たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

1939年のクーデレ映画『ニノチカ』

 『ニノチカ』は1939年の映画。監督はエルンスト・ルビッチ。脚本はチャールズ・ブラケットビリー・ワイルダーワルター・ライシュ。主演はグレタ・ガルボとメルヴィン・ダグラス。

 

 『ニノチカ』はクーデレ萌え映画である。

 ニノチカというのはヒロインの愛称。ニノチカことニーナ・ヤクショーバは、ロシアの大公女がかつて所有していた宝石を巡る裁判を戦うために、ソ連から派遣されてきた特別全権大使である。ソ連の役人がパリで大公女の宝石を売って金にしようとしていたところ、当の大公女がそれを見つけて所有権を主張し訴訟に至った次第である。

 ニノチカと出会うのは、大公女の代理人であるレオン伯爵。彼はニノチカが自分の敵であるとも知らず、パリの街に似つかわしくないお硬い彼女にハートを射抜かれてしまう。

 レオンはニノチカをジョークで笑わそうとするが、ユーモアのセンスがない彼女はニコリともしない。漫才ではボケが笑わないことが肝心だ。ツッコミ役のレオンは徐々にキレていくが、最終的には彼の天然が炸裂し、ニノチカ吹き出してしまう。このボケとツッコミが鮮やかに入れ替わる漫才の構成は、さや香を彷彿とさせる(ということにしておく)。

 結局、ニノチカはレオンにぞっこんになる。二人の関係は社会的立場により引き裂かれてしまうが、最終的には再会を果たす。ちゃんちゃん。

 ともかく、『ニノチカ』の見所が、鉄面皮の美女が笑う瞬間にあることは間違いない。これは日本のアニメで言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』における綾波レイの「笑えばいいと思うよ」シーンに相当する。最初はクールだったキャラが徐々にデレていくのに萌えることをクーデレという。クーデレの源流がどこにあるのか私には分からないが、遅くとも『ニノチカ』の時点で現象としては発見されていたようである。

 クーデレのヒロインは通常、常軌を逸したクールさを持っていなければならない。だから、クールであるのには理由があることが多い。主人公の母の肉体をベースにした人造人間であるとか、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースであるとか、何度も悲劇の人生を繰り返して友人の死を見届けてきた過去を持つとか……。

 ニノチカの場合は元軍人の共産主義者であるのがクールさの理由になっている。なんだか上に挙げた例に比べると弱い気もするが、下の方程式を成り立たせることができれば理由なんてなんでもいいのだ。

  1. ヒロイン=クール
  2. X=クール
  3. ヒロイン=X

 軍人というのは過酷な状況でも冷静な判断ができないといけない。つまり有能な軍人というのはクールなものなのだ。少なくともそういうイメージがある。

 さらに、共産主義者は一部を除けば貧しいわけだが、そこには自ら望んで貧しくなっている面もある。誰もが平等であるためには、自分だけ豊かでいてはいけない。笑うことは豊かなことなので、豊かさの対極にいる共産主義者にはクールなイメージがある。

 当時はソ連が成立して間もない時期だったから、共産主義者は新しくてホットな人物像だった(クールなのに)。

 ここで、現代ならどんなXが新しくてホットであろうかと考えてみよう。

 一つの解としては、柳井正がありうる。株式会社ファーストリテイリング代表取締役社長である柳井正には厳格な人物のイメージがある。そして、ファーストリテイリングは世界一のアパレル企業に上り詰めようとしている。ホットでクールだ。

 では柳井正をヒロインにした映画は良きクーデレ映画になりそうだ。実はそれに似た映画はすでにある。『プラダを着た悪魔』である。二番煎じであることを承知で映画製作に取り組むなら、タイトルは『エアリズムを着た悪魔』か……。ありかもしれない。

 

 ここではたと気付く。

 ニノチカは貧しいからクールなのであった。一方、柳井正は金持ちであるからクールなのであった。つまり、富の尺度で言えば両極にある二人の人物が、共にクールだというわけである。ということは、クールの反対=デレ=笑いは、貧しさと豊かさの中間にこそ存在する、ということが言えるかもしれない。