからないはずだ。民主主義の難しさがここにある。
最大のソフィスト、同調圧力
哲学者がめったに育たない原因であるところの、最大のソフィストの話。
彼ら大衆が国民議会だとか、法廷だとか、劇場だとか、陣営だとか、あるいはその他、何らかの公に催される多数者の集会において、大勢いっしょに腰をおろし、大騒ぎをしながら、そこで言われたり行われたりすることを、あるいは賞讃し、あるいは非難する(中略)このような状況のただなかにあって、若者は、諺にも言うように、『いったいどのような心臓(こころ)になる』と思うかね? 個人的に受けたどのような教育が、彼のために抵抗してくれると思うかね?
同調圧力の恐ろしさを語っている。同調圧力の威力もやはり行動経済学で語られるところの多いテーマだ。プラトンはそれをよく知っていたようだ。なるほど哲学者が王になれば国民を上手にコントロールできるかもしれない。
数字であそぼ。
真理に近づくためには、どのような学問が必要かを考える場面。
それならどのような学問が、グラウコン、生成するものから実在するものへと魂を引っぱって行く力をもっているだろうか?(中略)われわれが求めている学問は、いま述べた根本条件に加えて、そのための条件をも充たすものでなければならぬ(中略)戦士たちに無用のものであってはならぬということだ(中略)およそすべての技術も思考も知識も、共通に用いる或るものがある。これはまた、誰でもが最初に学ばねばならぬものだ(中略)数と計算ということになる。
なんと第一に挙げられたのが数学である! ちなみに、この後は、幾何、立体、天文学、哲学的問答法が続く。いちばん重要なのは哲学的問答法だと述べられるが、数学もかなり重視されていることが分かる。
近代科学の礎は数学にあるが、やはりプラトンは鋭い。プラトンが言うからには、数学を学べば知を愛する人に一歩近づけるに違いない。というわけで、かねてより買おうと思っていた数学の本を買った。
また、どのように学ぶべきかということについて、次のように述べている。
自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態において学ぶというようなことは、あってはならないからだ。(略)魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂の中に残りはしないからね
「勉めて強いるのが勉強だ!」と言っている人がいたら、「プラトンの『国家』を読んだことはありますか?」と尋ねてみよう!
『国家』を読んでいなかった頃の記事がこちら。