たぬきのためふんば

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その35 タイタニック

 沈没する豪華客船の上で、名家の娘と貧しい青年が激しく燃え上がる恋に落ちる。

 

 『タイタニック』は1997年の映画。監督脚本はジェームズ・キャメロン、主演はケイト・ウィンスレットレオナルド・ディカプリオアカデミー賞は11部門を制覇。

恋愛映画としての前半

 映画が名作映画となるには、二つの一見相反する条件をクリアする必要がある。

 一つは、古典的なお約束を踏襲することだ。古来から無数の映画が作られており、観客を夢中にさせてきた映画には共通するパターンが見いだせる。このパターンを自在に操れるクリエイターこそが売れる作品を作り出すことができる。

 一方で、パターン化されたもののみで構成された映画は、目新しさがなく名作と呼ばれるまでには至らないことは容易に予想される。そのため、もう一つの条件は、独自性を持っていることとなる。

 というのは、なんとなく私が思ったことでなんの根拠もないが、今回はそういう観点で『タイタニック』について考えていきたい。

救いから始まる恋

 恋愛映画において恋の進展が必要なことは言うまでもないが、恋の進展は出会いから始まる。

 まずたぶん最も多いのが最悪な第一印象から始まる恋愛だ(これは恋愛に限った話でもない)。具体例を挙げれば、『深夜の告白』『風と共に去りぬ』『グッドフェローズ』『雨に唄えば』『或る夜の出来事』『アフリカの女王』『赤ちゃん教育』『黄金狂時代』『アラビアのロレンス』『ソフィーの選択』『ラ・ラ・ランド』『もののけ姫』『耳をすませば』『美少女戦士セーラームーン』『彼氏彼女の事情』『君の名は』……枚挙にいとまがない。

 ほかでよくあるのが、相手の命を救うところから始まる恋愛だ。「命を救う」をさらに広げて、「なんらかの困りごとを解決する」まで広げれば、これもまあまあ多い。典型的なのが、『めまい』『白雪姫』『ソフィーの選択』『天空の城ラピュタ』『千と千尋の神隠し』『サリヴァンの旅』『波止場』『スミス都へ行く』『サンセット大通り』『街の灯』……まあこんだけ挙げれば十分か。が、恋愛映画っぽい映画があまり思いつかない。

 『タイタニック』は後者だ。ヒロインのローズが入水自殺を図ろうとするのを貧しいジャック・ドーソンが救う。これが二人の出会いだ。

 救命活動から始まる恋愛は第一印象が最高のところから始まる。ということは、映画の始まりから終わりにかけて、関係を変化させにくくなる。最悪の出会いから始まるのなら最悪から最良への変化を描けるが、最良から始まると最良から最悪へ向かうしかない。さもなければ、最良→最良を描くか、最良→最悪→最良を描くかとなるが、そんな映画をわざわざ作る意味があるのかは疑問である。

 『タイタニック』がこの出会いを採用できたのも、ジャック・ドーソンが死ぬ運命にあるからかもしれない。これは『めまい』にも同じことが言える。マデリンと同じく、ジャックは思い出の中の恋人である。ちなみに、『タイタニック』では、救助活動に乗じて水の冷たさを事前に説明しておくという匠の技が披露されている点にも注目しておきたい。

浮気と身分差の合せ技

 とはいえ、ジャックが最後には死に、恋愛がメインに描かれるのが映画の前半だけであるとしても、『タイタニック』は194分もある。90分くらいはジャックとローズの恋愛に充てられるわけで、これほどの時間、最初から順調な恋愛関係を描いて面白くできるのか?

 ここで映画の面白さに寄与してくれるのが、恋の障害である。現代劇における恋の障害の代表選手は今彼今カノだ。ハリウッド映画において恋愛と浮気は同義である。

 今彼今カノほどではないがありがちな障害が身分の差だ。障害として機能していないパターンも含めると、『或る夜の出来事』『ローマの休日』『シンデレラ』『RRR』『雪国』『花より男子』『桜蘭高校ホスト部』などなどが思い浮かぶ。

 『タイタニック』はこの二つの合せ技で、恋のライバルとして、ローズの婚約者であるキャルドンが大活躍する。

 意外と今彼今カノがメインキャラクターとして登場する作品は少ない。浮気される相手のことを描写してしまうと、浮気が生々しくなって主人公たちの恋愛を応援しにくくなるからだろう。だからか、キャルはめちゃくちゃ嫌な奴として描かれている。おかげ様で、キャルと対比されることにより、ジャックの清らかさがますます強調されるという副次的効果が発生しているように思う。

パニック映画としての後半

 『タイタニック』の後半は完全にパニック映画だ。

 脱出劇は船の最下層から始まる。浸水が激しく、周囲には誰もいない。パニック映画としては一番美味しいシチュエーションだ。そこに手錠で繋ぎ止められているジャック。斧を振るうのが非力なローズというところもポイント高し。

 部屋を出ると待っているのは、水に満たされた迷路のような閉鎖空間。(ここの描写は完全に『シャイニング』だ。偶然似たのではなく、参考にしていると思う。)上階に上がれば、群衆が出口に殺到している。が、そこからは出られない。他の出口を探して、外に出る。

 同じことが外に出ても繰り返されて、結局、二人は垂直に沈む船の船首にしがみつく。これもパニック映画的には一番美味しいシチュエーションだ。

 いくつもの障害を乗り越えて、結局、一番やばい展開になっている。パニック映画の見本がここにある。

恋愛映画とパニック映画の融合

 我々は『タイタニック』の前半が恋愛映画で後半がパニック映画であることを当たり前のように受け入れているが、冷静に考えてみれば、これはなかなかすごいことだ。通常であれば、ロマンスを楽しみに来た人は後半が退屈だろうし、逆もまた然り。タイタニック』はいかにして恋愛とパニックを完璧に融合させているのだろうか?

史実という重み

 まず、タイタニック号の沈没が史実であるという重みがある。観客はタイタニックが沈没することはあらかじめ知った上で映画を観るのだから、それを前提として前半を楽しむわけだ。後半でタイタニック号が沈没することに文句をつけられるはずがない。

 後半は、パニック映画としてよりも、タイタニック号の事件の再現として観ることになる。これは群像劇であり、実在した人物の記録を後世に残すものとしての側面もある。主人公たちの恋愛は、群像劇を見せるための媒介としての機能を持っている。

象徴としてのタイタニック

 『タイタニック』は、『キートンの大列車追跡』や『アフリカの女王』なんかと同じく乗り物映画だ。この映画において、タイタニック号という乗り物が極めて重要な役割を持っている。

 ジャックとローズの恋は、最初から好感度MAXで始まる。なぜだろうか? そこには様々な事情があろうが、タイタニック号が二人の恋愛を象徴しているからではないか?というのが私が考えたことである。

 この映画は、深い海の底に沈んだ巨大豪華客船の捜索から始まる。そこで一つの絵が見つかったことをきっかけに、老婆がかつて溺れた大恋愛の記憶を蘇らせる。

 タイタニック号には一等船室と三等船室があって、様々な身分の人間が同じ船に乗っている。そこで身分の異なる男女が恋に落ちる。

 劇中ではタイタニック号を猛スピードで運行させる描写もある。ジャックとローズの恋は猛烈に加速していく。ピークに達した瞬間、タイタニック号が氷山に激突し、その直後にキャルの罠で二人の恋は破滅を迎えそうになる。

 しかし、ローズは手配されたボートには乗らず、タイタニック号に残っているジャックのもとへと走る。将来が保証されているキャルではなく、不安定なジャックを選んだことを象徴するシーンだ。

 といった具合に、恋と船は完璧にシンクロしている。二人の恋にブレーキの概念はないのだ。このように、舞台であるタイタニック号を象徴として機能させていることが、恋愛映画とパニック映画の融合を可能ならしめたのではないだろうか。

 ちなみにこの他にも、コルセットは女性を束縛するものの象徴だし、ジャックの絵のモデルとなった足の不自由な売春婦は意に沿わぬ結婚をさせられそうになっているローズと重ね合わされているし、キャメロン・ディアス監督は様々な小技を用いて映画の密度を高めている。

 もちろん、実際の制作の順序としては、まずタイタニックというモチーフが先にあったはずだ。パニック要素が映画にもたらされるのは、この時点で必然である。これをただのパニック映画で終わらせないために、どんなストーリーが必要か。それぞれのバックグラウンドを持つキャラクターの織りなす群像劇を、いかにひとまとまりのものとして見せるか。……といった思考の末に、身分違いの恋が浮上したという流れになるだろう。タイタニック号を象徴として使ったというよりも、タイタニック号が象徴として機能するようなストーリーを考えたという順番であるに違いない。

 まあ、そんなこんなでパニック映画と恋愛映画の完璧な融合を果たしたところが『タイタニック』の独自性と言えるのではないか。