たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『動物化するポストモダン』を読んだ後にダリの展覧会に行った話

 『動物化するポストモダン』を読んだ。

 

 この本で語られていることはだいたい次のようなことだと思われる。

  • 単一の大きな社会的規範(=大きな物語)により成員を一つにまとめ上げていたのが近代国家
  • 大きな物語が凋落したのがポストモダン
  • ポストモダンでは、無数の小さな規範が林立する。
  • ポストモダンでは、オリジナルとコピーの区別が曖昧になり、そのどちらでもないシミュラークルが文化産業を支配する。
  • 大塚英志は、物語消費という概念を提唱した。
  • 大きな物語*1から派生した、小さな物語としての商品が販売され、消費者は商品を通して大きな物語を消費する。(大きな物語それ自体は売られることがない。)
  • 大塚の説に対して、東浩紀はデータベース消費という概念を提唱したい。*2
  • 小さな物語の背後にあるのは、萌え要素などのデータベースである。
  • アニメ作品なども、萌え要素などのデータベースを参照して作られている。
  • 消費者はデータベースを基に小さな物語(=アニメやゲームなど)を楽しみ、データベースを基に二次創作などを行う。
  • 消費者はそのような構造に自覚的でもある。

 

 ふーむ。分かったような分からんような。そもそも大きな物語というものがピンとこないし、詳細な議論を割愛しているせいなのか論の進め方にいまいち納得が行かないところもある。難しい。

 ただ、データベース消費という概念は、直感的になんか分かる気がした。この本が書かれたのは2001年だが、状況は今なお変わっていないどころか、むしろYoutubetiktokなどのメディアによって加速している気もする。

 既存の作品へのオマージュを隠そうともしない作品も多い。『呪術廻戦』や『僕のヒーローアカデミア』などが分かりやすい。(単に私が歳をとるにつれ元ネタが分かるようになってきただけで、元々こんなものだったのかもしれないが。)

 そして、データベース→作品の方向だけでなく、作品→データベースの流れも盛んに行われている気がする。これまでデータベース化されてこなかった領域について、データベース化しようとする試みが各所でなされているように思える。有名アーティストが新曲を出すと、だいたいYouTubeで第三者による解説動画が流れる。お笑い芸人がお笑いを分析する動画なんかもある。作品を分析するということは、そこにあるパターンを見出すことで、それはデータベース化に繋がる。

 

 

 さて、「生誕120周年 サルバドール・ダリ ―天才の秘密―」を見に行った。

生誕120周年 サルバドール・ダリ | 展覧会 | 横須賀美術館

 今年の目標の一つに「月一回美術館に行く」というのがある。その一環だ。(つまり、これから書くことは素人の下手な考えである。)

 ダリといえば、ヒゲとぎょろっとした目が特徴的なあのおじさまだ。溶けた時計とかを描くあの人である。シュルレアリスムの旗手というイメージを持つ人も多いのではなかろうか。チュッパチャップスのロゴをデザインしたことでも有名だ。

 現代アートには、よく分からない印象がある。デュシャンの『泉』とか「ただのトイレやん」以外の感想が出てこない。ポロックの絵とか「いやこんなん誰にでも作れるやん」としか思えない。ダヴィンチとかミケランジェロとかの絵の方が全然魅力的である。そもそも表現したいのは美じゃないからって言われても、美しくないものを見たいとは思わんやろとしか思わない。

 ダリはデュシャンポロックと同時代の人間だ。ダリもまた既存の芸術から脱却しようとしていた点は同じだ。にもかかわらず、ダリの絵はなんか分かる。とりあえず美しいとは感じられる。なぜだろうか。

 『キャバレーの情景』という絵がある。この作品は若かりし頃のダリが前衛芸術の影響を受けて描いた作品だと思われるが、子供の落書きみたいで良さが全然分からない。分からないなりに、この作品の魅力が何か考えてみたところ、「丸の配置がなんかいいかもしれない」という気がしてきた。幾何学模様の美しさがそこにはある……ような気がする。

 そんなことを考えて、次の作品に移っていくと、『蝶と葡萄の風景』という作品に出くわした。

「この絵にも球体がたくさん描かれている……」

 球体の配置の意味はよく分からないが、ここにも幾何学模様の美しさがある。

 そういう風な目で見ていくと、ダリの作品には三角形や直角など図形の美しさが随所に見られる。部分的なものもそうだし、構図においてもそうだ。あの有名な溶けた時計だって、普通なら丸のものを歪めた上で直角に曲げているところに驚きと美があるのではないか。

 美しい絵には法則がある。これは遅くともルネサンスの時代から追求されてきたはずだが、昔の画家は題材として、キリスト教や神話、実在する人間を選んできた。ダリが試みたことは、美しい絵の法則(≒図形)は捨てずに、その図形を作る物を何か心惹かれるものに置き換えることだったのではないか。

 その延長線上にダブルイメージという騙し絵的な試みがある、と理解することもできる。図形を作るものがなんでもいいなら、それが同時に二つのものであってもいいからだ。例えば、人の後頭部に美しさがあるなら、それと全く同じ形のキノコ雲や木にもまた美しさがあるはずだ。

 これはまさにデータベース的な作品作りではないだろうか。キリスト教などの大きな物語が凋落した後の時代に、ダリは自分の中にあるイメージのデータベースを用いて小さな物語を作ったのだ。ダリが人間である以上、そのデータベースは社会的なデータベースとある程度合致するに違いない。

 意外にもダリはシュルレアリスムの仲間から追放されているが、それは反ファシズムとしての共産主義やその他の政治的活動に与しなかったかららしい。大きな物語を脱しようとして別の大きな物語を信じようとした仲間たちに対して、ダリは大きな物語などもはやあり得ないことに先駆けて気付いたと理解することもできそうだ。

 また、ダリは写真を絵画の理想の一つと考えていたらしい。ダリにとって、オリジナルとコピーの間に優劣はない。だからダリは写真を使った作品をたくさん発表している。これもポストモダン的だ。

 つまり、ダリは極めて現代的なアーティストだったのだ!

 『動物化するポストモダン』のおかげで、そんな妄想ができて楽しかったです。

 

 ついでに書くと、『動ポモ』はダリの没後12年の出版だ。ダリが活躍し始めた時期から数えればダリは数十年も先を行っていたと言える。ということは、現代アートとは、時代のずっとずっと先を行こうとする試み(あるいはこれからの時代を作っていこうとする試み)なのか? そう考えると、これまで理解を諦めてきた現代アートを見る目も変わってくる気がしますな。

*1:設定や世界観など

*2:大塚の説を否定するものではなく、補強するものと考えた方がよい。