たぬきのためふんば

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その51 ジョーズ

 海が観光資源の島に人食いサメが出没した!

 

 『ジョーズ』は1975年の映画。監督はスティーブン・スピルバーグ(28)、脚本はピーター・ベンチリーとカール・ゴットリーブ。主演はロイ・シャイダーアカデミー賞は3部門の受賞に留まったが、興行収入は当時の世界記録を打ち破り、ハリウッド映画に転機をもたらしたそうな。(これまで見てきた映画の中で圧倒的にWikipediaの内容が充実しているので御覧いただきたい。)

 

 『ジョーズ』といえばサメ映画。サメ映画といえば『ジョーズ』。より広く言えばモンスター映画であり、パニック映画でもある。ちなみに、『ジョーズ』シリーズはいくつも作られているけど、スピルバーグが監督したのは初代のみ。

 『ジョーズ』は、大衆がサメに襲われる前半と、精鋭がサメを退治しにいく後半で構成されている。

前半

 映画のつかみに使われるのは、以下の3つである。

  • エロ

 というわけで、冒頭の5分で全裸のヤングウーマンが死ぬ。静かな夜の海で誰にも気付かれず、もがきながら少しずつ食われていく。静と動のコントラストが鮮やか。

 問題はここからだ。サメが怖いのはサメが人を襲うからである。サメには人を襲ってもらわねばならない。が、ひたすらサメが人を殺していくのは単調だし、人間には陸に避難するという必殺技がある。というわけで、スピルバーグは以下の二つの課題を解決しなければならない。

  • 人を海に入れる。
  • 変化を付ける。

映画には矛盾がなければならない

 映画には矛盾がなければならない。それは一個人の中にも存在するべきだし、社会の中にも存在するべきだ。キャラクターは相反する二つの価値観を持っていた方がいいし、それでいてキャラクターが二人いればそれぞれに相反する価値観を持っていた方がいい。

 主人公は人々をサメから守ろうとする人物である。警察署長だからだ。だが、警察署長であるがゆえに、彼は市長に従わなければならない。

 主人公と対立するのは市長だ。彼はサメがいると分かっている海を封鎖させまいと主人公を押さえつける。市長である彼は島のことを大切に思っている。だからこそ、島の(おそらくは唯一の)観光資源である海を封鎖するわけにはいかないのだ。彼の中にも矛盾がある。

 この複数の矛盾の中で、価値観がグラグラと揺れながら、最終的に当初とは異なる価値観が優勢になっていく。ここにドラマが生まれる。

 その他に、サメの被害にあった少年の母親が懸賞金をかけたりして、人々が海に入っていく理由は作られていく。

人は海に6度入る

 とまあ、そんなわけで人が海に入る理由のお膳立ては済んだ。

 次はいかに変化を付けるかだが、海に入る人々をイベント発生順に一覧にしてみよう。頭の数字は被害者数である。

 

0 何も知らない少年たち

1 何も知らされていない人々(サメ出現)

0 ボートの上なら大丈夫だと思っている人々

0 金目当ての人々(サメ出現)

0 金目当ての人々2

1 サメがいなくなったと思っている人々(サメ出現)

 

 意外と死なない。

 意外ではあるが、当然でもある。人が死にまくるなら、市長がどれだけ裏工作をしようと人々が海に入るわけがないからだ。人は要所でしか殺してはならないのである。

 では、要所とはどこなのか?

 まず一つは、最初である。冒頭の出来事は、主人公たち一部の関係者にしか知らされていない。これでは大衆にとって恐怖はないものと同然だから、大衆をサメに襲撃させることでパニックを引き起こさねばならないのだ。

 だが、上の一覧を見れば、そうはなっていないことが分かる。世界の理として、冒頭の事件によって「主人公が人食いザメの存在を知る→主人公が海岸を封鎖する」というプロセスが発生する。このプロセスにサスペンスを持ち込むためには、何も知らない人々が泳いでいることが重要だ。一方で、この人たちがサメに襲われたのでは面白くならない。封鎖が間に合わなかったから人が死にましたーでは当たり前すぎる。なので、ここは一旦スルーする。

 主人公が無事に海岸を封鎖すると、市長が文句を付けてくる。市長に逆らえない主人公は、やむなく封鎖を解除する。ここだ。ここが絶好のタイミングである。そんなわけで、被害が発生するのは二回目になる。

 もう一つの要所は、最後である。このイベントは主人公たちがサメ退治に出かける理由になるから死人が出るのは必須である。

 問題はなぜ最後のイベントの発生時に人々が海で泳いでいたかである。大衆の前でサメが襲撃してきた以上、サメがいなくなったと人々に思わせるしかない。

 ここで導入されるのがミステリー映画のやり口である。つまり、冤罪で無実の人物(サメ)を犯人に仕立て上げるのである。サメを検挙するには海に出るしかない。これがラストから2番めのイベントになる。

 残るは真ん中の二つだ。ここでは次の二点によって変化を付けている。

  • 海上にいる。
  • サメが出現するか否か。

 2番めのイベントが発生した時、被害者は海水浴をしていた。裸一貫で海にいたのだからサメに出会えば噛まれるのは当然に思える。

 では、ボートに乗っていれば? これが前二つ(冒頭も加えれば三つ)のイベントからの変化になっている。

 同じシチュエーションを使って、サメを出現させるか否かの2パターン作れる。もちろん先に来るのは出現しないパターンだ。ボートに乗った子どもたちは無事で済んだけど、もしサメが出現していたらどうなっていたんだろう?と思わせたところで、桟橋からサメを釣り上げようとした男たちが桟橋ごと海に引きずり込まれる……という流れになる。

(忘れてたけど、フーパーが海に潜るシーンもあった。これも海に浮いている→海上→潜水と状態の変化で味変させている。)

 前半だけで8回もイベントが発生するのだから十分な気もするが、それぞれのイベントにミスリード(偽のサメなど)を混ぜ込むことでさらにサスペンスの密度を上げている。

サメとは

 こうして前半をサスペンスで充満させることができる。

 後半に入るまえに、サメの特性を考えてみたい。『ジョーズ』におけるサメの恐怖を支えているのは、サメの鋭い歯でもパワーでもスピードでもない。海である。

 人は海の中を見ることができない。海の中には何があるか分からない。だから、とてつもない巨大生物がいてもなんらおかしくない。ダイオウイカやクジラがいる以上、これは現実的な恐怖だ。

 『ジョーズ』の恐怖の根源にあるものは海であり、闇なのだ。

後半

 後半はサメとのバトルである。

 味方は三人。主人公と海洋学者と粗野な漁師だ。『夜の大捜査線』と同じインテリ&非インテリコンビに主人公がくっつく形。

 前半と違って、後半はずっと海上で船上だ。なので場面転換による変化は付けられない。

 だからといってデタラメにイベントが発生するわけではない。バトルはバトルでも実はターン制バトルなのだ。後半はおおむね次のように整理できる。

  1. 主人公たちの攻撃(快調な出だし)
  2. サメの攻撃(設備の不調)
  3. 主人公たちの攻撃(これなら倒せるはず……だった)
  4. サメの攻撃(致命的な一撃……というか自爆)
  5. 主人公たちの攻撃(決死の攻撃)
  6. サメの攻撃(仲間の死)
  7. 主人公たちの攻撃(機転)

 ターン数が3で、HPが徐々に減っていくところがポイントではなかろうか。

 ボンベがサスペンスを生み出すと同時に、ラストアタックへの伏線となっているのが上手い。

 ちょっと薄いけどそんな感じ。

余談

 Wikipediaによると、『ジョーズ』のロケはマーサズ・ヴィニヤード島で行われたそうだ。これを読んで私のテンションは上がった。なぜかというと、ちょうど今読んでいる『みんなが手話で話した島』の島こそ、マーサズ・ヴィンヤード島だからだ。

 この島にはイギリスの閉鎖的な村からの移民が住んでおり、他の地域との交流が進まずに近親交配が繰り返された。おそらくは移住の前から、彼らの中には聾の原因となる遺伝子があり、近親交配の中でその遺伝子は淘汰されずに残っていった。そのために、異常な率でこの島には聾者が生まれた。そんなマーサズ・ヴィンヤード島では、聾者は排除されなかった。島民は誰もがハイレベルな手話を話せたのだ。……みたいな話。

 マーサズ・ヴィンヤード島の風景を知りたい人は『ジョーズ』を見よう。