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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その63 オペラは踊る

 イタリアの売れないテノールが、恋人である売れっ子ソプラノを追いかけて渡米する。

基本情報

 『オペラは踊る』は1935年の映画。監督はサム・ウッド、脚本はジョージ・S・カウフマンとモリー・リスキンド。主演はマルクス兄弟

 ちなみに、U-NEXTで観られるが、タイトルが『マルクス兄弟オペラの夜』となっているので検索するときは注意

 ついでに言うと、原題は"A Night at the Opera"で、『ボヘミアン・ラプソディ』が収録されているQUEENの4thアルバムの題名の元ネタ。5thもマルクス兄弟の映画が元ネタ。

 マルクス兄弟は5人兄弟のコメディアン。メンバーはグルーチョ、ハーポ、チコ、ゼッポ、ガンモだが、『オペラは踊る』の時点でゼッポとガンモはすでに俳優活動を引退している。

 グルーチョはヒゲメガネで喋りが達者。ハーポは一切喋らないキャラでハープが得意。(ザ・ギースの高佐一慈がハープを引くのはハーポリスペクトなのかと思ってググったけど何も引っかからなかった。)チコは長男でピアノが得意。そんな三人組。

映画でコントを見せる

 お笑い芸人が関わっている映画は日本にも多い。監督なら北野武松本人志品川祐劇団ひとり。原作ならやっぱり劇団ひとり又吉直樹。まして役者として出演するお笑い芸人となるとかなり多い。お笑い芸人とは要するに笑いに特化した脚本家兼俳優なので(脚本=ネタを書かない人もいるけど)、当然といえば当然だろう。

 ところが、その中身はお笑いからかけ離れていることが少なくない。これは日本特有の現象ではなくて、ウディ・アレンの『アニー・ホール』は完全に映画寄りの映画だった。

 これに対して、2020年からジャルジャルが『あ・りがとう』と『サンチョー』の2本を公開している。そのPRの中で、コントシネマというジャンルを新たに提唱している。そこには、コントを映画化することは新しい試みだという認識があるはずだ。

 しかし、ハリウッドでは90年前にすでにそのような映画が作られていた。『オペラは踊る』は、マルクス兄弟のコントを見せるための映画だ。ジャルジャルの挑戦は文芸復興だったのである。

部分のための全体

 『オペラは踊る』は一本のコントではなく、いくつかの短いコントの集まりでできている。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』がいくつかの短いアクションシーンで構成されていたのと同じだ。これらの要素を一つの映画として見せるために、大きなメインストーリーが用意されているのも同じである。

 身分違いの恋に落ちてしまったオペラ歌手の二人がいる。女は売れっ子だが、男は売れていない。そんな折、アメリカからスカウトがやってくる。引き抜かれるのは当然、売れっ子のヒロインだけ。売れない歌手である男は彼女を見送る羽目に陥るが、男は密かに船に乗り込む。果たして、二人の恋の行方は……?

 というのが映画のメインストーリー。

 もちろん、実質的な主役はマルクス兄弟だが、形式上はあくまで二人の恋路をサポートする脇役である。マルクス兄弟は流れの中で出てくる様々なシチュエーションを題材にコントを展開していくという仕組みだ。

 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』においてアクションの内容がストーリーとほぼ関係ないように、『オペラは踊る』のコントで起きる出来事も本筋にほぼ影響しない。契約書をちぎりまくっても、狭い部屋に大人数がぎゅうぎゅう詰めになっても、それはそれ自体がなんか面白そうだからやっていることであって、映画のストーリー上なにか意味があるわけではない。

笑いの道はコンピュータに通ず

 マルクス兄弟(特にグルーチョ)の笑いを説明するとすれば、条件反射の笑いと言えるのではないか。グルーチョ(が演じる人物)の脳内に思慮思考は存在しない。彼の脳には一定量の会話のパターンが蓄積されていて、与えられた条件に従ってその中から一つを自動的に引き出しているだけに過ぎない。もしかしたら普通の人間もそうかもしれないが、グルーチョが考慮に入れる条件は一般人に比べて非常にシンプルなのだ。

 一般人ならば当然に考慮する要素を考慮しないことによって生じる状況と言動のちぐはぐさ。これで『オペラは踊る』の笑いの半分ぐらいは説明できる(気がする)。

例:レストランにて

 たとえば、冒頭。

 場所はレストラン。ドリフトウッド(グルーチョ)にディナーの約束をすっぽかされた富豪のクレイプール夫人は怒り心頭。ボーイにドリフトウッドを呼ぶように言う。ボーイは「ドリフトウッド様」と呼びながら店内を歩き回る。すると、クレイプール夫人の後ろで別の女性と食事を楽しんでいたドリフトウッドが注意する。

「私の名前をわめき散らさんでくれ」

 ドリフトウッドが真後ろに座っていたことに気付いたクレイプール夫人は憤然として、「ドリフトウッドさん!」と怒鳴る。

 ドリフトウッドは立ち上がって、ボーイに尋ねる。

「急に声変わりしたのか?」

 彼の脳内に思考は存在しない。自分の名前を呼ぶ声が変わったので、会話相手の声が変わったと思ったのだ。彼の会話相手はボーイであって、そこに第三者が割って入ることは考慮の範囲外なのだ。人間の声が大きく変わるのは声変わりの時だけだから、「急に声変わりしたのか?」という発言が引き出されたのである。

 少し時間は飛んで、別のボーイがドリフトウッドの机に伝票を持ってくる。そこに書いてある値段を見たドリフトウッドは言う。

「こんな法外な額、誰が払うか!」

 これも、彼の脳にプログラミングされているのは「高額の伝票を見たら『こんな法外な額、誰が払うか!』と言う」ということであって、自分が何を注文したかとか、同席している人が誰かとかは彼の中で一切考慮に入っていない。

 そう、マルクス兄弟は稚拙なプログラムで作られた対話型ロボットみたいなものなのだ。

下手なプログラムは無限ループに陥りがち

 マルクス兄弟は無限ループの罠にハマりがちだ。

 まず、オペラ団の団長であるゴットリーブとクレイプール夫人を引き合わせる場面。

「紹介する。ゴットリーブさんにクレイプール夫人だ」

と言った後、ドリフトウッドは延々とゴットリーブとクレイプール夫人の名前を述べ続ける。彼の脳には「片方の名前を言ったら、もう片方の名前を言う」とプログラミングされているので、無限ループにハマってしまったのだ。

 もう一つ、ハーポがラスパッリを気絶させる場面。

 ラスパッリに殴られたハーポはハンマーを使って殴り返す。ラスパッリは気絶する。

 ハーポは「倒れた人を見たら介抱する」とプログラミングされているので、気付け薬を使ってラスパッリを起こすが、彼が起きると「ラスパッリをハンマーで殴る」が発動して再びハーポはラスパッリを気絶させる。

マルクス兄弟はコンピュータを知らない

 この映画が公開されたのは1935年だ。コンピュータの父とされる人物の一人である、アラン・チューリングは当時ケンブリッジ大学キングス・カレッジのフェローに選ばれたばかり。まだ第二次世界大戦も始まっておらず、翌年に2・26事件が起きて、2年後に日中戦争が幕を開ける、そんな時代だ。マルクス兄弟がコンピュータやAIについての知見を持っていたとは考えづらい。

 つまり、彼らはただ単に彼らが思う面白そうなことをやっていた結果、まだ存在しなかったコンピュータ的なものにたどり着いてしまったのだ。コメディアンの創造力、恐るべし。

仮説

 この映画におけるマルクス兄弟の役割は、マスコットキャラクターに置き換えても成立する。むしろ、上に書いたような人工知能的な言動は、人間よりも人間ならざるものとの親和性が高いはずだ。

 人間社会に馴染みのない生物が、ざっくりと人間社会での振る舞いを学ぶ。ざっくりとした学びのため、複雑な現実には適応できずトラブルが発生する。

 こういう話の方が、「謎の変なおじさんが3人いる」よりも論理的整合性はある。(整合的であることが良いことかどうかは分からないが。)

 この映画におけるマルクス兄弟の役割をとても可愛い地球外生命体に担わせれば、全年齢向けコメディーが仕上がるし、そういう映画はきっとすでにある。ただ、残念なことに具体例が全く思い浮かばない。

 もしこの仮説が正しければ、「マルクス兄弟の作った映画の精神は、コント師にではなく、マスコットに受け継がれていた!」と言えそうなのだが……。

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