たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『おひとりさま天国』のMVが乃木坂46版『裏窓』だった件

 令和5年8月10日、乃木坂46の33枚目シングル『おひとりさま天国』のMVが公開された。


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背景

 今作は乃木坂46にとって重要な作品だ。

 前回は一期生、二期生のいない初のシングルだったが、今回はというと、井上和の初センターシングルだ。

 井上和は2022年2月にデビューした五期生の一人。乃木坂46五期生は87,852人の中から選ばれた11人。オーディションの応募者数が人材の質を担保するとすれば、歴代でもダントツの数字だ。一期生は38,934人、二期生は16,302人、三期生は48,986人。四期生は129,182人だが、これは坂道合同オーディション(欅坂とけやき坂との合同)だったので一概に比べられない(ちなみに、それぞれの後進である櫻坂と日向坂の現センターは坂道合同オーディションの合格者)。応募者数との因果関係は分からないが、乃木坂五期生には逸材が多い。

 例えば、YouTube上のMV再生数を持ち出してみよう。『好きというのはロックだぜ!』に収録された楽曲の2023/8/12現在での再生数は以下のとおり。

好きというのはロックだぜ!(表題曲):839万回

Under's love(アンダー曲):139万回

僕が手を叩く方へ(三期生曲):283万回

ジャンピングジョーカーフラッシュ(四期生曲):651万回

バンドエイド剥がすような別れ方(五期生曲):1085万回

 五期生オンリーの楽曲が表題曲を超えてダントツで再生されているのである。期別の人気以上に、そのときどきの楽曲やMVの作り等が再生回数を稼ぎやすいものになっているかという要因が大きいだろうから、あくまで参考ではあるが。(ちなみに私は『ジャンピングジョーカーフラッシュ』が一番好きです。)

 そんな五期生の中でも、圧倒的な人気を誇る*1のが井上和なのである。井上和を一言で表すならば、二面性だ。18歳とは思えぬ大人の色気を感じさせるが、ふとした時の表情は幼児のようにあどけない。歌声はクールなようでいて、隠しきれないキュートさがある。しっかり者なようでいて、抜けているところもある。こうした己の中にある相反する二つのものを、その場の必要に応じて自在に表出させることができる。アイドルになるために生まれてきたかのような存在、それが井上和なのである。

 誰もが乃木坂の次のエース(現エースと言ったって過言ではないが!)は井上和だと考えている。井上和は乃木坂の未来なのである。

 現在の地位を築き上げた一期生がいなくなり、売上も上昇するばかりでなくなってきているのが乃木坂46の現状だ。今の状態をキープできるか、また全盛期のような売上を記録できるか、それとも緩やかに表舞台から去っていくのか。その分岐点に立っている。

 乃木坂46にとって井上和はまさに至宝。大切に扱わなければならない存在だ(本当はみんなそうなんですけどね?)。32枚目シングルで運営は井上和を初めて表題曲メンバーに選抜し、裏センターと呼ばれる重要なポジションに置いた。新人をセンターに抜擢するのが大好きな乃木坂運営陣が、期待を表明しつつも慎重を期したのである。

 こうした流れの中でついに、満を持して井上和がセンターに抜擢された。乃木坂46の未来を占う一作になる。必然的に力のこもった作品になることが予想&期待されるし、ファンにとっても注目すべき作品なのである。

タイトルと歌詞

 この大事なシングルのタイトルが『おひとりさま天国』である。

 「重要なシングルなんだからもっとオシャレなタイトルにしてよ!」と思うのは凡人の発想だ。美味しいものを出せば料理屋が繁盛すると思っているタイプ。違う。この競争社会で生き抜くために必要なのは最高ではなく独自性なのである。

 乃木坂46が脱皮したことを世間に高らかに宣言するためには、タイトルでギョッとさせねばならない。ギョギョーッ! 必然、『おさかな天国』にあやかることになる。「ナナナ……」の「ナ」は「いのうえなぎ」と「おさかな」の「な」。そういうこと。

 歌詞の内容も(たぶん)これまでの乃木坂46にはなかったものだ。恋人ができた親友に裏切られた少女が、孤独なまま孤独を全力で肯定し、愛を否定する。晩婚化の進む時代を反映した、おひとり様の賛美歌。……のようでありながら、滲む怒りからは愛への渇望も感じられる。井上和の二面性がここに表現されている。

 珍しく一人称が「僕」じゃなくて、主人公が少女であろうことは、この曲が井上和のための曲であることを示しているのである。

MV

 して、ここからが本題。

 MVの内容である。MVは歌詞のディテールは放棄して、井上和と乃木坂46を表現することに注力している。

 最初のシーン。井上和がダンボールの積まれた部屋で一人退屈そうにしている。おそらくは地元から離れた場所で初めての一人暮らしを始めたばかりなのだ。

 彼女が住むことになったのは集合住宅。そこで彼女は隣人たちの部屋を覗き始める(という工程を「ダンボール箱を覗いたらワープしている」という謎展開で圧縮している)。

 ここで想起されるのがヒッチコックの『裏窓』である。『裏窓』は他人のプライバシーを覗く快楽をタネにした映画だ。アイドル(というか芸能人)はもっぱら覗かれる側の人間である。『裏窓』のヒロインがモデルだったことからも分かるとおり、芸能人は『裏窓』的覗きの快楽と切っても切り離せない職業なのだ。

 『おひとりさま天国』のMVは、そういった覗きの快楽に基づいて作られている。このMVを見て楽しいと感じている時、あなたはジェームズ・スチュアートなのである。

 井上和は他人の部屋を順々に覗いて回る。普通なら怒られるところだが、住人たちはむしろ井上和を歓待してくれる。なぜなら彼女たちはアイドルだからだ。アイドルとは自分のプライベートを公開していく生業なのである。

 もちろん、ここで見せているのはあくまで外向けのものであり、真のプライベートとは限らない。(事実、梅澤美波は乃木坂配信中のショート動画にてヨガなどしないと述べている。)彼女たちの部屋は商売道具、きれいな言い方をすれば才能と言ってもいい。彼女たちの部屋に生活感がないのはそのためだ。

 そして『裏窓』の主人公がそうであるように、井上和も覗かれる側に回ることになる。というか、おそらくそのために彼女は上京してきたのである(本物の井上和は神奈川県出身なので一人暮らしをしているか微妙なところだが)。

 このことを端的に表しているのが、住人たちから囲み取材を受けるシーンだ。あれはなんか楽しそうだから唐突にやり始めているわけではなくて、井上和のアイドル人生が本格的に始まったことを表現している。

 もう一つ挙げれば、遠藤さくらの部屋に入った時、井上和は何を見ているのか?に注目してほしい。部屋の中ではない。カメラである。芸能界に入りたての彼女には、カメラが物珍しいからだ(本物の井上和は子役上がりだけど、テレビカメラには馴染みがなかったのではなかろうか)。

 ここから翻って再び冒頭のシーンを見てみよう。部屋にはダンボール箱が積まれている。中の荷物はいずれ箱から出されて部屋を飾ることになる。すなわち、開かれていない段ボール箱は井上和のいまだ秘められている才能を表しているのだ。

 ところが、心象風景の中の井上和の部屋には何もない。彼女は自分には覗かれるに値するものが何もないと思い込んでいるのである。だから必死で他人の部屋を覗いて回る。だけど、どれもしっくりこない。色々背負わされた末、彼女は全てを脱ぎ捨てる。井上和は自分の道を行くことにする。この瞬間、何もない部屋は、彼女の前に広がる無限の可能性を意味するものに変貌を遂げるのである。

 そんな感じで、井上和の井上和による井上和のためのMVは、乃木坂46らしさ満点の作品に仕上がっている。

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新・乃木坂スター誕生!のススメ

 ちなみに、よりリアルに井上和、というか乃木坂五期生のアイドル人生のスタートを感じたい方には『新・乃木坂スター誕生!』を勧める。

 不安と期待のないまぜになった表情で歌う彼女たちの姿を見ていると、彼女たちはついこの間まで、ただ美しく生まれただけの一般人だったんだという当たり前の事実に気付かされる(すでに芸能界入りしていた子も五期生には多いけど、繰り返しになるがここまで華々しい舞台を経験してきた子はおそらく一人もいない)。もし自分が彼女たちの立場だったら……を想像せずにはいられない。

 眩しいライト、自分たちのために用意されたセット。うっすらとした闇の中で、百戦錬磨に見えるおじさんたちが走り回っている。自分が失敗すれば、彼らに迷惑をかけることになる。その時、彼らはどんな顔をするだろうか? そもそも、自分の歌は公共の電波に乗せるに値するだろうか? 家族やクラスメイトの目にはどう映る? 喜んでくれるか、それとも陰で笑うか……。逃げ出したい。でも、逃げ出せない。怖い、怖い、怖い……ふいに誰かが私の手を握

 そんな感じで、三十路超えのおじさんでも乃木坂46になったような気分になれる。そんな素晴らしいテレビ番組です。はい。

 この番組の面白いところは、最初は全員揃っていないことだ。

 乃木坂五期生は全員で11人だが、諸事情により、中西アルノと岡本姫奈が長いこと欠席する。中西アルノはデビュー直後に選抜センターに抜擢された運営イチオシの人材だ。そんな彼女がいない。

 それでも五期生には井上和、一ノ瀬美空、菅原咲月、小川彩、池田瑛紗、川﨑桜、五百城茉央、冨里奈央、奥田いろはがいる。つ……強い……。この中の誰が選抜メンバーになってもおかしくない。全員が生まれながらのスーパーサイヤ人。全員が覇気使い。全員が特級呪霊。この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば。

 そこに中西アルノと岡本姫奈の二人が帰ってくる。初登場で中西が披露したのは宇多田ヒカルの『first love』。上手い。卓越したテクニックがあるとか、声量があるとか、そういうんじゃなくて、この子の歌には心がある。完全に天才側の人間。(アルノの魅力に気付いたら『NHK俳句』を見よう。なんだか無性に興奮します。)

 湘北に宮城と三井が帰ってきた……。『新・乃木坂スター誕生!』は『SLAM DUNK』だった。

*1:要出典