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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その39 ベン・ハー

 ローマに支配されるユダヤ人貴族のベン・ハーは、旧友であるローマ軍司令官に無実の罪で罰せられて奴隷となる。

 

 『ベン・ハー』は1959年の映画。監督は『我等の生涯の最良の年』『ローマの休日』のウィリアム・ワイラーアカデミー賞は11部門を受賞し、これが現在でもトップタイの記録。

長いことに価値がある

 長い。

 『ベン・ハー』は長い。上映時間212分。3時間半である。映画はOVERTURE、序曲から始まる。画面はミケランジェロの絵画の一部を写したまま動かない。音楽だけの7分間。

 大作は長い。いやむしろ長いことによって大作たりうるのかもしれない。『タイタニック』だって194分あるし。たしかに、オリンピックの開会式が5分で終わったら、オリンピックのお祭り感は失われるかもしれない。「無駄に長い」ということに価値があることを、『ベン・ハー』は教えてくれている。リッチな体験をしたければTiktokなんか見るな。『ベン・ハー』を観ろ。そういうことである。

 それでも「長すぎるのはちょっと……」と思うなら、上映時間ランキングを調べてみよう。

上映時間の長い3時間を超え映画ランキング50!最長は857時間?日本作品も多数! | しろくまはハングリー

 『ベン・ハー』はトップテンにも入らない。最長は857時間。もはや単位は日にした方がいい。『ベン・ハー』はコンパクトな小品だった。

友であり敵である

 『ベン・ハー』は支配する者と支配される者を描いた物語である。これ系には定番の設定があって、両者の間に友情が築かれ、しかし立場の違いが憎しみを生み出していくというやつだ。最近の作品では『コードギアス』や『RRR』なんかが挙げられる。

 物語は、ベン・ハーの住むイェルサレムへ、旧友のメッサーラ*1が帰ってくるところから始まる。二人は「変わってないねー」なんて言いながら、身分の差を超えた友情を確かめ合うのだが、それは前フリにすぎない。ローマに毒されたメッサーラベン・ハーに犯罪者を告発するよう頼み、断られるとベン・ハーに濡れ衣を着せて、彼の家族ごと刑罰に処するのであった。

 可愛さ余って憎さ百倍。ベン・ハーメッサーラへの復讐を誓って生きていくことになる。

赦しへの過程としてのレースバトル

 『ベン・ハー』といえば、まず思い浮かぶのが競馬のシーンだ。なんせサムネイルもパッケージもそこのシーンを切り抜いたものなんだから、事前情報なしでも『ベン・ハー』=競馬のイメージが植え付けられている。

 競馬と言っても現代のようなものではなく、4頭立ての戦車に乗って行うルール無用のデスマッチである。競争相手を殺したって構わない。元祖かは分からないが、完全に『遊戯王』とか『少林サッカー』とかあっち系のノリだ。

 ライバルは当然メッサーラ。彼の乗る戦車には、戦車を破壊するための武器が取り付けてある。そして、実際に他の戦車を破壊して回っていく。典型的な嫌な奴だ。

 対するベン・ハーは、そういう武器は使わない。なんなら馬を鞭で叩いたりもしない。正々堂々と、優しく戦う。典型的な主人公である。だが、ベン・ハーがダーティなプレイをしないのは、妨害がスポーツマンシップに反するからとかそういう理由ではない。

 『ベン・ハー』の副題は「キリストの物語」だ。物語はキリストが生まれるところから始まり、キリストが死ぬところで終わる。つまり、テーマは愛。罪を赦すことなのである。

 ベン・ハーは本当ならば殺したいほどにメッサーラを憎んでいたはずだが、殺害ではなく競馬でギャフンと言わせることを選んだ。キリスト信者の妻が愛を説いていたからだ。さすがに復讐を諦めることまではできなかったベン・ハーは、代替策としてレースに出場する。(私はこういう風に理解したが、シンプルに復讐の手段がそこにあったからレースに参加しただけかもしれない。)

 だが、結局これはデスゲーム。メッサーラは自爆して死んでしまう。最後に「復讐はこれで終わりじゃないぞ。俺を憎み続けろ。お前の母と妹は生きておるぞ。」と言い残す。

愛を超越する愛

 死んだと思っていた母と妹は業病を患い、隔離されていたのだ。不治の伝染病(作中ではたぶんそういう扱い)を患った彼女たちは、世間から隔絶されて暮らさなければならない。世間がそれを望むだけではない。彼女たち自身も、醜い自分の姿をベン・ハーに見せたくないと言うのだ。やっと会えると思ったのに、会うことができない。家族を思うベン・ハーの心からローマへの憎しみは消えようがなかった。

 人は愛ゆえに憎しみ合う。家族を愛しているからローマが憎い。ベン・ハーメッサーラの間にあった感情はさらに複雑で、それは憎しみであると同時に愛だった(そうでなければなぜメッサーラは死ぬまで呪詛を吐いたのか? メッサーラベン・ハーに忘れられたくなかったのだ)。ここでいう愛とはなにか。何かを求める心である。メッサーラが信じていたのは、ローマの偉大さだった。ローマの偉大さとは、偉大であることへの欲望である。偉大であるがゆえに、過ちも大きくなる。それが憎しみを呼び、憎しみは伝染していく。

 そんな折、キリストが磔刑に処せられる。ベン・ハーはかつて奴隷だった頃、自分を救ってくれた人がキリストであったことに気付く。十字架を背負って歩くキリストを追うベン・ハー。磔にされたキリストが死の間際に示したのはアガペーだった。エロスも家族愛もナショナリズムも、全てを超越した愛だ。ベン・ハーの憎しみは氷解していく。時を同じくして、家族の病も治るのであった。

 キリストの愛を描くために、憎しみを描く。憎しみを描くには、アガペーではない愛を描く必要がある。こうして織りなされた一大叙事詩が『ベン・ハー』なのである。

 そういえば……『もののけ姫』にも業病が出てきたし、醜い姿を見られたくないからベン・ハーに会わないと言う母と妹は『風立ちぬ』のラストを想起させるものがある。宮崎駿は『ベン・ハー』にけっこう影響を受けていたのかもしれない。

*1:字幕ではメッサラだが、『機動戦士Zガンダム』を履修済みの人間としてはこう書きたくなる。ていうか役者たちもメッサーラって言ってるし。