一昨日、『『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』第一章 猗窩座再来』と『国宝』を見てきたので、『国宝』についてまとまりもないままつらつら書いていく。
『国宝』を見に行ったのは、久々に実写の邦画が興行収入100億円を超えたというニュースがきっかけだ。こりゃ一大事じゃ、と半ば火事現場を見に行く野次馬の気分で見に行ったのである。
興行収入100億円。これはとてつもない数字だということをまずは語りたい。
現在、邦画の歴代興行収入ランキングを見ると、100億円超の作品は22作品ある。しかし、このうち14作品は2016年以降の作品なのである。
それまでに100億円を超えていた8作品のうち、5作品は宮崎駿の手によるものだ。残り3作品は『南極物語』と『踊る大捜査線』シリーズの1・2。
ほんの10年前まで、興行収入100億円は宮崎駿という超弩級の天才だけが超えられる数字だったのだ。
流れが変わったのが2016年。新海誠の『君の名は。』が『千と千尋の神隠し』に次ぐ大ヒットを記録。次回作である『天気の子』も100億円を超える。宮崎駿が去った後の映画界で先頭を走るのは新海誠になるのかと思われた。
宮崎駿じゃなくても興行収入100億円を安定して超えることはできる。これを証明した意義は大きい。一方で、「天才だけが興行収入100億円を超えられる」という点では、まだ状況は変わっていない。
決定的な変化が起きたのが2020年。そう、『鬼滅の刃』が『千と千尋の神隠し』を超えて興行収入記録を更新した年だ。これ以降、アニメは毎年、100億円を超える作品が出てくる。100億円超のうち11作品は2021年以降に公開された映画だ。このうち『すずめの戸締り』以外は、全てテレビアニメシリーズを映画化した作品だ。(『シン・エヴァンゲリオン』を除けば、原作は『名探偵コナン』か週刊少年ジャンプ作品のいずれかというのも特徴的。)
日本のアニメ映画は、完全にフェーズが変わった。天才しか100億円を超えられない時代から、人気アニメを映画化すれば100億円を超える時代に切り替わったのだ。
一方で、この流れに完全に取り残されていたのが実写映画だった。
というのが私の中で築き上げられてきたストーリーである。(ちなみに、たまにネットニュースで「映画『〇〇』が100億円を突破」みたいなのを目にして、「へ〜」と思って流す程度のあれなので、この大変革の裏で何が起きているかは全く知らない。)
そんな中で飛び込んできたのが『国宝』のニュースだ。実写も興行収入100億円が珍しくない時代に突入するのか? ともすれば、時代を変える一作になりうる。これは見に行かねば!という次第である。
実際、『国宝』はただ奇跡的に面白かったからヒットしたわけではないらしい。次の記事が分かりやすくて面白かった。
なぜ映画「国宝」は100億の壁を突破できたのか。日本映画の3つの「常識」を打ち破った覚悟(徳力基彦) - エキスパート - Yahoo!ニュース
簡単にまとめると『国宝』には三つの特異性がある。
- 上映時間がほぼ3時間
- テレビ局主導ではない。
- 制作費が10億円を超えている。
これが可能だったのは海外市場を見据えて作られたからで、それが日本市場でもヒットになったという皮肉。
新しい作り方で作られた映画は自ずと新しい映画になる、ということか。『国宝』に続く作品が出てきてもおかしくなさそうに見える。
さて、ここからようやく映画の中身の話をしていく。
このように、見る前から面白い『国宝』。どんだけ突飛な映画なのかと思いきや、中身は割と類型的に見えた。
映画のストーリーは、二つの柱でできている。
一つは、仕事をする者の狂気。もう一つは、友情だ。
世の中には仕事をする者の狂気を描いた作品がたくさんある。小説ならサン=テグジュペリの『夜間飛行』、漫画なら『スラムダンク』『ROOKIES』『バクマン。』、映画なら『ソーシャルネットワーク』『セッション』『風立ちぬ』とか。
狂気とはつまり、何らかの仕事を完成させるために、自分または他者に重大な被害を与えることを言う。
『国宝』においては、糖尿病で身体がボロボロになっても舞台を完遂しようとする横浜流星、吐血しながらも幕を閉じるなと叫ぶ渡辺謙あたりが分かりやすい。自分の身体を大事にしない、スポーツ漫画式の狂気だ。
他者に損害を被らせる狂気もある。役を得るために吉沢亮が好きでもない女を抱くのもそれだし、婚外子は狂気の被害者の象徴だ。ただ、森七菜は好き好んで吉沢について行ったわけだし、婚外子にしても婚外子だから不幸だったかは分からないし最後には吉沢の仕事を認めているわけだから、ここら辺の描き方はかなりマイルドだ。
その中にあって一番重たく響くのは人間国宝の「この部屋には美しいものがないでしょ。安心するのよ」みたいな感じのセリフではないかと思う。描写が少ないからこそ、想像の余地がある。
狂気の描き方がマイルドな中で、この映画を成立せしめているのが、吉沢亮と横浜流星の友情だ。
幼き頃から苦楽を共にしてきた二人が、主役の座という一つしかない宝物を巡って別れ、また結び付く。二人を結びつけているのは、表面上は友情だが、歌舞伎に対する狂気がうっすら滲む。
この二人の関係性を描く上で機能しているのが歌舞伎というモチーフである。歌舞伎は第一に舞台演劇である。演劇は「一つしかない主役の座を巡って役者たちが争う」という構図を作りやすいので、狂気を育てる装置として映画では扱われることが多い(気がする)。『イヴの総て』や『ブラックスワン』がそれだ。
話は逸れるが、これが映画だと話が変わってくる。映画は主役の座を誰か一人が独占するものではない。「映画スターになった!」「映画スターの座から引き摺り下ろされちゃった!」は極めて個人的な問題か業界全体がガラッと変わらない限りは起こりづらい。だから、映画を題材にした映画は時代の移り変わりを描いた作品になりやすい。『雨に唄えば』『サンセット大通り』『バビロン』『ラスト・ショー』などなど。映画と演劇は似て非なるものだということがなんとなく見えてくる。
話を戻すと、歌舞伎は伝統芸能であって、血筋がそれなりに大きな意味を持ってくるというのも重要なポイントだ。これによって、「才能はあるけど血を持たない主人公VS才能は劣るけど血を持つライバル」という関係性が生まれる。この対比が、主人公の才能の大きさを物語る。
ここから普通に(ロジックで)考えると、「才能がある主人公は、血筋のいいライバルに不当に負けるけど、なんやかんやあって才能が認められて主演の座を射止める」という筋書きになる。『雨に唄えば』なんかはまさにこのパターンだ。
ところが、『国宝』ではこれを逆転させている。
- 才能がある主人公が血筋の壁を超えて主演の座を射止める。
- パトロンが消えると主人公は退場、ライバルが表舞台に返り咲く。
- 再び主人公とライバルが共に並び立つ。
という順番になっている。
主人公とライバルの対立と友情を両立しているのは、この構造のおかげではなかろうか。
みたいな。
『国宝』がよくできた映画であることは確かだが、これまでの邦画とは決定的に違う革命的な面白さがあるわけではないように私には思える。まあそれは『鬼滅の刃』にも同じことが言えるけれども。
ではなぜ『国宝』が大ヒットしているのか? 私などに答えが出せるはずもないが、とりあえず考えてみる。
まず役者の熱演。特に、吉沢亮と横浜流星とかいう超絶イケメン。イケメンのくせに演技が上手い。どうなっとんじゃ。
映画を見るときに、「イケメンなら演技は下手であってくれ!」と願っているのは私だけではないだろう。「こいつが持て囃されるのは顔が良いから。演技はそんな上手くない」という目でイケメン俳優は見られがちである(に違いない)。演技の巧拙など分からないが、トム・クルーズやブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオよりも、ジョニー・デップやジーン・ハックマンやロバート・デ・ニーロの方が演技が上手いはずなのだ。元ジャニーズは当然として、福山雅治も山崎賢人も大根役者に決まっている。一方で、今作において田中泯の演技が圧倒的であることを認めるのにはなんの躊躇もない。今の田中泯はイケメン枠ではないからだ。
『国宝』でも、それを示唆するようなセリフがある。「顔に食われる」だかなんだか。この瞬間、主人公と吉沢亮が私の中で重なる。
そして間もなくテストが行われる。吉沢亮に求められるのは「すごい演技をする演技」。観客に「すごい演技だ!」と思わせれば吉沢の勝ちである。私は「すごい演技だ!」と思った。私は負けた。
そもそも、今気づいたが、御尊顔を白塗りで隠さねばならない作品に挑戦するということ自体、演技で勝負する覚悟の表れだ。こやつらはイケメンであることに甘んじてはいない。私の中で吉沢亮と横浜流星はすっかり実力派俳優に格上げされてしまった。
もし吉沢亮が住居侵入で通報されていなければ、私は映画館の座席で憤死していたかもしれない。イケメンで演技が上手なら、せめて人間的に重大な欠陥を抱えていてほしいものだ。
それから思ったのは、日本人はなんだかんだ言って和風が好きなのだ。過去に興行収入ランキングトップに輝いた作品を見てみると、『鬼滅の刃』『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』と和風み溢れる作品ばかり。たぶんこれから時代劇ブームが押し寄せると思う。
みたいなね。
余談。家で見ると3時間の映画って長いなって思うけど、映画館で見ると1時間半でも3時間でも大差ない。映画を見るためだけの空間って大事だと思う。