たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『ジュラシック・パーク』

 『ジュラシック・パーク』を観た。

 

 『ジュラシック・パーク』は1993年の映画。監督はスティーブン・スピルバーグ、脚本はマイケル・クライトンデヴィッド・コープ。主演はサム・ニールローラ・ダーンアカデミー賞は音響編集賞、録音賞、視覚効果賞を受賞。当時の世界興行収入を塗り替えた。

 ちなみに、同年のアカデミー賞で作品賞・監督賞・脚色賞・作曲賞・美術賞・撮影賞・編集賞を受賞したのは『シンドラーのリスト』だ。これら二作品で受賞可能なのに取り逃したのは俳優部門とメイクアップ賞と衣装デザイン賞だけである。

 

 『ジュラシック・パーク』はモンスター映画だ。だが、『キングコング』や『ジョーズ』に比べると特徴的な部分がある。

  • 天国から地獄への転換
  • モンスターの多様性

 

 モンスター映画(というかすべての映画)の基本は領域の侵犯にある。人間がモンスターの世界に足を踏み入れるか、モンスターが人間の世界にやってくるか(後者であっても前提に前者がある場合が多い)。となると、おどろおどろしい世界に侵入するか、日常が地獄に変わるか、普通のモンスター映画はこの二つに分類される。たとえば、『キングコング』は前者だし、『ジョーズ』は後者だ。

 ところが、『ジュラシック・パーク』は、このセオリーから外れる作りになっている。「ジュラシック・パーク」は滅んだはずの恐竜が闊歩する一種のサファリパーク。恐竜好きにとってはパラダイスだ。ところが、何らかの理由で人間のコントロールが効かなくなり、夢の世界は地獄へと様変わりする。モンスターが人間の世界に侵入してくるのは、日常が地獄に変わるパターンだが、それよりもさらに落差が大きい。当然、恐ろしさもそれだけ大きくなる。

 なぜこのようなことが可能なのか。必要な条件は二つある。まず、モンスターの世界は、人が夢見てきた世界であること。もう一つは、モンスターの世界が人間の制御下にあること。そして、後者の条件が破綻した瞬間に、天国は地獄へと変わる。

 『ジュラシック・パーク』では、人間たちが恐竜の世界に侵入してしまったためにトラブルが起きる。だが、『ジュラシック・パーク』での領域侵犯とは、人間が恐竜の世界に足を踏み入れることではない。恐竜の世界は人間が生み出したものだからだ。人間が生み出した世界を人間の世界と分離して考えられるかというと、それは難しい。だから、『ジュラシック・パーク』で本当に侵される領域というのは、恐竜の世界ではなく、神の領域なのだ。「生命を生み出し、支配する」という神の領域を侵すことへの恐怖が『ジュラシック・パーク』の根底にはある。

 他作品と比較してみると、最も近いのが『ソードアート・オンライン』だと思う。あれはまさに天国から地獄への転換があるし、上述の二つの条件も満たしている。ただし、『ソードアート・オンライン』には、世界との間に領域侵犯がない。この点が『ジュラシック・パーク』との大きな差異を生み出している。『チャーリーとチョコレート工場』もよく似ている。あれは要するに、ウィリー・ウォンカが実はモンスターだったという映画だ。だが、主人公は領域侵犯をしない(賓客のままであり続ける)という点がやはり『ジュラシック・パーク』との根本的な差となっている。やはりモンスター映画は、領域侵犯こそが肝なのだ。

 

 もう一つの『ジュラシック・パーク』の特徴として、モンスターの多様性がある。

 『キングコング』『ジョーズ』『エイリアン』『ゴジラ』『ザ・フライ』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『グエムル』などなどを見渡してみると、だいたいの作品は、主役となるモンスターがどんと大きな存在感を占めている。『キングコング』にはキングコング以外のモンスターも出てくるが、あくまで主役を引き立たせるための前座にすぎない。

 ところが、『ジュラシック・パーク』にはそのような主役が存在しない。ティラノサウルスも危険だが、それと同じぐらいラプトルも怖い。恐怖の対象は、特定のモンスターではなく、恐竜というジャンル、というかジュラシック・パークという場。それゆえに飽きにくいし、クライマックスのあの展開が可能になる。

 もちろんこれは一長一短で、一点物で勝負する方がアピールポイントを際立たせやすいとかメッセージ性を持たせやすいとか色々あるだろう。『ジュラシック・パーク』方式で戦えるのは、既存のキャラクターを用いる場合に限られる気もする。

 

 もうひとつ、『ジュラシック・パーク』で特筆しておきたいのが、「びびって動けないガキ」の処理の上手さだ。

 限界的な状況において登場人物がやるべきことをできない、というのは映画などではよくあるシチュエーションだ。リアリティの追求だとか、人間性を描きたいだとか、なんらかの理由があって、こういう描写は差し込まれるはず。

 一方で、観客は登場人物にやるべきことをやってほしいものだし、それ以上に大事なのが物語のスピード感だ。「びびって動けない」は、ほぼ確実に映画のスピード感を殺す。スピード感を犠牲にした演出はストレスを生む。ストレスを生むこと自体が目的でないなら、その演出は機能しない。だから、私はこういう描写が大嫌いだ。

 この問題の解決策の一つは、「びびらせない」だ。これを好むのが宮崎駿。『もののけ姫』でタタリ神が現れた時、村の娘たちはどうしたか? 一目散に逃げ出したし、仲間が転んだらタタリ神に向かって刃を向けるのだ。宮崎駿が生み出すキャラクターの魅力の一つに勇敢さがある。

 これとは別の解を、スティーブン・スピルバーグは『ジュラシック・パーク』で提示している。「びびって動けない」をやるけど映画のスピードは維持する、だ。

 『ジュラシック・パーク』には二つの「びびって動けない」ポイントがある。

 一つは、ティラノサウルスに襲われた主人公と少年たち。命からがら逃げおおせた彼らは、木の上にしがみついている。いつまでもそうしているわけにはいかないが、少年は怖くて降りられない。ここで少年に合わせてもじもじしていると映画は破滅する。この点を分かっていないクリエイターが世の中には多すぎるが、スピルバーグは分かっている。彼は、少年の頭上から車を落とした。びびっていようが動かざるを得ない状況を作り出したのだ。おかげで、少年が動けずにグズグズしている時間は10秒にも満たない。

 もう一つは、ジュラシック・パークの本部を囲う柵にやはり少年がしがみついている場面だ。柵には本来電流が流れているはずなのだが、このときはたまたま電力供給が止まっていたため触れることができている。ところが、少年が掴まっていることなど知らない大人たちが、再び通電を開始させていく。それを察した主人公が少年に早く飛び降りるよう指示するのだが、やはりびびって飛び降りられない。さあ、今度は困った。なんせ柵に電流が流れるのがいつかは分からない。少年は動かざるを得ないことを認識できない。そこでスピルバーグはどうしたか? 答えは、「少年にも電流を流す」である。危機的状況にびびって動けないなら痛い目を見るのが当たり前。それを徹底するのがスピルバーグ。少年のために待ってあげたりはしないのだ。

 この二つの手法に通底するのは、びびって動けない間も事態を進行させ続けることだ。ここさえ守っていれば、「びびって動けない」はむしろサスペンスを高めるスパイスになる。というか、スピルバーグはそのためにびびらせているのだろう。登場人物がびびっちゃったから事態の進行をちょっと遅くしてあげるみたいなことは絶対にしてはならない(と私は思う)。

 

 ちなみに、この世のほぼすべての歌は三種類に分類できる理論によれば、『ジュラシック・パーク』は失恋ソングに分類できる。ここで歌われるのは、恐竜への愛。愛が暴走して傷つけ合い、破局してしまう。だけど恐竜との出逢いと別れによって、主人公は新たなスタート(=子作り)を切ることができる。そういう歌だ。

 

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