たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その78 我輩はカモである

 グルーチョ・マルクスがとある国の首相になる。

 

 『我輩はカモである』は1933年の映画。監督はレオ・マッケリー。主演はマルクス兄弟。この作品はゼッポも出演している。

 

 舞台はフリードニアという架空の国。財政難に直面した政府は大富豪のミセスティスデル(マーガレット・デュモン)に頼るしかなく、彼女の推薦するルーファス・T・ファイアフライグルーチョ・マルクス)を首相に迎える。例のごとく異常な言動を繰り返すファイアフライのおかげで政治は混乱し、ついには戦争が始まる……。

 という話。

 前々回の『キャバレー』が1930年代前半のナチスの台頭を描いていたが、ナチスが政権を取ったのは1933年。この映画が公開されたのと同じ年だ。『我輩はカモである』が何を風刺していたのかは推して知るべし。

反戦映画を分類する

 世の中に反戦映画は多い。一般庶民が平和を願うのはごく当たり前だし、逆に言えば戦争には人の心を揺り動かす力がある。色々な意味で映画にする価値がある。

 一口に反戦映画といっても色々なパターンがある。映画の大きな方向性を決めるのは、誰に焦点を当てるかだ。

兵士

 最もオーソドックスなのが、戦場の悲惨さを描くことだろう。『フルメタル・ジャケット』『地獄の黙示録』『プライベート・ライアン』『プラトーン』『MASH』などなど……枚挙にいとまがない。

 ここで追求されるのは「悲惨さ」の表現だ。人々がばったばったと死んでいくことほど分かりやすく悲惨さを表現できるものはない。が、人の死にはエンタメ性があるので、このタイプの映画には戦争をエンターテインメント化してしまう危険性が常に付きまとう。

民間人

 次に、戦場にいない人々への影響を描く映画もある。『我等の生涯の最良の年』『ディア・ハンター』『火垂るの墓』『この世界の片隅に』など。

 これは完全に推測だが、本土への攻撃をどれだけ食らったかの違いが日米の作風の傾向に影響をもたらしているはずだ。アメリカ映画だと戦争の残した傷跡(キーパーソンの消失、身体障害、失業、PTSDなど)がいかに社会を破壊するかが描かれるのに対し、邦画では兵士に焦点を当てた映画と同様、戦争の悲惨さが描かれることになりがち。(……と思ったけど、『シンドラーのリスト』や『ソフィーの選択』のような作品もあるなあ。)

政治家

 第三に、戦争を始める政治家に焦点を当てる映画もある。『独裁者』『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』。そして『我輩はカモである』もこれに当たる。念頭に置かれているのが未来の脅威であり、かつその脅威が具体的である場合には、この形式が最も説得力を持つかもしれない。

 反戦か否かにかかわらず、政治家を主人公にした映画は大きく三つのパターンに分けられると思う。一つは、政治家を英雄として描くもの。『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』『英国王のスピーチ』など。これは反戦映画にはなりえない。二つ目は、庶民が政治家になり政界に疑問を突きつけるパターン。『独裁者』や『スミス都へ行く』がこれだ。三つ目は、主流派の政治家を戯画化するもの。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』と『我輩はカモである』はこれに当たる。

 問題は政治家をどのように戯画化するかだが、マルクス兄弟の場合、この点について深く考える必要がない。「もしもグルーチョ・マルクスが首相になったら?」という問いを立てるだけで、映画の形がぼんやりと浮かび上がってくる。マルクス兄弟(マーガレット・デュモンを含む。)自体がすでに戯画化されたキャラクターだからだ。しかも、詐欺師のグルーチョと簡単に騙される愚かな大富豪のマーガレット・デュモンの組み合わせは、まさに現実の政治を反映している。

 マルクス兄弟が最も輝けるストーリーラインがここにあった。