たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『チ。―地球の運動について―』の名言について

 どうも私は革命の物語が好きらしい。反体制と言ってもいい。強き者に抗う生き方が好きなのだ。

 好きなアニメは『少女革命ウテナ』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』。映画だと『ラ・ラ・ランド』や『セッション』が好き。別に強い奴らをギャフンと言わせる必要はない。自分が自分で納得できればそれでいい。

 革命は英語で言うとRevolutionだが、これは元々、天体の回転運動を指す言葉だった。それがコペルニクスの登場によって、政治的なコペルニクス的展開=革命をRevolutionという言葉で表現するようになった……なんて説もあるらしい。

 説の真偽はともかく、天動説から地動説への転換が革命的な出来事の象徴であることだけは確かだ

 さて、そんな地動説をテーマにした漫画がある。『チ。―地球の運動について―』だ。

 この作品の世界はC教という宗教団体によって支配されていて、異端は苛烈な拷問を受けたり処刑されたりしてしまう。C教では天動説(地球が世界の中心であり、すべての天体は地球の周りを回っているという考え)が教義とされており、そこに異論を呈そうものならすぐさま異端認定されてしまう。

 そんな世界で、真理を追求せずにはいられない者たちがいる。シンプルな法則によって無理なく説明される世界、その美しさに魅入られる者たちがいる。そう、この漫画は天動説の支配する世界の中で地動説を信じた人間たちの物語なのである

 この漫画、とにかく名言製造力がすごい。というわけで、私の胸に響いた名言の数々を紹介していきたい。

 

才能も発展も人生も、いざって時に退いたら終わりだ。

 このセリフを最初に言うのは、コルベという若い学者。同じく学者である少女ヨレンタを励ますために言ったものだ。女性であるというだけで白い目で見られていたヨレンタだったが、この言葉に支えられ真理の追究を続ける。

 結局、コルベはヨレンタを利用したいだけの悪い男であることが判明するが、大事なのは誰が言ったかじゃない。心に響いたかどうかだ。

 

この世は、最低と言うには魅力的すぎる。

 ヨレンタのセリフ。

 C教は「この世には辛いことが満ちているけど、天国に行けばめっちゃハッピー!」的な世界観の宗教だ。後半はともかく、前半は現代人にも理解しやすい。「この世は地獄だ」と思っている人は現代にも多数いるに違いない。

 ガリレオは言った。「宇宙は数学という言語で書かれている」と*1。この世界は複雑怪奇なようで、実は数学で叙述できる論理的に緻密でシンプルな法則によって動いている。表層でなく、裏で働いている何か、つまり真理に目を向ければ、目の前にある自然は美しい秘宝の詰まった宝箱に見えてくる。

 たぶん、そんな雰囲気の気分がこの台詞には込められている。世界は美しいと思いたくなる名言だ。

 

俺は今、満ちた金星が見たいってことです。

 学問とは無縁の男、オクジーの台詞。オクジーはこの世は地獄だと思っているだけの男で、地動説と天動説のどちらが正しいかなどは彼にとってどうでもいいこと……のはずだった。

 だが、地動説を確信している修道士パデーニやヨレンタと行動をともにしているうちに、彼は地動説が正しいのかどうかを確かめずにはいられなくなっている自分を見つける。

 ちなみに、史実では金星の満ち欠けを最初に発見したのはガリレオ・ガリレイである。なぜなら望遠鏡を初めて実用化したのがガリレオだからだ。ガリレオは天体観測によって地動説を支持する証拠をいくつか集めたが、そのうちの一つが金星の満ち欠けだった。漫画ではめっちゃ視力の良い人=オクジーが満ちた金星を観測するという筋書きになっている。

 なんで満ちた金星が地動説の証拠になるかというと、天動説と地動説とでは金星の満ち欠けのパターンが異なるからである。いわゆる天動説とはより正確に言えば、プトレマイオスの生み出したモデルなのだが、これでは金星は太陽の内側を回るものとされている。さらに金星は常に太陽の側にある(地動説で考えれば分かるが、地球から見て金星と太陽が反対の位置にあることはありえない。金星は地球より内側を回っているからだ)。ここから導き出される結論は、金星は満ちないということになる。金星が満ちていたら、天動説は少なくともなんらかの形で修正される必要がある。たぶんそういう話。

 

「ずっと前と同じ空を見てるのに、少し前からまるで違く見える。」

「だろうな。」

「え?」

「きっと、それが何かを知るということだ。」

 満ちた金星を観測した直後のオクジーとパデーニの会話。知とはどういうことかを端的に示す名場面。

 極めて俗っぽい最近流行の言い方をすると、知ることで解像度が上がるというわけだ。勉強のモチベーションを上げたい時に読み返そう。

 

「積み上げられた研究は、こんな一瞬で否定してよい物ではないッ!」

「では、もし…積み重ねた研究を一瞬で否定する力があって、個人の都合や信念を軽く越えて、究極に無慈悲で、それ故に平等な、そんなものがあるとしたら、それをなんと言うと思いますか?」

「そっそんなもの…それは…………それは…真理だ。」

 完全な天動説を目指して研究を続けてきた老人ピャストがオクジーによる金星の観測結果にブチ切れるシーン。

 人間の想いなどとは無関係に、真理はただそこにあり続ける。見当違いの方向を探してしまった人間にとって、それは悪夢だ。しかし、見方を変えれば、真理は誰にとっても平等に存在し、時間によってさえ変わることがない。それは救いだ。

 悲しきピャスト伯に、朗報がある。ハーロウ・シャプリー曰く「理論は脆くも崩れ去るが、優れた観測は決して色褪せない」*2。老人が何十年もかけて蓄積した観測記録はパデーニへと受け継がれるのだ。

 

200年前の情報に涙が流れることも、1000年前の噂話で笑うこともある。そんなの信じられますか? 私達の人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。だけど、文字を読むときだけはかつていた偉人達が私に向かって口を開いてくれる。その一瞬この時代から抜け出せる。文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなの…まるで、奇蹟じゃないですか。

 オクジーから「文字が読めるって、どんな感じなんですか?」と問われたヨレンタの答え。

 文字は5000年前のシュメール人の様子さえも生き生きと伝えてくれる。文字がなかった5000年前の日本人が何を考えていたかはほとんど分からない。実用化に至っている最古のタイムマシン、それが文字だ。

 

つまり俺は、ちょっと前までは早く地球(ここ)を出て天国へ行きたかったけど、今はこの地球(かんどう)を守るために地獄へ行ける。

 オクジーはC教よりも地動説を選ぶことを決める。なぜなら、地動説はオクジーに感動を与えたからだ。オクジーにとって、その感動は命より重かった。宇宙の中心が地球なのか太陽なのかなんてことが、人をここまで感動させることができる。

 

「我々の敵はちんけな犯罪者じゃない。君が逃したのは全人類の敵かもしれんのだぞ。」

「……だとしても、「汝の敵を愛せ」この言葉に、僕は帰依してる。」

 任務を放棄した異端審問官が叱責されるシーン。

 C教の教義から導き出される主張に対して、C教の教義で切り返す。これだけでも十分なのだが、この台詞はさらにもう一捻りきいている。人は神を信じているのではない。神が与えてくれた感動を信じているのだ。オクジーと異端審問官は、遠いようで近い存在だ。

 

「つまり権威の中で生じる思考停止は、何も宗教だけじゃなく学問って物の中でも起こるんじゃないですか?」

「違う。――と言いたいけど、その通りかもね。私も何度も人を殺した。確かに真理を盾に暴力は加速し得る。もしかしたら私は地動説という権威を盲信し、部下は思考停止で従ってるだけかも。さらに悲しいことに、ある種それは必然で、つまり何かを根拠にしないと論理を立てられない人間理性の本質的限界として、思考すると常になんらかの権威が成り立ち、誰もその枠組みからは出られないのかもしれない。」

「…でも、信念を忘れたら、人は迷う。」

「迷って。きっと迷いの中に倫理がある。」

 これまでと少し毛色が変わる。

 地動説が天動説に取って代わるには何が必要だろうか? おそらく下の2つがありうる答えだ。

  • (暴力などの手段によって)パワーを獲得する。
  • 天動説以上の説得力で大衆を説得する。

 C教が力を持つ世界で地動説を布教しようと思えば、取りうる選択肢は前者しかない。いきなり後者に取り組めば、説得が完了する前に潰されるのがオチだからだ。地動説を信じる者たちが力を持とうとすると、物語は暴力の色合いを濃くしていく。

 「何が真理なのか?」という問題はここにきて、より現実的な意味合いを帯びてくる。暴力を肯定するに足る真理を、人は知ることができるのだろうか? 逆に、何らかの真理を信じることなしに、人は生きていくことができるだろうか?

 「きっと迷いの中に倫理がある」。これはより有名な言葉で言い換えれば、無知の知というやつだ。自分が何も知らないということを自覚してさえいれば、少しはマシな選択をすることができるかもしれない。

 義憤に駆られた時に思い出したい名言だ。

 

「夜空を見ると、感じるだろ。タウマゼインを。」

「タウマゼイン?」

「あぁ。それは―――古代の哲学者曰く、知的探究の原始にある驚異。簡単に言い換えると、この世の美しさに痺れる肉体のこと、そして、それに近づきたいと願う精神のこと。つまり―――「?」と、感じること。」

 『チ。―地球の運動について―』がどういう物語だったかがここに集約されている。

 宇宙の中心がどこかなんてどうでもいいと思うかもしれない。だが、そんなあなたにもあるはずなのだ。タウマゼインを感じる瞬間が。

 

 以上である。

 『チ。―地球の運動について―』の名言製造工場っぷりが少しでも伝われば幸いだ。

 そして、読んだことのない人は、ぜひ権威に臆さず真理を追究する登場人物たちの姿に感動を覚えていただきたい。その感動はあなたの中に革命を起こす……かもしれない。

 

 蛇足だが、補足しておくと、C教はあくまでC教であって、キリスト教ではない。キリスト教が地動説をめちゃくちゃに弾圧したということはないらしい。漫画を読むときにも「?」と感じることが大切だ。

 それに、天動説が地動説より信じられたのには理由がある。当時は地動説よりも天動説の方が全てを上手に説明できたのだ。地球が世界の中心だから物が地面に引き寄せられるし、地球が動いていないから我々は地球の動きを感じないし、恒星同士の位置関係も変わらない。プトレマイオスモデルなら惑星の逆行も説明できるし、何よりコペルニクスモデルよりもプトレマイオスモデルの方が惑星運動をより正確に予測できたのだ。地動説が天動説に勝っていた点は、シンプルであること以外にない。*3天動説が信じられたのはそれが現実を説明するのに最も優れた理論だからであって、当時の人間たちが馬鹿だったからでも、洗脳されていたからでもないのである。これを知ることによって、漫画の読み方が少し変わるかもしれない。きっと、それが何かを知るということだ(言いたいだけ)。