解雇直前のニュースキャスターが番組内で自殺宣言したら視聴率爆上がりしました。
『ネットワーク』は1976年の映画。監督は『十二人の怒れる男』でおなじみのシドニー・ルメット、脚本はパディ・チャイエフスキー。主演はピーター・フィンチ、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ。アカデミー賞は主演男優賞・主演女優賞・助演女優賞・脚本賞を受賞。
長年ニュースキャスターを務めてきた男ハワード・ビールが解雇された。視聴率を稼げないからだ。やけになったビールは「出演の最終日に自殺する」と生放送中に宣言。社内は騒然とする。翌日、ビールは自殺を撤回するが、ぶっちゃけトークは止まらない。歯に衣着せぬビールはたちまち視聴率を稼ぐスターになった。
会社はビールを重用するようになるが、偽善を捨てた男ビールは諸刃の剣だ。彼はテレビ局のスポンサーに牙を剥く。困った上層部は、ビールを生放送中に暗殺することを決定する。
資本主義を批判する作品はけっこう多いが『ネットワーク』ほど真に迫っている作品もあるまい。
『ネットワーク』内における会社のルールはただひとつ。
「視聴率こそが正義」
これだけだ。このシンプルな一つのルールが物語を前に前に進めていく。これは我々の社会のルールでもある。視聴率とは要するに金だからだ。
「いやいや、お金よりも人間の方が大事だよ」と思うかもしれない。たしかに限られた領域ではそれは真実だ。視聴率第一主義の申し子であるダイアナは会社員としては華やかな生活を送っているが、家庭生活は崩壊している。ウィリアム・ホールデン演じるマックスの役割は、視聴率第一主義が失わせるものを見せることだ。
それでも、マクロな社会の動向や会社という組織の意思を決定するのは金だ。これは間違いない。とはいえ、違法なことをして金が稼げなくなったら困るから普通はリスクの高いことはしない。そこで二つの状況が与えられる。
- ビールの勤めるテレビ局は弱小で、特にニュース部門は大赤字を叩き出している。
- 親会社から派遣されてきた人物が経営改革に取り組んでいる。
要するに、リスクを取ってでも過激な番組作りをするためのインセンティブが登場人物たちには与えられている。
彼らの前に、確実に視聴率を稼げるコンテンツ(=ビール)が突如として現れた。彼らはビールを(文字通り)祀り上げると同時に、ビールを通して、どんなコンテンツがウケるのかを学ぶ。可能な限り成長を求めるのが株式会社だからブレーキは存在しない。こうして番組作りは過激化の一途を辿る。
こうして物語は落ち着くべきところに落ち着く。
このストーリーの中に、現実に起きそうにないことはほとんど存在しない。最も非現実的なイベントは何かといえば、フェイ・ダナウェイが会社をクビになったウィリアム・ホールデンとくっつくことだろう。
実際、この映画が公開された後の時代に、日本のテレビ局は殺人を生放送しているわけで、迫真を超えて予言の域に達している感さえある。
……と感じると同時に、この映画自身が作中の番組と同じ「欺瞞を暴く」系コンテンツになっていることになんとなく居心地の悪さを感じる。果たして私はこの映画に熱狂してしまってよいのか? 過激なコンテンツに簡単に踊らされてしまうのが人間の性だ。