たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その76 ナッシュビル

 『ナッシュビル』は1975年の映画。監督はロバート・アルトマン、脚本はジョーン・テュークスベリー。主演は……たくさん。

 

 あらかじめ言っておくと、『M*A*S*H』に引き続き、私にはこの映画が全く理解できなかった。掴みどころのない映画だ。

 この映画に大きな一本の筋があるとすれば、「地元に凱旋した歌手がステージ上で射殺されるまでを描いた物語」と言えるかもしれない。彼女の名前はバーバラ・ジーン。ナッシュビルの空港に降り立ち、歩いているといきなり気絶してしまう。退院した彼女はステージに復帰するが、山崎まさよし的な感じでひたすら喋り続けて途中退場させられる。払い戻しのかわりに、後日やむなく大統領選挙キャンペーンのステージに立つことになる。そこで射殺されるというわけだ。

 だが、彼女がなぜ殺されなければならなかったのかは分からない。強いて言えば、マネージャーでもある夫が、メンタルの弱い彼女を働かせなければ彼女は死ななかったであろうというくらいだ。

 この筋に全く絡んでこない人物がいる。

 たとえば、マーサ。独特のファッションに身を包む彼女はいったいなんのために用意されたのか。彼女のストーリーは、周囲の男たちに目を奪われて、死にゆく叔母に顔を見せなかったということくらいしかない。この出来事を受けて彼女がどうしたということもない。たぶん何も感じていないだろう。

 たとえば、トム。ヤリチンの彼はだれかれかまわずやれる女とはやる男だ。彼と不倫したゴスペル歌手のリネア・リースは、彼女がまだ帰らないうちからトムが他の女に電話をするところを見る。

 たとえば、スーリーン・ゲイ。歌手志望の彼女はバーバラ・ジーンと同じステージに立つためにストリップをやる羽目になるが、バーバラが殺されたことに対する彼女のリアクションはほとんど映されない。

 こうして眺めてみると、彼らの物語はそこで完結していたことに気付かされる。

 歌の時間を差っ引くと2時間以内に収まるこの映画。登場人物が24人いるとすると、一人あたりの持ち時間は単純計算では5分程度だ。なるほど、登場人物ごとの濃淡があるとはいえ、映画らしい起伏のあるストーリーは期待できるはずもない。

 他愛もない彼らの物語には、共通点がある。他人への無関心だ。オーディオ・コメンタリーで、ロバート・アルトマン監督が「有名人を標的にするテロの目的は目立つことだ」みたいな感じのことを言っていたが、バーバラ・ジーンは他人に無関心な社会で注目を集めるために殺されたということかもしれない。

 一つ一つは弱いストーリーを束にして強固なストーリーを築き上げるのが群像劇だ。それぞれのストーリーをいかにまとめ上げていくかというところが群像劇のミソになるような気がするが、『ナッシュビル』ではストーリー同士の関連性は放棄するかわりに(?)、登場人物たちをなるべく一つの場所に集めたり似たような場所にいさせたりすることでまとまりを作っている。

 『ナッシュビル』はストーリー(=登場人物)の数を増やすことで、社会を表現することにチャレンジした作品なのかもしれない。

 ……何も書くことが思いつかないと感じていたが、いざ書き出してみると『ナッシュビル』とはそういう映画だったのかと見えてくるものがある。映画の感想(?)を書く意味がここにある。

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