お金持ちの婦人のヒモになろうと思ったら~、詐欺に遭い~ました~。チクショー!
『真夜中のカーボーイ』は1969年の映画。監督はジョン・シュレジンジャー、脚本はウォルド・ソルト。主演はジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマン。アカデミー賞は作品賞・監督賞・脚色賞を受賞。
「1969年」という文字を見れば、アメリカン・ニューシネマかな?と予想はつくが、まさにその典型例のような映画。
- 主人公は罪を犯し
- そのためにどこにも居場所がなく
- 最後に悲惨な結末を迎える
以上の三要素をきっちり押さえている。
これまでアメリカン・ニューシネマは、『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』『タクシードライバー』『ワイルドバンチ』を観てきた。
『真夜中のカーボーイ』というからには、西部劇なのかな?と思いきや全然西部劇ではない。主人公がカウボーイチックな格好をしているだけで、舞台は現代のニューヨークだ。(「カウボーイ」ではなく「カーボーイ」なのもそれを受けてのことだそうな。)
主人公が犯す罪とは、財産もないくせに真面目に働こうとしない罪である。彼はイケメンの自分がニューヨークに行けば、女性が自分を買ってくれると思って上京する。「え~、そんなパラダイスがこの世にあるのか?」と疑いながら映画を見ていくと、主人公は見事にお色気ムンムンな妙齢の女性と事を致すことに成功する。が、逆にお金を要求される。人生はそんなに甘くなかったのである。だが、たった一回の失敗で絶望するわけにはいかない。彼はなおも幸せなヒモライフを夢見るが、今度は詐欺に遭い、金を失い、住処を失う。そこで詐欺師と再会し、不道徳な共同生活が始まる。
結局、主人公は最終的に「真面目に働くのが一番だぜ」という結論に至る(この時にカウボーイファッションもやめる)のであるが、時すでにお寿司。相棒の詐欺師は病死してしまう。
真面目にコツコツ働く。これができないことは罪なようです。『タクシードライバー』を除いて、これまで観てきたアメリカン・ニューシネマの罪は仕事と結びついている。アメリカン・ニューシネマはチャップリンの『モダン・タイムス』の延長線上にあったのかもしれない。
真面目に働かない人間の前には二つの道がある。一つは強盗(=殺人)。もう一つは、現実逃避して快楽に耽ることである。前者パターンが『俺たちに明日はない』『ワイルドバンチ』『真夜中のカーボーイ』であり、後者パターンが『卒業』『イージー・ライダー』である。
ただし、前者と後者は、本当はひとつづきのものだと考えた方がよいだろう。『卒業』の二人も親元から離れた後、困窮して罪を犯す可能性がなくもないし、『イージー・ライダー』の二人も殺す前に殺されただけかもしれない。逆に、『俺たちに明日はない』と『ワイルドバンチ』の面々にとっては、奪うこと自体が快楽だ。
そして、『真夜中のカーボーイ』はまさに「セックスでお金を稼げたらいいなあ!」という現実逃避的な男の夢に挑み、敗れ、強盗殺人に至るプロセスを描いた物語なのである。
快楽としての強盗殺人を快楽と強盗殺人に分離したことによって、快楽(セックス)を重点的に描くことが可能になる。そのおかげで、『真夜中のカーボーイ』は全体的にエッチッチーな映画となっており、これが魅力の一つであることは間違いない(ダスティン・ホフマンとの友情のプラトニックさだって、これがあるから際立つのだし)。
アメリカではヘイズ・コードの廃止に伴い、1968年に新たなレイティングシステムが導入された。現在のG,PG,PG-13,NC-17の原型だ。当初、『真夜中のカーボーイ』はNC-17に相当する成人映画とされたそうな。アカデミー賞の受賞を受けてか、現在ではR(保護者同伴なら17歳未満でも見てもよい)とされている。
1969年は、デンマークでハードコアポルノが解禁された年で、これを受けて西側諸国でもポルノが広まっていくのだとか。これに先立って、アンディ・ウォーホル*1がエロティックなアート映画『ブルー・ムービー』を発表し、直後にアメリカ・アダルト映画協会が設立される。ここからの15年間をポルノの黄金時代と呼ぶらしい。この間に成人映画館が隆盛*2。代表的な作品の一つに『ディープ・スロート』*3がある。
同じく1969年に日本で家庭用ビデオテープレコーダーが市販される。当時販売されたソフトの9割がポルノ映画だったのだとか。アダルトビデオの普及によって、ポルノの黄金時代は幕を閉じることになる。
『真夜中のカーボーイ』はただエッチなのではない。そのエッチさは時代を象徴しているのである。