たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その61 パルプ・フィクション

 ギャングの若手が、嫉妬深いボスの妻の世話を任された。

 

 『パルプ・フィクション』は1994年の映画。監督・脚本はクエンティン・タランティーノ。主演はジョン・トラボルタ。アカデミー脚本賞を受賞。

 

 系列としては『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』に近いと思う。つまり、面白いシークエンスを見せるための映画であって、何か高尚なメッセージ性みたいなものはたぶんない。作中でもそのことが示唆されている(ような気がする)。仮にあったとしても、多くの人は読み取れないだろう。

 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の場合、主人公に困難な目標だけ用意すれば、後はただ多彩なアクションを見せれば良かった。

 アクション映画ではない『パルプ・フィクション』においては、それは成り立たない。もっと工夫が必要だ。この映画には工夫が詰め込まれている。

 中でも最も分かりやすい工夫が、時間操作だ。『パルプ・フィクション』のストーリーは時系列順に並べられておらず、それが驚きと感動を生む。

 が、ここではあえてそれをスルーして、『パルプ・フィクション』全体を通して使われている一つのテクニック(?)に言及したい。

事件とは他人の家で起こすもの

 『パルプ・フィクション』の全体に関わり、なおかつ『パルプ・フィクション』の面白さに直結しているもの、それはである。

 最初のシーンについて考えてみよう。

 ヤクザのジュールスとヴィンセントが学生の家に上がり込んでボスの宝を奪い返す。ヤクザと学生、両者の力の差は明白でバトルは起こらない。ジュールスが若者をたっぷり脅した末に射殺してこのシーンは終わる。

 銃は便利な道具だ。銃で人を撃つのは(映画の世界では)快楽だし、とりあえず銃を人に向けておくだけでサスペンスが生まれる。緊張感が高まるのは撃つまでの間なので、できるだけ長く緊張感を保つには銃を撃つまでが重要だ。 

 とはいえ、あまりに長い間、銃を構えていればダレる。脚本家の手腕が問われるのは、銃を取り出す前の場面だ。脚本家はいかにして緊張感を生み出すのだろうか?

 方法の一つが銃を持っていることを示唆することである。銃があることさえ分かっていれば、手に何も持たず喋っている時間は、銃を取り出す前段階に見えてくる。ジュールスとヴィンセントはヤクザなので、それで十分に銃の存在は示されている。

 だが、それ以上に重要なテクニックが、他人のテリトリーに上がり込むことである。人にとって究極のテリトリーは家だ。他人の家に上がり込むことこそ脚本家にとって最強のツールなのだ。

 ただ他人の家に足を踏み入れる。それだけでいい。あなた自身の経験を思い出してみよう。新興宗教の勧誘やNHKの集金のように、他人のテリトリーを侵そうとする存在はそれ自体が緊張感を生む。好きな女の子の家に訪問したりされたりするような平和的シチュエーションでさえ、緊張するものだ。「他人のテリトリーに足を踏み入れる」という行為にはそれくらいのパワーがある。たぶん、家主と侵入者が異質であればあるほど良い。

 これまで見てきた映画も振り返ってみよう。最も分かりやすいのが『キートンの大列車追跡』だ。主人公は敵の陣地に入り込んでヒロインを救い、帰還の途上で自分の陣地に敵が入り込んでくるのを防ぐ話だった。では『市民ケーン』は? ケーンの家に銀行家がやってくると、ケーンは母から引き離されてしまうのだった。『アパートの鍵貸します』は言うまでもない。『ジョーズ』も『バージニア・ウルフなんかこわくない』も『お熱いのがお好き』も、挙げていったらきりがないくらい多くの映画が、誰かのテリトリーに侵入したり、逆に自分のテリトリーに侵入されることによってストーリーが展開していくのだ。

 クエンティン・タランティーノがこれを意識していたのかは分からないが、『パルプ・フィクション』はとにかく他人の家に足を踏み入れる映画だ。

 学生の家、ミアの家、ランスの家、ブッチの家*1、質屋、ジミーの家、レストラン。これだけ多くの家に上がり込む映画がこれまであっただろうか? いや、ない。

 『パルプ・フィクション』は領域侵犯の映画であり、領域侵犯こそが物語の奥義なのである。

*1:これは踏み入れられる側だが