たぬきのためふんば

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その89 ブレードランナー

 奴隷として使ってたアンドロイドが反逆した!

 

 『ブレードランナー』は1982年の映画。監督はリドリー・スコット。脚本はハンプトン・ファンチャーとデヴィッド・ピープルズ。主演はハリソン・フォード

 ちなみに、今回見たバージョンはファイナル・カット。

 

 最近、一つの仮説が自分の中で生まれて色々と考えている。

 その仮説とは、「どんな物語も権力の移動を描いている」というものだ。ここでいう権力とは、文字どおりの権力に限らず、金や名誉などの人間にとって価値があるもののことを指す。恋人も権力の一つの形だが、恋人と金は強く結びついていることが多い。

 これに基づけば、権力の形、それが得られるのか失われるのか、初期ステータスの表現の仕方、権力が移動するきっかけ……などなどによって、ジャンルにとらわれずに映画を分類することができるかもしれない。あるいはジャンルの本質はどこにあるのかが分かるかもしれない。みたいなことを考えている。

 もしこの仮説が正しいとすると、「この映画における権力とは何なのか?」に注目すれば、その映画の本質が分かる。

 

 では『ブレードランナー』における権力とは何かといえば、支配権だ。誰かが誰かを支配する権利、まさに権力そのもの。これを巡る戦いが『ブレードランナー』なのだ。

 具体的に見ていこう。権力を持っている側(=人間)は、レプリカントと呼ばれる人造人間を支配して使役している。

 最新のレプリカントであるネクサス6は、人間並み、あるいはそれ以上の高度な知性を持つがゆえに、時間が経つと感情を持ってしまう。感情はロボットには不要なので、レプリカントは感情を持つ頃である4年目に寿命を迎えるよう設計されている。バッファのないギリギリを攻めた設計だ。

 結果、おませなレプリカントたちは、寿命間際になると感情が芽生える。人間より優れた存在が、感情を持ち、人間に支配されていれば、反逆が起こるのが必然だ。レプリカントたちは、より長い寿命を求めて、つまりは自由を求めて設計者であり生みの親であるタイレルの元へ向かう。

 ……という形で、『ブレードランナー』では、権力を巡る戦いが繰り広げられる。

 これは要するに、支配者と奴隷の戦いだ。つまり、『スパルタカス』や『波止場』をSFの味付けで描いた作品が『ブレードランナー』と言っても、大きくは間違っていないだろう。ただし、SF的味付けのおかげで、『スパルタカス』では描けないものを描くことに『ブレードランナー』は成功している。

 

 誰かが誰かを支配する構造が最も明確に浮かび上がるのが、奴隷制の社会だ。『スパルタカス』はまさにこれを題材にしている。現代の民主主義社会においては、たぶん奴隷制は存在しないことになっているため、奴隷制を描こうとすると歴史物にならざるをえない。歴史物が悪いわけではないが、もっと別の選択肢が欲しいときもある。

 現代的なモチーフとなると、労使関係が分かりやすい。企業は国家ほどの権力はない(たとえば刑罰を執行することはできない)が、やはり労働あるところに権力関係がある。これを題材にしたのが『波止場』だし『モダンタイムス』だ。歴史物に比べると暴力性は劣るが、観客が我が事として考えられるというメリットがある。

 さて、『スパルタカス』や『波止場』を観る時、ほとんどの人は支配される側に同情しながら見ている。支配する側に対して共感する人は極めて稀だろう。

 では『ブレードランナー』ではどうだろうか。観客はやはり、雨の中で涙を流すロイ・バッティに対して同情し、レイチェルを救ってあげたいと思うデッカードの気持ちを理解するのではないか。

 だが、それと同時に、相反する別の感情も抱くに違いない。人間より優れたレプリカントが人間と同じように生きられるようになったら、人間はレプリカントによって支配されてしまうのではないか?という恐れの感情を。これは『スパルタカス』におけるローマや『波止場』におけるギャングの立場の人間が抱く感情だ。

 歴史上、奴隷を行使する側がマジョリティになったことは、たぶんない*1。たいていの場合、大衆はいつも奴隷に近い立場に立ってきた(少なくとも気分的には)。だが、もしかしたら、未来には大衆が奴隷を使役する状況が発生するかもしれない。

「あなたは使役する側として奴隷をどう扱いますか?」

 この問いを立てられること、そして投げかけられることに、SFの強みがある。

video.unext.jp

*1:みんなで少数の奴隷を共有して使役する社会が存在したとしたらありうるか。