たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『リング』

 鈴木光司の『リング』を読んだ。

 

 

 貞子で有名なので、ホラーの印象が強いが、実際はサスペンス又はミステリーの色合いが強い。

 主人公は雑誌の記者で、離れた場所にいた4人の人物が同時刻に似たような変死を遂げていることに気付く。

 彼らにいったい何が起こったのかを探っているうちに、主人公は一本のビデオテープにたどり着く。それが変死の鍵を握るのかどうか、そもそも4人がそれを見たのかも分からぬまま、主人公はビデオを見る。御存知のとおり、そのビデオは呪いのビデオだった。

 ポイントは次の二つだ。

・主人公は1週間後に死ぬ。

・呪いを解く方法は存在するが、それが何なのかは示されない。

 これによって物語は、「呪いを解く方法とは何なのか?」という謎の答えに向かって強い力で引っ張られていくことになる。さらに、主人公の妻と幼い子どもまでビデオを見てしまうことで引力はさらに強くなっていく。

 主人公は一人の相棒とともに、謎に迫っていくのだが、それは地道な調査によるものだ。ここで描かれているのは、呪術と科学の相克である。呪術的なもの(たとえば宗教など)は科学によってその存在感を失ってきた。主人公たちがやろうとするのは、それと同じように科学によって目の前にある呪術を倒そうという試みであり、一種のバトル要素だ。

 主人公たちは、ついに山村貞子にたどり着く。貞子は伊豆大島で生まれた超能力者。母親もひょんなことから超能力を得て有名になったのだが、世間から中傷を浴び自殺してしまった。貞子もまた世を恨みながら死んでいくのであった。

 実はホラーと親和性の高い要素に、家族がある(気がする)。『ヘレディタリー』、『シャイニング』、『シックスセンス』などなども家族の話だ。ホラーに欠かせないのが強い恨み。強い恨みは強い感情によって生まれ、強い感情は長年の蓄積によって育まれる。一定の感情が長期間にわたり蓄積されるということは、閉じたコミュニティである可能性が高い。究極の閉じたコミュニティ=家族……という仕組みではなかろうか。また、家族は遺伝や相続を伴う共同体だから、呪いの継承ともこじつけやすい。

 それはともかく、主人公たちは貞子の遺骨を探し出し、弔う。タイムリミットが過ぎても主人公は生きていた。どうやら呪いは解けたらしい。

 ……と思いきや、どんでん返しがある。有名なので書いてもいい気がするが、あえて伏せよう。ここで描かれるのは呪術と科学の融合だ。読者にとってはそれまでの伏線が一気に収束していく快感がある。

 どうでもいいが、1991年に出版された本(書かれたのは1989年)で、呪いとウイルスを絡めて描いているのがすごい。今ではバイラルマーケティングなんて言われたりもするが、当時は一般的ではなかったはずだ。作家の想像力は時代の先を行く。

 

 卓越した小説だが、ところどころに拙さも感じる。「これは作者のデビュー作に違いない」と思ったら、デビュー前の作品だった。ミステリーに当たらないという理由で横溝正史賞の受賞を逃したのだとか。

 優れた筋があれば、細部に拙さがあっても傑作は傑作たりうる。また、傑作であっても、閉じたコミュニティでは正当に評価されない(と言っていいかわからないが)こともある、ということを教えてくれる作品だ。

 

 ちなみに、映画版は上で挙げた要素をほぼ捨てている。だが、テレビから化け物が出てくるというイメージはかなり強烈で、日本中に貞子というキャラクターを印象付けた。これは完全なる映画オリジナルだ。素晴らしい原作を使いながら、「呪いのビデオ」という一点だけに注目して全く別の作品を作り上げることも、なかなかできることではあるまい。

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』に行ったら前世の記憶が蘇った

 令和6年4月14日、『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』を観に行った。

 

 会場はIMMシアター(生きてるだけで丸儲けシアター)。東京ドームのすぐそばにある、705席の小さな劇場だ。

 乃木坂465期生は、単独で代々木体育館を埋める集客力を持つ。代々木体育館は一万席を超える規模だ。狭い劇場のチケット抽選は激戦となることが予想された。私は10日程に申し込んだが、当たったのは1枚だけだった。

 

 最寄り駅は水道橋。学生時代は毎日*1、隣駅である春日から大学まで歩いていたため、懐かしさを感じる。といいつつも、学生時代の3年間*2、水道橋まで足を伸ばしたことは一回たりともなかったのだが……。

 12時からの開演だった。会場は11時15分。終演は3時頃になると思われたため、事前に昼食を取っておく必要がある。あらかじめ調べておいた11時開店の餃子屋に10時50分頃に行くと、すでに店は開いていた。中に入ると客はほとんどいない。東京の人気店だから混むのではないかと予想していたが、拍子抜けである。とはいえ、徐々に席が埋まっていく。大量の餃子をかき込んで店を出たときには、店の外に長い行列ができていた。早めに来たのは我ながら素晴らしい判断だったと言わざるを得ない。

 

きらっきらっきらっきらっ……♪ 水っ晶 宝っ石♪

 

 厳かな雰囲気で劇は始まる。

 それは月野うさぎの夢。

 鐘の音が鳴り響き、景色は一変する。

 

チリリン♪チリリン♪

「うさぎ! いつまで寝てるの! 起きなさい!」

 

 少女漫画はいつだって主人公の寝坊から始まる。慌ただしい登校風景は小気味よいテンポの音楽を奏で、その勢いのまま物語は展開していく。

 

 月野うさぎは日本語話者の黒猫ルナと出会い、セーラームーンに変身する。彼女は妖魔たちと戦うために、セーラー戦士のスカウトを開始する。

 そうして出会ったのが、天才中学生と名高い水野亜美、超能力を有する火野レイ、不良と噂される転校生の木野まことの三人。彼女たちもまた、セーラー戦士としての才能を開花させる。

 ここには『シンデレラ』の変身と『桃太郎』の仲間集めの面白さがある。興味深いのは、セーラー戦士たちにとっての「変身」の意味だ。

 『シンデレラ』において、変身は夢の実現を意味する。つまり、「なりたいけどなれない姿」に変身するのがシンデレラ。主人公が他者の力によって欠落しているものを獲得し、社会的地位を向上させるという構造は、『マイ・フェア・レディ』にも『プリティ・ウーマン』にも共通する。

 ところが、例えば、水野亜美はもともと頭脳明晰であり、セーラー戦士になった後もその頭脳を活かして戦う。アニメ版『美少女戦士セーラームーン』では、セーラーマーキュリーは攻撃能力が低い。彼女の最後の攻撃は「小型パソコンでの殴打」だった。彼女のメインウェポンはあくまで頭脳なのである。彼女は変身によって自分に欠けているものを獲得するわけではない。自分の才能を活用する先を見つけただけだ。同様のことがセーラーマーズとセーラージュピターにも言える。

 セーラームーン』における「変身」とは、「本当の自分の発見」なのだ。このことは、彼女たちが前世からの宿命に殉じていくストーリーによっても補完されていく。

 ただ「変身」に付与する意味が異なるだけではない。『セーラームーン』は意図的に、『シンデレラ』の「他者から幸せを与えられる」という構造を否定しようとしているのだ。セーラー戦士たちが戦うダーク・キングダムの幹部は、全員が男である。また、ヒーローとして登場するタキシード仮面は要所要所でセーラームーンを助ける一方で、最終的にはセーラームーンによって救われる対象となる。セーラームーン自己実現は男に依存していない(かといって男の存在を拒絶しているわけでもない)。幻の銀水晶も結局はセーラームーンの体内にあったわけで、魔法の力すら最初から自己の中に内在していた。

 加えて、セーラー戦士たちは変身によって社会的地位を向上させることもない。彼女たちは、正体を隠して生きていく。テレビによって掻き立てられる虚栄心を抑える姿は、まるで僧侶か軍人のようである。彼女たちにとって大事なのはあくまで本当の自分を発見することなのだ。ここには『竹取物語』の要素がある。

 こうしたセーラー戦士たちに対置されるのが、クイン・ベリルである。彼女は好きな男をプリンセス・セレニティ(=セーラームーン)に取られた嫉妬から、狂気に囚われる。(これは『白雪姫』の要素だ。)何者にも依存しないセーラームーンと王子様に依存するクイン・ベリル。二人の対決が物語のクライマックスとなる。

 

 ……分厚い。

 様々なおとぎ話の要素を取り入れて、一つの物語に再構成しつつ、単なる踏襲に陥らず現代的な価値観に基づき発展させている。

 アニメ『美少女戦士セーラームーン』は、この壮大な叙事詩を描くために全46話を費やしたが、捨てエピソードはほぼない。それだけの厚みがこの物語にはある。

 それを2時間半に凝縮するわけである。目まぐるしい展開。面白くないわけがない。音楽も演出も良い。

 

 正直なところ、私が期待していたのは「可愛い井上和ちゃんを近くで拝めること」だけだった。なんせ700席しかないのだ。どこの席であろうと、ライブなら上位10%以内に入る近さである。この御褒美を目の前にして、それ以外のものが気になる人間がいるだろうか。いや、いない。へろへろの歌声や棒読みの台詞回しでも構わなかったのだ。

 ところがである。乃木坂465期生は「近くで見れる」以上のものを提供してくれた。私の眼前で繰り広げられたのは、「良いミュージカル」だった。特に月野うさぎ役である井上和ちゃんは、おそらく三石琴乃の演技を意識して演じていたと思われる。私は井上和を通して月野うさぎを見ていた。五百城茉央ちゃんもアニメのとおりの木野まことだった。他の三人もしっかりした演技と歌を披露していて驚いた。彼女たちの脇を固めるのは元宝塚をはじめとした実力派である。

 私はただただミュージカル『美少女戦士セーラームーン』の世界に没頭した。

 

 そして、失われていた記憶が蘇る。

 『美少女戦士セーラームーン』は名作だったこと。大学時代に全話を制覇したこと。当時書いていたブログでおそらく一万字を超える感想を書いたこと。

 それだけじゃない。それよりもはるか前、小学生時代に原作を読んだこと。「シュープリーム・サンダー」を「シュークリーム・サンダー」だと思っていたこと。神社の巫女が「バーニングマンダラー」を放つのは神仏習合の事例の一つであること。

 なぜ『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』の文字列のうち、「乃木坂46"5期生"」にしか目が行かなかったのか。「セーラームーン×乃木坂465期生=最×高」だということになぜ気付かなかったのか。

 きっと私は社会人生活の中で一度死んでしまったに違いない。前世の記憶はそこで蓋をされたのだ。

 それでも私とセーラームーンは再び出会った。井上和に導かれ何度も巡り合ってしまった。

 

 公演後、私は後楽園にいた。

 後楽園は初代水戸藩徳川頼房によって作られた現存する最古の大名庭園日本三名園偕楽園兼六園・後楽園だが、この後楽園は岡山の後楽園だから間違えないように。名前の由来は「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」(天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)にある。

 歩いていると、昔の記憶が蘇ってくる。

 水戸の藩主だった私は、岩槻藩の姫君だったプリンセス・ニャギニティと恋をしたんだっけ。民の苦労を知るために二人で稲作をしたことが懐かしい。顔についた泥を腕で拭おうとするにゃぎはまるで猫のようだった。しかし、そんな日々もつかの間。嫉妬した正室の中西アルノが差し向けた毒蛇によって二人とも死んでしまうのだ。きっと民衆を出しにしていちゃついていた罰が下ったに違いない。天下の憂いに先立って楽しんでしまうとこうなる。

 にゃぎとアルノが巡り合った現世となっては良い思い出である。(そう、前世のアルノはにゃぎに嫉妬したのではなく、私に嫉妬したのだ。)

 

 というわけで、そんな素晴らしい『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』は、千秋楽を配信で見られる&ブルーレイの発売も決定している。乃木坂ファンもセーラームーンファンも要チェケラ。

 

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』千秋楽公演のライブ配信が決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト

 

『乃木坂46"5期生"版 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」2024』のBlu-ray発売決定!:美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト

*1:毎日ではないという説もある。

*2:後期課程+1年

『オッペンハイマー』を観た

 『オッペンハイマー』は2023年の映画*1。監督・脚本はクリストファー・ノーラン。主演はキリアン・マーフィ―。アカデミー賞は作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞を受賞。

ビッグプロジェクトもの

 タイトルにもなっている主人公のJ・ロバート・オッペンハイマーは、原子爆弾の開発チームのリーダー。原爆の父である。

 したがって、この映画は必然的にビッグプロジェクトものとなる。ビッグプロジェクトものの映画といえば、『戦場にかける橋』が筆頭に挙げられるが、ほかにも『イミテーション・ゲーム』などがある。*2

 ビッグプロジェクトに欠かせない要素としては、言うまでもなく、達成すべきビッグなプロジェクトがある。通常、一人の力で達成できるものはビッグなプロジェクトとは言わないから、仲間も必要だ。

 加えて、プロジェクトを達成するために必要なリソースが揃ったら、あとは完成を待つだけとなるが、それではドラマが生まれない。したがって、プロジェクトの成功を阻止しようとするライバルもかなり重要な要素となる。

 ついでにいえば、プロジェクトの進行度合いを示すゲージのようなものもあるとなお良い。特に、今回の映画で作ろうとしているのは、いまだかつて作られたことのない爆弾だ。巨大な橋と違って、できあがっていく様子が目に見えるものではない。代わりに何で進捗状況を示すのか、は地味に映画のクオリティに直結するポイントかもしれない。

 ここらへんは基本なので、名匠クリストファー・ノーランなら当然に押さえている。この時点で面白いかつまらないかでいえば、面白い映画となることがほぼ確定している。

 問題は、面白いのさらにその先へ行けるかどうかだ。

プロジェクトの持つ意味

 ビッグプロジェクト系映画が成立すれば、観客は必ず次のような感情を覚えることになる。

「ビッグなプロジェクトを達成した! やったー!」

 名作と言われるには、ここにひとつまみのスパイスを加えることが必要だ。そのために有害又は不毛な目標を設定するという手法が存在する。

 『戦場にかける橋』では、主人公は敵軍(日本軍)のために橋を作る。敵軍を利するわけだから、味方にとっては有害な目標だ。プロジェクトを達成する喜びは、純粋なものではなくなる。「本当にプロジェクトを達成してよいのか?(よかったのか?)」という疑念が混じることになる。これが深い味わいを生む。

 『イミテーション・ゲーム』でも、せっかくエニグマの解読を達成したのに、あえて仲間を見殺しにするエピソードが挿入される。功績も口外禁止で、チューリングは全然関係ない罪(同性愛者であるという罪)で惨めな死に追いやられてしまう。

 この手法を採用すると、主人公はビッグプロジェクトを達成した功労者であると同時に、罪人となる。矛盾があり、がある。いずれもエンターテイメントにとっては重要な要素だ。映画はぐっと名作に近づいていく。

 『オッペンハイマー』でも、プロジェクトの達成は日本の市民の虐殺を意味し、人類が自らの力で滅亡する可能性の誕生を意味する。間違いなく有害な目標である(もちろん見方によって様々な評価がありうるが、あらゆる評価はそういうものである)。しかも、社会へのインパクトでいえば、これ以上に大きなものはそうそうない。

 つまり、オッペンハイマーという題材はこの上なく魅力的なのだが、そこにはリスクもある。センシティブな問題に触れることになるので、生半可な気持ちで取り扱うとやけどを負うことになる。

法廷もの

 その主題の重大さゆえに、『オッペンハイマー』はプロジェクト達成からが長い。おそらく3時間のうち1時間が、達成後に割り当てられている。

 戦後、オッペンハイマーは情報漏洩を疑われ、聴聞を受けることになる。これは非公式の裁判のようなもので、結果次第でオッペンハイマーの研究者生命は絶たれることになる。つまり、『オッペンハイマー』は2/3がビッグプロジェクトもの、1/3が法廷ものの様相を呈している。

 もちろん、ただ映画のテイストが変わるだけではない。ビッグプロジェクトパートで発生した仲間とライバルの要素が、法廷ものパートに効いてくるのだ。

 最終的に、オッペンハイマーは勝利を収める。一度公職を追放されるものの、彼を追い落としたストローズもまた後に屈辱を味わい、一方でオッペンハイマーの名誉は回復されるのだ。

 そんなわけで本作は、3時間でビッグプロジェクトものと法廷ものの二つを楽しめるお得作品となっている。

時間軸シャッフル

 とはいえ、ここで一つの懸念が生まれる。

 外形上、法廷パートの焦点は、オッペンハイマー個人の処遇に当たることになる。せっかく核兵器という人類レベルで重要なモチーフについて描いたのに、一個人の問題に閉じていく構造でよいのか?

 これに対するアンサーとしては、「法廷パートもまた『核兵器とはなんぞや』を描くために存在する」というものが考えられるし、『オッペンハイマー』もそのように作られていると思われる。だからオッペンハイマーが政治闘争に勝つか負けるかなど本来的にはどうだっていい問題なのだ。

 ビッグプロジェクトパートでは、原爆というガジェットそれ自体が描かれる。法廷パートでは、ガジェットを取り巻く人々の思惑が描かれる。核兵器を推進するのか拒絶するのか。いかにして自己正当化するのか。何を、誰を恐れているのか。本当の根源にあるものはなんなのか……。(この中に、核兵器が使われるとどのようなことが起きるのかは入っていない。『オッペンハイマー』への批判がその点に集中することは容易に想像できる。この映画が何を描こうとしたかを重視するか否かによって見解は分かれるだろう。)

 言うまでもなく、この映画の本題は法廷パートにある。したがって、ビッグプロジェクトパートは法廷パートに内包されることとなる。オッペンハイマーが原爆を作るまでの過程は、聴聞での陳述の内容なのである。

 ここにまた別の視点、オッペンハイマーが放逐された後のストローズの視点も時間軸を越えて混じってくるから映画はかなり複雑になる。

 特に序盤において、映画の筋を追いきれず、観客はかなりストレスフルな状況に置かれる。あまりのストレスに、私は眠りに落ちた。睡眠不足が祟ったせいか、2回観たけど2回とも寝た。でも身体が睡眠を求めているなら寝ることは良いことだ。むしろ普段は昼寝もろくにできないのが悩みなので、これは映画の素晴らしい効能とさえいえる。

 それはともかく、初見の序盤は脳みそをかき回されるような感覚で混乱する。後半あたりからだんだんと状況が整理されてきて落ち着いてくる。このあたり、つまりは時間軸をシャッフルするという手法を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかも人によって見解が分かれるところかもしれない。

 私は初見では悪印象だったのだが(分かりやすい方が一回で理解できてお得だから!)、2回目はさすがに理解できたのでこれも悪くないと思った。というか、時間軸シャッフルのおかげで分かりやすくなっている面もあることに気付いた(気がする)。それに、混沌としている間に原爆の制作が進んでいって、原爆完成の直前ぐらいからだんだんと物事がクリアになっていく感覚、これぞまさにオッペンハイマーが体験した世界なのではないか。いや実際はそんなんじゃなかっただろうけど、少なくとも、そういう妄想をする余地はある。

 

weatheredwithyou.hatenablog.com

*1:日本公開は2024/3/29

*2:近いものとしては『カメラを止めるな!』もあるが、あれは即興的なのでミッション・インポッシブルに近いかもしれない。『風立ちぬ』はプロジェクトが先立つ物語ではないから少し違う気がする。

◯んちだいずかん

 うずまき、いっぽん、びちびち。

 

 世の中にはいろいろな◯んちがある。

 

 一休さんは◯んちが得意。

 

 今日も殿様に無理難題をふっかけられた。

 

「この屏風に描かれた虎さんを捕まえてくれないか」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんの◯んちに殿様も開いた口が塞がらなかった。

 

"Then please release the tiger from the folding screen."

 

 殿様は屏風を捨てた。

 

 翌日、一休さんが橋を渡ろうとすると、立て看板にこう書いてあった。

 

「このはしわたるべからず」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんは◯んちを披露した。

 

"I am walking on ◯it. I am not walking on the bridge."

 

 その後、一休さんを見たものはいない。

 

 一休さんのほかには誰も橋を渡ることはできなかったから。

朝日新聞とレザボア・ドッグスと流れない便器

今週のお題「練習していること」

 

 日経電子版の無料体験期間が終わったので、朝日新聞デジタルの無料体験をしている。日経と違って朝日は一ヶ月しか無料期間がない。ケチである。

 日経と朝日は全く毛色が違う。日経は当然ながら経済の記事が多いのだが、朝日は国内政治とか社会の記事が多い。メインとなる報道の対象が異なるわけだ。この違いが、報道の仕方の差異まで生み出している。日経は物事をマクロで捉えようとするのに対し、朝日は物事をミクロで捉えようとする。日経は現象に注目するのに対し、朝日は人間に注目する。

 ……という印象を覚えた。私は日経の方が好きである。

 

 『レザボア・ドッグス』を観た。クエンティン・タランティーノのデビュー作。

 宝石の強盗を画策したヤクザな男たちの作戦が失敗して裏切り者が誰なのかやんややんや喚き合う映画である。

 この映画の中で印象的な言葉がある。登場人物の一人が、仲間たちに気に入られるためにジョークを覚える場面。彼は師匠的な人物にこう言われる。

細かい部分にこだわれば説得力が増す。話の舞台は男子便所だ。便所の細部にこだわれ。手拭きは紙かドライヤーか? 個室にドアはついてるか? せっけんは液体か? 高校で使ってた粉タイプか? お湯は出るのか? 臭いか? どこかの汚いゲス野郎が使ってクソまみれなのか? なにもかも答えられるようにしろ。

 クエンティン・タランティーノ朝日新聞派だ。いや、それはどうでもいい。これは奥義だと思った。

 優れた映画は優れた構造を持っているが、同時にディテールも優れている。

 先日アカデミー賞を取った宮崎駿が『もののけ姫』のメイキングで何を語ってきたか? 藪の中を駆けるアシタカに顔を守る演技をさせたアニメーターに、アシタカはそんなやわじゃないと言っていたのではないか(うろ覚えだが)。たたらを踏む女に辛そうな表情をさせたアニメーターに、作用には反作用があるものだと語っていたのではないか(やはりうろ覚え)。どちらもストーリーには全く関係ないし、おそらく宮崎駿が修正する前のバージョンでも観客の誰も文句を言わないであろうほどの細部。そこまでの細部にこだわるから名作は生まれる。

 実写ではこの部分を役者が担う。監督や脚本は大きな枠組みを決めるのであって、最終的な細部を決定するのは役者や衣装、カメラマンえとせとらえとせとらなのである。これについて語ることから私は逃げ続けてきた。これからも逃げ続けるかもしれない。細部についてじっくり語るのは難しい(一言二言触れるのは容易だが)。

 神は細部に宿る。そのことをクエンティン・タランティーノに改めて教えられた気がする。

 

 というわけで細部について語る練習をしよう。

 

 男子便所と言えば、昨日の話である。

 私が職場の便所に入ると、個室から男が出てきた(女が出てきたら驚く)。別の部署で働いているバイト君だった。どことなく大谷翔平を想起させる雰囲気の高身長ハンサムボーイである。便所の中にはほかに誰もいなかった。

 自分が使った直後の個室に入られるのは気まずかろうと思って――いや、本当は私が気まずかったのかもしれない――私は翔平が出てきたのとは違う方の個室に入った。

 この便所には二つの個室がある。彼が出てきた個室は洋式、私が入った個室は和式の便器だった。

 多くの日本人は和式より洋式の便器を好む*1。私も御多分に漏れず、洋式の方が良かった。そこで、個室の中でベルトを外しながら聞き耳を立てた。便所のドアが開き、閉まる音がする。おそらく翔平が出ていったに違いない。だが、第三者が入ってきた可能性もある。私はなおも聞き耳を立て続けた。便所の中で音を立てるものは換気扇だけだった。今、便所の中にいるのは自分だけ。そう確信が持てたところで、私は個室の扉を開けて、翔平が出てきた洋式の個室の方に移動した。

 扉を開けると、目に飛び込んできたのは水の中に浮かぶ茶色いものであった。瞬間、こみ上げる吐き気。反射的に和式の個室に逃げた。

 30年以上生きていれば、汚物が残留している便器に遭遇したことは何回もあるが、直前の使用者が判明しているというのは、しかもその使用者が顔見知りであるというのは、初めてのことだった。とてもそんなことをしそうな人物ではなかったのに……。水原一平がギャンブル中毒だったのと同じくらいの衝撃である。

 いや、おそらく翔平とて故意に排泄物を残したわけではあるまい。狸ではないのだから。もしなんらかの目的を持って行った行為(たとえば自己の存在証明)だとすれば、むしろ便器の中に排泄しただけまとも……と考えることができるかもしれない。が、常識的に考えれば、これは事故である可能性が高い。翔平は流したつもりだったのに、流れていなかったのだ。

 というのも、翔平が使ったトイレはスイッチが半壊していて、ちょうど上手い具合に押さないと水が流れないのである。もちろん水が流れないことに気付いて何度もスイッチを押して流そうとするのが普通である。だが、100人いれば1人くらいは流れていないことに気付かなくても不思議ではない。スマホを置き忘れるような輩もいるわけだし、なにか考え事をしていると確認を忘れることはある。つまり、今回の事故は起こるべくして起こったものだと言えるし、それがたまたま翔平の身に降り掛かったにすぎない。

 こうしたアクシデントの原因を属人的な問題として捉えるか、それとも構造的な問題として捉えるか。真の問題解決のためには、後者の視点が重要ではないだろうか? たとえば、この視点なくしてはバリアフリー社会も形成しえないであろう。

 翔平は、自分がうんこを便器に残したままだったと知らない。これからも知ることはないだろう。私が教えない限りは。なんと哀れなのだろうか。おそらく、うんこ流さないマンのほとんどは、自分がうんこ流さないマンであることを知らない。恐ろしいことだ。フィードバックがない――これもまたうんこ流さないマンが生まれる構造的原因の一つである。きっとうんこ流さないウーマンもいるに違いない。それがアイドルだったら? ショックだ……。

 そんなことを考えながら、私はレバーを押す。水がすべてを洗い流す。

 扉を開けて個室を出る。洗面台でキレイキレイを付けて手を洗う。ふと不安になって、再び(私が使った方の)個室を覗く。大丈夫。流れている。

 やれやれ、今回は無事だったが、それはたまたまだ。過去に私もうんこ流さないマンになったことがあるかもしれない。

 もしかしたら、あなたの背後の便器にも――。

『葉桜の季節に君を想うということ』感想(ネタバレなし)

 『葉桜の季節に君を想うということ』を読んだ。こりゃ面白い。

 

 

 この小説は、主に五つの部品から構成されている。

  • 成瀬正虎による詐欺グループ蓬莱倶楽部の捜査
  • 麻宮さくらとの恋
  • 古谷節子が蓬莱倶楽部の一員になる過程
  • ヤクザ業界で起きた殺人事件
  • 友人(72)の娘(17)の捜索

 それぞれのストーリーは、それぞれに異なった趣がある。メインの軸である蓬莱倶楽部の捜査はスパイ物のテイストだし、麻宮さくらの話は当然ラブロマンス、古谷節子編はメインストーリーを中からの視点で描いたもの、ヤクザ編はミステリー、娘探しはお宝探し。ものすごく美化して言えば、『ルパン三世』と『めぞん一刻』と『DEATH NOTE』と『名探偵コナン』と初期『ドラゴンボール』の詰め合わせセットみたいな雰囲気である。

 Wikipediaの情報によると、この本は442ページ。ちょいと厚めだが、まあ標準的なサイズに収まっているとはいえるだろう。そこにテイストの違った五つの話が詰め込まれている。単純に5で割れば、それぞれ88ページ程度なわけだから、短編ぐらいのサイズ感になる。というわけで、テンポよく、色とりどりの物語を楽しむことができる。寿司の詰め合わせセットみたいなものである。

 しかし、この本は短編集ではない。あくまで一本の大きな物語の中で、語られることが移り変わっていくのだ。ここが肝である。つまり正確を期せば、寿司の詰め合わせセットというよりは、五種盛りの海鮮丼と形容すべきかもしれない。

 すべての話にオチがつくのは、『葉桜の季節に君を想うということ』という本の最後。「え!? 誰がヤクザを猟奇的に殺害したの!?」という興味をそそられたまま、物語は別の話題へと移行してしまう。でっかい謎があるのに、一向にそれに迫ることなく話が進んでいく。一方で、どこかでそれぞれの話が繋がっているという予感もあり、イライラはしない。むしろ気になることが増えていくから、ただ早く先を読みたくなる。焦らしに焦らしを重ねた、見事な焦らしプレイである。こうなるともはや五種盛りの海鮮丼ではなく、五目焦らし(五目ちらし*1)である。

 しかも、普通ならば、終盤に行くにつれて徐々に謎が解明されていくはずだが、この小説にはそれがない。残りのページ数が少なくなってきても、全く謎が解明される気配がないのである。だから余計に焦る。

 そして、物語はある時点を境に、五つのストーリーが一点に収束していき、急速に結末を迎える。この点が実に鮮やかであり(海鮮だけに)、『葉桜の季節に君を想うということ』が語り継がれる理由になっている。

*1:こういう補足情報を入れた方がいいのか入れない方がいいのかは悩みどころである。

こちとらいつでもFIREする構えよ

今週のお題「卒業したいもの」

 

 ふと気づくと、FIRE(Financial Independence&Retire Early)達成のための目標額が貯まっていた。

 ネットの記事を読んでいると、なぜかFIREするのには一億円が必要であるかのように書かれていることが多いが、あれは火よりも真っ赤な嘘である。FIREの基礎には4%ルールというものがあって、毎年の生活費を資産の4%以内に抑えれば資産が30年後になっても尽きていない確率が極めて高いというアメリカにおける研究結果を参考にしている。これを言い換えれば、「自分の生活費の25倍の資産があれば仕事辞めちゃってもいいんじゃね?」ということになるというわけだ。

 そして、『FIRE 最強のリタイア術ーー最速でお金から自由になれる究極メソッド』という本では、さらに現金クッションなるもので安全を取るように提唱している(私の記憶では)。

 ともかくそういうわけで私は私なりに考えて目標額を設定していたわけであるが、予定ではもう2,3年後に達成するはずだった。それが幸か不幸か、ここ最近のブラック企業生活*1のおかげかはたまた株高のおかげか、想定外のスピードで目標達成を果たしてしまったという次第である。

 

 というわけで、私がさっさと卒業したいのは会社である。

 もう十分な金はある(しかも退職金という名のボーナス、いや、給与の後払いもある。ますます私の将来は安泰である)のだからさっさとやめてしまえばいいのだが、そうはいってもなんだかんだで愛着はある。もちろん毎年毎年仲の良い人々が辞めていくのを見送る寂しさも味わっているが、彼ら彼女らは転職をするのが常であって「プー太郎になります」などというものはいない。私が先陣を切ることはやぶさかではないのだが、上司や同僚、家族は心配するに違いない。心配するだけならいいが、やかましく口出ししてくるに違いない。それは非常に煩わしい。なんかこう、周囲の人間を黙らせる素敵ビジョンが欲しい。

 そう、私には退職後のビジョン(=ジワタネホ)がない。だから、毎晩毎晩(土日除く。)「なんで睡眠時間(=命)を削って働いているんだ?」と思いながら生きているわけだが、一歩踏み出す気にもなれない。ずっと一日中家に引きこもって映画(∋『ショーシャンクの空に』)を見続ける生活よりは、今の生活(=囚人生活)のほうがいくぶんかマシである可能性がゼロではない。いや、限りなくゼロに近いかもしれない。。。

 というわけで、もし仕事がなかったらやりたいことリストを作成しているわけだが、今のところ

・新聞をじっくり読む

・平日の舞台公演とかを観に行く

・オフシーズンに旅行する

しかない。これがいい感じに貯まったら、あるいは会社のブラック度が耐えられないレベルに達したら、それか責任あるポジションにされそうな年齢になったら、はたまた良い転職先でも見つかったら、または元手ゼロで始められる良い感じのビジネスアイデアを思いついたら、晴れて卒業とあいなるのかもしれない。これだけの地雷がありながら私が雇用され続けてくれているのは会社にとって奇跡だ。感謝せえよ? 仏に。(私はどちらかといえば仏教が好きなのである。)

 

 ……ということを考えていったときに、はたと気付いた。これからの私が会社で働くことで得るものは遊ぶ金以外のなにものでもない。これからは給与を全部浪費してもいいんだ! 値段を理由に何かを諦める必要がない。なんたって、どんだけ安く見積もっても年間百万を超える遊ぶ金が入ってくるのだから。

「フッフッフッ……これからはステーキだって蟹だってなんだって買えるぞ……」

 そう呟きながら、一週間の食材の買い出しに行った。

 気付けば、私は一番お買い得な野菜を探していた。

「大根一本180円かあ……ちと高いなぁ……」(私は大根の底値は100円だと知っているのだ。)

などと考えている。「贅沢していいんだぞ」とどれだけ働きかけても、抗えない。グラム200円を超える牛肉なんて、とうてい買う気になれない。心が拒んでいる。「べつに牛肉が豚肉や鶏肉より美味しいわけじゃねーしなあ……」とどうしても考えてしまう。「蟹は食うのが大変すぎる」と考えてしまう。

 そうか……私は贅沢よりもお金の節約が好きなのか……。

 かろうじて、納豆の一番高いやつを買った。いつもの3パック56円ぐらいのやつに対して、2パック170円ぐらい。たか……たかすぎる……。でも114円しか贅沢してない。納豆は美味しい。作るのも後片付けも簡単。納豆は神。いや、仏。毘盧遮那仏螺髪。(「どちらかといえば仏教が好き」と書いた手前、神という言葉には敏感にならざるを得ないのである。)

*1:2月は日数も少なく休日も多くしかもコロナで数日休んでいたのに時間外労働が50時間を超えていた。異常だ。