たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その47 ワイルドバンチ

 アメリカの鉄道会社に雇われたならず者たちに追われたならず者たちがメキシコ政府軍に雇われる。

 

 『ワイルドバンチ』は1969年の映画。監督はサム・ペキンパー、脚本はウォロン・グリーンとサム・ペキンパー。主演はウィリアム・ホールデン

 

 これまで西部劇は『真昼の決闘』『シェーン』『捜索者』(『黄金』も西部劇に入れるなら『黄金』も)を観てきた。『ワイルドバンチ』の特徴としては、以下の三点が真っ先に挙がるのではないか。

  • 主人公がならず者
  • 主人公は破滅する。
  • 凄惨な銃撃戦

 やはりアメリカン・ニューシネマの文脈に位置づけてもよさそうである。

 他に印象に残るものといえば、スローモーションだ。激しく切り替わるカットの中でスローモーションが効果的に使われている。

 具体的な作品名はあえて挙げないが、私は攻撃を受けた人物が倒れるのをスローモーションで撮る映画が好きじゃない。テンポを悪くするだけで、なんのプラスにもならない演出だからだ。1秒間の出来事を5秒間に引き伸ばす意味とは? そういう無駄な演出をやっておいて、全体が3時間を超えていたりすると怒りが湧いてくる。

 だが、『ワイルドバンチ』のスローモーションは違う。例えば、冒頭の銃撃戦。銃撃された人物が落下して地面に激突するまでをスローモーションで撮っているが、間に通常スピードのドンパチが細かく挟まれる。ここで起きていることは、時間の引き伸ばしではなく、圧縮だ。「この5秒の間にみなさんにお見せしたこれだけの映像は、本当なら1秒間の出来事なんですよ」ということを表現している。『幽遊白書』の飛影VS時雨戦で使われた演出に近い。(もちろん、客観的にはこれも時間を引き伸ばしているにすぎない。だが、肝心なのは観客が引き伸ばされた時間をどう受け取るかなのだ。)

 中盤でメキシコ軍の兵が撃たれる場面にもスローモーションが使われているが、ここでは兵士が崖から落ち始める部分しか映さず、実時間にして1秒程度のカットにしている。この程度ならテンポは悪くならない。

 橋を爆破するシーンはカットの切り替えもなく比較的長尺の単純なスローモーションだが、橋がリアルガチで崩れる映像は等速だと目で追いきれないし、インパクトも強い。なので全く気にならない。矢がドスっと刺さった人が倒れるのをスローモーションにするのとはわけが違うのである。

 スローモーションの正しい使い方を知りたければ『ワイルドバンチ』を見ろ!

 

 それはともかく、『ワイルドバンチ』は滅びゆく男の美学を描いた映画といってとりあえず大きく間違ってはいないだろう。最も熱いのはラスト。荒くれ者のクズたちが、目の前の娼婦よりも仲間の男のために立ち上がるシーンだ。相手は無数のメキシコ政府軍。対するこちらはたったの4人。勝てるはずもない。それでも男には譲れないものがある。これだ。

 このラストシーンを描くために、主人公たちには褒美が与えられる。金、美女、安全。汚らしいおっさんよりも価値があるように見える褒美だ。この褒美を得るために主人公たちはミッションに挑戦し、見事に成功させる。そして、その褒美を与えるのは、主人公たちが反旗を翻すことになるメキシコ政府軍だ。主人公の仲間エンジェルは、宝をくすねた罰で、市中引き回しの刑*1に処せられる。あざ笑うメキシコ人たち。エンジェルはメキシコ政府軍の将軍マパッチに父も殺され、恋人も寝取られ、挙句の果てに自身が市中引き回し……なんて哀れな男なのか。マパッチからの仕事を受注しなければならなかったのは、主人公たちが死んだ仲間を弔うこともできないほど追い詰められているからだ。時代設定はすでに飛行機が作られている頃。そんな時代に馬に乗ってアウトローを気取っている奴らである。墓場以外に行き場などない。

 

 さて、こうしてまとめてみるとあることに気付く。ワイルドバンチ』と『アパートの鍵貸します』は構造的に同じ作品なのである。

 重要な共通点を挙げていこう。

  • 主人公は双務契約を結ぶ。
  • 主人公は契約を履行することにより、大きな対価を得る。
  • その対価は、主人公にとって非常に価値があるものである。
  • 契約の相手方は、主人公よりも立場が強い。
  • 契約の相手方には、主人公以外の脅威が存在する。
  • 契約の相手方は、主人公にとって本当に大切なものを踏みにじる。
  • 本当に大切なものとは、共に過ごした人間との関係、すなわち愛である。
  • 主人公は契約を破棄する。
  • 主人公は破滅する。
  • 契約の相手方は痛い目を見る。

 いずれも映画の核になる要素ばかりだ。

 大雑把に言えば、双務契約の内容を賃貸借契約にすれば『アパートの鍵貸します』になり、列車強盗の委託契約にすれば『ワイルドバンチ』になる。

 言い換えれば、『アパートの鍵貸します』と『ワイルドバンチ』は同じ関数(f(x)=y的なあれ)を使って映画を作っている。両者で異なるのは、変数(x)にどんな値を入力するかだけなのである。(言うまでも無いが、ここでは色々なことを捨象して単純化している。)

 おそらく『アパートの鍵貸します』と『ワイルドバンチ』を見て、両者が似ていると感じる人は多くないだろう。入力する値によって、出力値は全く異なってくる。映画の印象(面白さの質というか手触りというか)を決定づけるのは関数ではなく入力値である、というわけだ。

 じゃあ関数それ自体は何に影響を与えるのかというと、映画のメッセージ性ではなかろうか。

 ……という仮説を立ててみる。

 この仮説に基づけば、たとえば「『ロミオとジュリエット』は好きだけど『ウエスト・サイド物語』は好きじゃない」という場合に、その人は西洋の時代劇を見るべきだと整理できるし、逆に「『ロミオとジュリエット』も『ウエスト・サイド物語』も大好き!」という場合にはロミジュリ関数で作られた映画を見るべきだと整理することができるはずだ。

 今後はちょっとそういう観点から映画を見てみたい。

*1:ここで言っているのは車にロープで結ばれて地面を引きずられるやつなのだが、正しい市中引き回しの刑は馬の上に乗せられるだけの見せしめだそうです。