たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

春泥棒

 今回はヨルシカの『春泥棒』について語るよ。


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 まずは作詞者であるn-buna氏の言葉を引用しよう。そうしよう。

春の日に昭和記念公園の原に一本立つ欅を眺めながら、あの欅が桜だったらいいのにと考えていた。あれを桜に見立てて曲を書こう。どうせならその桜も何かに見立てた方がいい。月並みだが命にしよう。花が寿命なら風は時間だろう。
それはつまり春風のことで、桜を散らしていくから春泥棒である

n-buna

 

 私の仮説では、ほぼ全ての歌はラブソング・失恋ソング・応援ソングのいずれかに分類できる。では、『春泥棒』はどれに当たるだろうか……と考えると、非常に迷う。どれにも当てはまる気がする。

 何度でも書くが、ラブソング・失恋ソング・応援ソングの決定的な違いは視点にある。今を見ていればラブソング、過去を見ていれば失恋ソング、未来を見ていれば応援ソングとなる。今と過去を歌った歌が恋愛について、未来を歌った歌が夢について歌いがちなのは傾向にすぎず、絶対のルールではない。

 では、『春泥棒』はどれだろうか? この歌は要約すれば、桜を愛でて、桜が散るのを惜しむ歌である。だから、まずは桜が咲いている今を歌うラブソングである。これは間違いない。特に下記のくだりはラブソングに典型的な、表現不可能な愛を歌っている。

愛を歌えば言葉足らず

踏む韻さえ億劫

花開く今を言葉ごときが

語れるものか

 このフレーズが面白いのは、言葉を「ごとき」と罵っていることである。考えてみると、愛を言葉で表現できないということは、実際の愛の方が言葉によって表現される愛よりも大きいことを意味している。

 私は「表現不可能」を「比較」と分けて考えていたのだが、実は「表現不可能」は「比較」の中の一類型に過ぎなかったことに気付かされる。

 それはともかく、「言葉ごとき」と表現することで、言葉の地位が下がり、相対的に愛の地位が上がるという現象が発生する。

愛>言葉

愛>>>言葉

になるイメージ。

 ここで重要なのは、『春泥棒』の歌詞を読めば、作詞者が言葉を大切にしている人間なのは明らかだということだ。だから、「言葉ごとき」と表現しても言葉の地位が下がらない。ただ愛の地位が上がるのだ。

 面白い技法である。とはいえ、「言葉なんかじゃ伝わらない」ぐらいな言い回しならよく見る気がしないでもないから、「ごとき」を使うワードセンスこそがミソかもしれない。

 というわけでラブソングなのは間違いない。だが、桜が散る未来を見ているから応援ソングでもあると考えることもできる。「人生の短さ」について歌うのは応援ソングが多いし、『春泥棒』の大部分は「人生の短さ」で構成されている。

 ここでふと、「希少性」と「人生の短さ」が接近した概念であることに気付く。ラブソングにおいては愛の希少性が歌われる。それによって愛の重要さを語る。応援ソングでは人生の希少性を語る。それによって人生の重要さを語る。そして「だから夢を追おう」と繋がるわけだ。

 『春泥棒』では、ただ花の儚さを語る。「だからどうするべきか」を語らない。それゆえに、『春泥棒』はラブソングであると同時に、応援ソングたりうる。聴き手は、散る桜に愛する人を重ねてもいいし、自分自身を重ねてもいい。この多義性こそスピリット・オブ・俳句の本領である。

 一方で、桜が散る未来を見ているというのは、「桜が散ったら何しよーかなー」と考えているのではなく、「桜が散ってしまった悲しいなあ綺麗だったのになあ」と名残惜しむのを想像しているのである。つまり、想像している未来の中で、過去を見ている。ここに失恋ソングの風味が立ち上る。

 通常の失恋ソングであれば、様々な後悔や懺悔をするものだが、『春泥棒』ではそんなものは一切歌われない。この歌の全体を通して言えることは、作為がない。歌い手は、桜を見る以外のことは何もしない。ただ眺めるだけで、時間の流れに抗おうとしない。多くのアーティストは「努力すれば夢が叶う」式のフロンティアスピリットに縛られがちだが、ここにあるのはそれとは対極にある他力本願な仏教の精神である。ただただ世の無常を悟るのみだ。

 だからラストもあっさりしている。

はらり 今春仕舞い

 すべての花が散った瞬間、春が終わったと、すっぱり曲が終わる。ただそれだけのことなのだが、これが妙にカッコいい。あれだけ花が散るのを名残惜しんでいたのに、「今春仕舞い」という言葉には悲しみを引きずっている感じが一切ない。すでに未来を見ている人の姿が私には見える。

 ただそれは私が勝手に妄想しているだけで、ここでもやっぱり「春が終わったからどうする」は語られない。語られなくても、いや、語られないからこそ、聴き手が勝手に想像する。『春泥棒』はヨルシカと聴衆の共作なのである。