たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『ルックバック』

 映画『ルックバック』を観た。

 青春映画で最も血が滾るのは、狂ったように練習する場面。ただの練習ではいけない。それは世間に背を向けることでなければならない。少なくとも、漫画や映画の中では。だから『セッション』において、主人公は手から血が出ても練習を続けるし、フレッチャーは主人公を殴るしドラムを投げる。『ルックバック』でも、スケッチブックが積み重なっていくにつれ、主人公たちは世間から隔絶されていく。肝心なのは狂気だ。

 もちろん世の中には一般的な価値観を維持しながらクレバーに努力してなんら世間に恥ずることのない人生を歩んでいる人も多数いるに違いない。だけど、一般ピーポーはそんなものは見たくない。天才には何か俗世的なものを犠牲にして生きていてほしい。そうあることで救われる気がする。努力すれば夢は叶うんだと信じたい。自分の夢が叶わなかったのは努力しなかったから、つまり自分にとっての幸せは別にあったからだと思いたい。狂気を帯びた天才は、凡人に赦しを与える。

 狂気を支えるのは怒りだ。自分より才能のある人間に対する嫉妬。自分を認めない世間への憎悪。裏を返せば、満たされることのない名誉への欲望。誰より人間を嫌っているのに、誰よりも人間を求めている。

 だから、こういう狂気に囚われた人間の物語は、必然的にラブストーリーに近い構造を形成していく。『ルックバック』なら京本、『さよなら絵梨』なら絵梨のようなキャラクターが配置されることになる。これらの人物は境界線付近にいた主人公を狂気の世界へ誘う役割も担っている。

 といっても、本当に大切なのは、無名のモブキャラの賞賛ではない。サブキャラクターからの承認ですらない。結局、走ってきた道を突き進むこと、それ自体が目的なのだ。そうでなければなぜ漫画や音楽みたいな博打を打つ必要があるのか? そのことに主人公自身が気付いた時、映画にクライマックスが訪れる。

 

 ……という、まるで初めて『ルックバック』を見たかのような感想を書きたくて仕方なくなった。原作どおりなのに原作以上に胸が熱くなったのは、良い映画だったからか、それとも自分自身の変化によるものか。たぶん両方かな。

 『さよなら絵梨』もよろしくお願いします。