たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その100 街の灯

 ホームレスが盲目の少女に貢ぎます。

 

 『街の灯』は1931年の映画。製作・監督・脚本・主演・音楽・編集にチャールズ・チャップリン。ヒロインのヴァージニア・チェリルはケーリー・グラントの最初の奥さん。

 

 『街の灯』は『黄金狂時代』と『モダン・タイムス』の間の作品。この三作品とも、浮浪者チャーリーが貧しい美少女のためにお金を稼ぐ話だ。

 『黄金狂時代』では、少女は当初チャーリーよりも裕福で、チャーリーは死にものぐるいの思いで大金を獲得する。立場が逆転するが、それでも変わらない関係に感動がある。

 『モダン・タイムス』では、少女とチャーリーは等しく貧しい。共同でお金を稼ごうとするが、チャーリーはなかなか一つの職場に定着することができない。それがようやくラストでコメディアンの才能を開花させる点が感動ポイント。

 では、『街の灯』はどうかというと、チャーリーは富豪のふりをして少女に大金を貢ぐ。そのためにチャーリーは逮捕されてしまうが、少女は手術を受けて目が見えるようになる。出所したチャーリーと少女は出会い、少女は富豪だと思っていた人物が目の前のみすぼらしい男だと知る。このラストは珠玉の名シーンだ。

 一言で言うと同じ話でも、これだけのヴァリエーションが作れるのだ。

 

 『街の灯』の特徴は二つ。

 一つは、最後に二人の関係が真の意味で始まること。ラブストーリーには主には三つのパターンがある。

  • 最悪の出会いから始まった二人が結ばれて終わるパターン
  • 一気に燃え上がった恋が儚く散って終わるパターン
  • 嘘によって関係が進展するが、最後に嘘が明らかになるパターン

 三番目のパターンには『お熱いのがお好き』や『トッツィー』があるが、『街の灯』もこれに当たる。これ系の作品は、嘘がバレたら関係が破綻するかもしれないというサスペンスがあり、嘘がバレたときにヒロインがそれをどう評価するかというのが最大の見所になる。

 もう一つの特徴は、ヒロインが障害者であること。

 『フォレスト・ガンプ/一期一会』のように知的障害者は無垢な存在として描かれがちだが、それ以外の身体障害者も無垢な存在として描かれる場合がある。

 『街の灯』において、チャーリーのお粗末な嘘にヒロインが簡単に騙されるのは、彼女が盲目だからに尽きる。彼女は盲目であるがゆえに、見た目で人を判断することができない。『星の王子さま』で「大切なことは目には見えない」と言ったりするように、見た目やレッテルで人を判断することは下劣なこととみなされる場合がある。その限りにおいて、視覚障害者は無垢な存在となるのだ。

 ところが、チャーリーは少女の目を治す手助けをしてしまう。これは映画的には少女が無垢でなくなることを意味する。実際、少女は子供たちにいじめられている惨めな浮浪者のことを笑い、彼に見つめられると「惚れさせてもーた!」と笑う。目が見えるようになった彼女は、男たちが自分に近づく意味が分かるようになってしまったのだ。

 少女が無垢でなくなってしまったことによって、ラストシーンのサスペンスは一層高まる。彼女はチャーリーのことをどう思うのだろうか? 「こんなに貧しいのにもかかわらず私に施しをしてくれたのか」と感動するだろうか。それとも「私はこんな薄汚い小男に騙されていたのか」とがっかりするだろうか。両方ということもありうる。いずれなのか、映画は答えを示さないまま終わる。そこがいい。

 もし『お熱いのがお好き』が答えを示さぬまま終わったら観客は納得しないだろう。主人公が報いを受けるのか、マリリン・モンローが許すのかまで見届けないと成立しない。それは彼が行ったことが罪とさえ言えるくらいのことだからだ。『トッツィー』でも同じことが言える。善行をしたチャーリーとはその点で違いがある。

 そもそも善行はそれ自体が尊く、善行が正しく評価されることに意味がある。見返りはいらない。もちろんあるに越したことはないが、少女にチャーリーを好きになるよう強いることはできない。チャーリーだって見返りを望んではいない。彼は少女が店から出てくるのを見て、去ろうとしていた。だから、『街の灯』の物語は少女がチャーリーの姿を見た瞬間にピークがあり、そこで終わるのだ。