これは尋常でなく面白かった。
『三体』のように壮大なスケールで繰り広げられる話ではない。宇宙どころか世界、それどころか町からすら出ない、現代日本の片隅で起きていることを描いた作品である。
『葉桜の季節に君を想うということ』のように人が死んだり、どんでん返しがあったりするわけでもない。エンターテインメント性を高めるための仕掛けは乏しい。純文学である。
にもかかわらず、極めて面白い。純文学好きはそんなの普通のことだと思うかもしれないが、私にとっては衝撃であった。
「コンビニ人間」という文字からは、何か無機質で冷たいマニュアル人間みたいなものが連想される。ということは、そうした人間を生み出してしまうコンビニ、ひいては資本主義をそれとなく糾弾する小説なのだろう。そんな印象を抱いていた。予想は裏切られる。私の発想は、凡人の発想だった。
いきなりだが、私がシビれたシーンを紹介したい。場所はコンビニ。主人公が白羽という新人アルバイトを指導する場面だ。
「白羽さん、さっき頼んだフェイスアップなんですけど、まだ終わってないんですか?」
「いや、あれで終わりですけど?」
白羽さんがマニュアルから目を離さないので、私は近づいて元気な声を出した。
「白羽さん、まずはマニュアルよりフェイスアップです! フェイスアップと声かけは、基本中の基本ですよー! わからなかったら一緒にやりましょう!」
私は億劫そうな白羽さんを再びパック飲料の売り場まで連れて行き、よくわかるように、説明しながら手を動かして商品を綺麗に並べ直して見せた。
「こうやって、お客様に商品の顔が向くように並べてあげてくださいね! あと、場所は勝手に動かさないで、ここが野菜ジュース、ここが豆乳と決まってるんで……」
「こういうのって、男の本能に向いている仕事じゃないですよね」
白羽さんがぼそりと言った。
「だって、縄文時代からそうじゃないですか。男は狩りに行って、女は家を守りながら木の実や野草を集めて帰りを待つ。こういう作業って、脳の仕組み的に、女が向いている仕事ですよね」
「白羽さん! 今は現代ですよ! コンビニ店員はみんな男でも女でもなく店員です! あ、バックルームに在庫があるんで、それを並べる仕事も一緒に覚えちゃいましょう!」
ここだけ読んで、お分かりいただけただろうか?
この新人アルバイトの白羽という男、30代で貯金もないフリーターのくせに妙にプライドが高くて先輩の言う事を聞かず仕事をサボるどうしようもない奴なのだ。私だったらキレてしまいそうだが、主人公の心は凪である。なぜなら主人公は「無機質で冷たいマニュアル人間」だからだ。
カッコいい……。
仕事をしているとイライラする場面は毎日何回も訪れる。そういうときでも冷静な人間はデキる人って感じがしてとても格好いい。
矛盾するようだが、クールなキャラクターはダサいことも多い。作者がクールを履き違えていてわざとらしいキャラクターになりさがっていることもあるし、本当の自分を押し隠そうとしているダサい奴として描かれることもある。
ところが、この小説の主人公は自然体だ。漫画の中のクールなキャラはたいてい、風にマントをなびかせて「アデュー」と言い残して去ったりするものなのである(?)。「あ、バックルームに在庫があるんで、それを並べる仕事も一緒に覚えちゃいましょう!」なんて言うクールキャラはいない。これはチュートリアルに登場する元気なお姉さんキャラのセリフである。にもかかわらず、クールキャラとして成立している。クールキャラの革命だ。だが、これこそが真のクールだと私は思う。
しかも純文学となるとなおさら、こういうクールな主人公はめったにいない。……と断言できるほど私は純文学を読んでいないが、これまで私が読んできた純文学にはこんな主人公は一人もいなかった。みんなクール気取りのダサい奴(気取っているのが作者の場合もある。)か、やたら繊細で感傷的なウジウジした弱虫かのいずれかである。そして私はそういう奴らが大嫌いなのだ。
私の中で純文学史上最も好感度の高い主人公。これほど愛すべき主人公はそうそういない。「無機質で冷たいマニュアル人間」の何が悪いのか? コンビニ人間、最高ではないか。
ストーリーラインは純文学でよくある構成だ。
- 主人公は世間ズレしている。
- 危うさを抱えながらもなんとか居場所を見つけている。
- 居場所に怪しい影が忍び寄る。
- 主人公は居場所から弾き出される。
だいたいこんな感じのイメージ。『推し、燃ゆ』なんかもこれ。『劇場』もそうだった。『雪国』も『三四郎』もこれだ。あらすじを思い出せない作品群もそうだったのかもしれない。
また、主人公は二つのコミュニティに属している。
A:コンビニ
B:元同級生の集まり
Aを特異なコミュニティ、Bを世間を象徴するコミュニティとすると、これも純文学ではよく見られる構成だ。
『コンビニ人間』の主人公はBから排除されそうな気配を感じたので、対策として白羽と同棲を始める。それまで男の気配がなかった主人公の変化に、周囲は色めき立つ。結果、なんやかんやあってコンビニを出ることになる。要するに、世間に迎合した結果、特異なコミュニティにはいられなくなってしまうという展開だ。これもたぶんよくあるやつである。
主人公はそもそも世間ズレしているわけだから、Bは心地よくない。本当に大事なのはAなのだ。
『コンビニ人間』が面白いのは、Aにコンビニという「システム」を持ってきたところだ。コンビニに集まる「人の集団」ではないところがミソ。コンビニスタッフの入れ替わりは激しい。主人公が働き始めた頃の仲間は一人として残っていない。人間だけではない。商品だって制服だって小物類もあらゆるものが少しずつ入れ替わっている。それでもコンビニはコンビニであり続ける。行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、というやつである。
逆に言えば、コンビニにとって主人公は代替の利く部品でしかないということだ。これはコンビニに限ったことではなくて、現代では至るところにこういうシステムが存在する。一方で、現代の民主主義社会においては、一人ひとりの人間が何物にも代えがたい存在であるとする個人主義が最も重要な価値観としてそびえ立っている。人を代替の利く部品として扱う資本主義の論理は、個人主義の立場からは冷徹に思えるし、それゆえに批判的に描かれてきたに違いない。
ところが、である。主人公にとっては、むしろその冷徹なシステムこそが救いなのだ。使える部品である限り、コンビニは主人公を受け入れてくれる。同じ制服を着て、マニュアルに書かれた任務をこなしている限り、コンビニ店員は誰もが平等。一定の生き方や価値観を強要してくるのにそれをマニュアル化してくれない世間より、ずっと分かりやすくて優しい世界がそこにある。
救いは人の温もりの中にあらず。人の温もりというのは曖昧で気まぐれだ。それが良いという人もいるかもしれないが、そういう人ばかりとは限らない。コンビニはいつだって涼しくて心地が良い。
上述のとおり、主人公は白羽と同棲を始める。私の経験上、小説でこういう展開になったら十中八九、肉体関係か恋が始まる。しかし、『コンビニ人間』は、選択肢として提示した上で、それを拒絶する。ゆえに生臭さがない。コンビニのような清潔感がこの小説にはある。
主人公がコンビニに惹かれる気持ちが、私にはよく分かる。働くのは人生を削られて不愉快だし、健康にも精神にも良くない。けれど、仕事さえこなしていれば居場所があるという安心感は間違いなくある。もし仕事をしていなければ、私はどうやって社会と関わりを持てばいいのか、構成員の一人として認めてもらえるのか分からない。私がまだ働いている最大の理由だ。もちろん個人と職場の相性はあって、職場から排除されてしまう人間は出てくる。そんな人間のために、この世には多様な職場が存在する。就活はしんどいけど……。ついでにいえば、学力ですべてが決まる受験は、就活がない分もっと冷たくて優しいシステムだったなと思う。人の温もりってのはそんなに良いもんじゃないし、システムの冷たさってのは言うほど悪いもんじゃない。これは万人にとってそうであるはずで、そうでなければ現代はこういう形になっていないはずだ。
文学において、「世間」と対立することはよくあることだ。問題は、何を「世間」とし、何を「本当に大切なもの」とするか。『コンビニ人間』は、文学で重要とされてきたもの(=人の温もり)を世間とし、文学が否定あるいは無視してきたもの(=システムの冷たさ)を本当に大切なものとして対置している。これまでのつまらない純文学の後頭部を鈍器で殴り付けるような爽快さがある。(繰り返すが、これはあくまで純文学をさほど読んでいない者の感想である。)このような作りにできたのも、主人公のキャラクターあってのものだ。
魅力的な主人公がいると、純文学はこんなにも面白くなる。そのことが私にはとてつもない衝撃だった。