探偵が浮気調査をしたら、調査対象が死ぬし、依頼人も偽物で、本物から訴えられた。
『チャイナタウン』は1974年の映画。監督はロマン・ポランスキー、脚本はロバート・タウン。主演はジャック・ニコルソンとフェイ・ダナウェイ。
1974年の映画だが、1941年の『マルタの鷹』の延長線上にあるような作品だ。私立探偵が事件に巻き込まれて奮闘するフィルム・ノワール。『マルタの鷹』の「監督」ジョン・ヒューストンが怪演を披露している。
これまでで最もしっかりとした普通のミステリーっぽい映画なので、今回はミステリーの作り方を考えてみたい。
事件
ミステリーに欠かせないもの。それは何を差し置いても事件である。事件に重要な要素は以下の二つだ。
- なぜ殺したか
- どう殺したか
他にも誰が誰を殺したかとか大事な要素はあるが、結局すべてはこの二つから導き出される、気がする。
なぜ殺したか
ミステリー映画の中の住人が殺しをする理由は、たいていの場合、金である。好きの反対は無関心とはよく言うが、嫌いだから殺すとか感情に基づくものよりもかえって残虐非道感が出るからではなかろうか。
問題は、金をどのような形で用意するかだ。もちろん現金という形のままであることもなくはないが、宝(たとえばマルタ騎士団が作った鷹の彫像とか)に変換されることも多い。現ナマより価値が高そうに見えたり、持ち運びしやすくできたり(あるいは逆に不可能にしたり)、他にも現金にはない色を付けられたり、といったメリットがある。
だが、『チャイナタウン』ではさらに別の形に変換されている。それはビジネスモデルだ。より具体的には、利権である。犯人は土地の価格操作を狙っている。舞台はロサンゼルス。砂漠に囲まれた海辺の街だ。犯人はダムを建設し、砂漠を緑地化することで土地の価格高騰を狙っているのだ。
被害者はこのビジネスモデルが成立することを妨げる人物である。水道局のトップである彼は、ダムの危険性を主張し、事業をストップさせている。
犯人が殺人などという手段に頼らずに計画を遂行するならば、世論に訴えかけることになる。というわけで、犯人は裏で手を引いて、貯水池を夜にこっそり放水させて人為的な水不足を引き起こしている。
他にも様々な裏工作が必要だ。土地転がしを実名でやるとあまりに露骨だから土地の買い占めは偽名で行う。偽名といっても全くの架空ではなく、実在する人物の名前を勝手に使う。(余談だが、奇しくも田中金脈問題が世に出たのは1974年のことだ。)
こうした様々な裏工作の末の最終手段として犯人は殺人に手を染める。
財宝を用意すると、物語は財宝の争奪戦が主眼になる。一方、利権を用意すると、利権を巡る構造を明らかにするという謎解き要素が加わってくる。『チャイナタウン』がミステリーっぽいミステリー映画に仕上がっているのは、それが大きな要因かもしれない。
どう殺したか
どう殺したかは、基本的に探偵が犯人を確定させるための鍵となる。「基本的に」と書いたのは、「なぜ殺したか」のみで犯人の断定に至るケースも多々あるからだ。ただ、それをやるとミステリーっぽくならないのではというのが私の感想。『夜の大捜査線』とか。
謎解きがミステリーの肝と考えると、ここが一番大事に見える。一方で、絶対にバレない巧妙なトリックを思い付くのはなかなかに難しい。
意外にも、ここはそこまで工夫を凝らさなくてよいところかもしれない。『チャイナタウン』の殺害手段はひどく単純なものだ。犯人は池に被害者を沈めて溺死させた後、貯水池に運んだ。ただそれだけである。
重要なのは、トリックの巧妙さではなく、テーマとの関連性とミスリードなのである。この点は後述する。
事件をどのように描くか
事件の全容が決まれば、あとはそれをどう描くかである。順番としては最初にボーダーラインを描いた後、核心から遠いところをスタート地点として情報を小出しにしていく。
『チャイナタウン』の場合だと次のような手順になっている。(ただし、3と4は一部順番が前後している。)
- 被害者は水道局のトップであり、説明会に出席したり、水にまつわる場所を巡った後に殺害される。
- 汚職の存在に主人公が勘付く。(ホームレスの死体&夜中の放水)
- 当局の嘘を暴く。(オレンジ畑を現地調査)
- 汚職の目的を突き止める。(土地台帳の確認&老人ホーム訪問)
ちなみに、これらのイベントごとにバトルが発生しており、それが映画的な面白要素になっているだけでなくて、主人公の動機作りや主人公とヒロインの関係性の進展に寄与している。
それはともかく、この先に犯人の断定がくれば、非常にスッキリとした構成になる。が、ここに一捻りを加えることで、映画をさらに面白く複雑なものにすることができる。(その代償に分かりづらくはなる。分かりづらくはなるが、パズルはちょっと難しいくらいが面白い。)
その一捻りというのがミスリードである。
映画の象徴となるものを一貫して用いる
どんな映画でもそうあるべきだが、映画には一貫する何かが必要だ。『チャイナタウン』の場合、それは水である。水をことあるごとに用いることで、ミスリードすることができる。
被害者は貯水池で死んでいるのが発見される。溺死である。
ここで観客には二つの重要な情報が隠されている。一つは、被害者の肺に残っていたのは海水だったこと。もう一つは、被害者の庭にあった池に引かれているのが海水だということである。
だから観客は以下の順序で予測をしていくことになる。
- 被害者は貯水池に沈められたのだ。
- 被害者は海で溺れた後、貯水池へ運びこまれたのだ。
- 被害者は自宅の庭で殺されたのだ。
当然、三番目の段階は、犯人の断定の直前になるので、池の水が海水であることはクライマックスで明らかになる。それまで観客が池に鍵が隠されていると気付かないのは、エピソードをすべて水にまつわるもので統一しているからだ(まあ鋭い人は気付くかもしれないけど、この映画では二重の罠を仕掛けているので気付かれたとしても痛くない)。
しかし、こんなものはほんの小手先である。
もう一つの事件
ミスリードを発生させるより大きな仕掛けが、もう一つの事件だ。
主人公が事件に関わるのは、被害者の浮気調査を依頼されたから。主人公は被害者の浮気現場を押さえるが、その後、被害者は死に、依頼人は偽物だったこと(あと依頼人の本物は美人だったこと)も判明する。
この事件、登場人物は殺人事件と同じだが、殺人との関係性はない。だがそのことは主人公にも観客にも知らされない。なので、二つの出来事を関連付けてしまう。被害者を殺したのは嫉妬に狂った妻(依頼人の本物)だと思ってしまうのである。
ミスリードのための事件ではあるが、だからといってその内容が手抜きでいいわけではない。むしろ殺人事件の真相などより、こちらの方が重要だ。金目当ての殺人事件よりも自由度が高い分、登場人物と観客の感情を動かすものにしやすい。
無能な推理者
ミスリードとはつまり冤罪への誘導である。冤罪と言えば、『夜の大捜査線』でもおなじみ、無能な警察の出番である。というわけで、『チャイナタウン』でも同様に無能な警察が活躍する。たまにヒントをくれたりしつつ、主人公を犯罪者として追い詰める。
これには推理に時間制限を与えて観客をハラハラさせる効果もあるのだが、それ以上に重要なのが、警察を引き立て役にして主人公の有能さをアピールする効果である。
『チャイナタウン』では、この効果を逆手に取っている。無能警察と対比することで、主人公は正しいと思わせる。しかし、最後の最後に主人公は間違っていた(かもしれない)ことが明らかになる。彼が何もしなければ、せめて彼女は救えたのではないか……。「チャイナタウン」に込められた意味がここに表れる。
ミステリー映画のテーマや面白さは、トリックではなく、トリックの見せ方で決まる。ミステリー映画に限らず、何を語るかではなく、どう語るかにこそ映画の本質がある。のかもしれない。