2023年10月21日、キングオブコント2023が開催され、サルゴリラの優勝で幕を閉じた。
第一ステージの結果は次のとおり。
- サルゴリラ 482点
- カゲヤマ 469点
- ニッポンの社長 468点
- ファイヤーサンダー 466点
- や団 465点
- ジグザグジギー 464点
- ラブレターズ 464点
- 蛙亭 463点
- 隣人 460点
- ゼンモンキー 456点
今回は全体的にハイレベルな戦いだったように感じたが、見ていて気付いたことがあるので書いていきたい。
コントには型がある
どうやらコントには型があるらしい。今回の決勝戦では、ほぼ全てのコント師が下のようなパターンに沿ってネタを構築していた。
- ルールの提示
- ルールの確認
- ルールの限界の確認
- ルールの再確認
- 逆転
それぞれのネタを具体例として当てはめていきながら、勝敗を分ける要素がなにかについて考えてみる。
ジグザグジギー
最も典型的なのがジグザグジギーのネタだ。
お笑い芸人出身の市長が就任記者会見を行うが、どうにもお笑い芸人の頃の癖が抜けきらないというのがざっくりとしたおもしろポイント。
より具体的には、「市長は政策を大喜利風に発表する」という、このコント内のルールが最初に提示される。コントの中で最も笑いになる要素であり、コントの軸になるのがルールだ。ルールを提示するくだりが文字→絵→市民からの要望という変化を経て一段落がつく。
次に、記者からの質問が始まる。案の定、市長は大喜利のノリで回答を発表する。これは「市長は政策を大喜利風に発表する」というルールが実際にはもう少し広いものだったことを確認するパートだ。「市長は政策を大喜利風に発表する」し、「市長は記者からの質問にも大喜利風に回答する」。まとめるなら、「市長は全てのやり取りを大喜利風に行う」とでも言うところか。
ところが、次の質問で市長のスキャンダルに関する質問が飛ぶと、市長は記者を無視する。自分に都合が悪いことだから答えないのか? と思いきや、最初の記者の質問には同じ質問でも市長は答える。ここで行われていることはルールの限界の確認だ。「市長は全てのやり取りを大喜利風に行う」が、「記者の質問も大喜利風に行われている場合に限る」ということが分かる。これによりルールの全貌が明らかになるのだ。
あとはクライマックスだ。記者は笑点風に質問をする(「今から私が~と質問しますので答えてください。そしたら私が~と聞きますので、~をお答えいただきたい」みたいなやつ)。市長は確実に回答するだろう。実際にそうなる。ルールの再確認だ。
市長の回答を受けて、記者が言う。
「広報の池田くん。座布団持ってきて」
ここで行われているのは逆転だ。最初のシチュエーションから何かが逆転している。これによってオチがつく。ここでは、場を支配していたのは市役所だったはずなのに、記者が場を取り仕切るようになっている、という逆転が起きる。
基本に忠実な、完成度の高い美しいネタだ。ルールの提示までおよそ32秒という早さとルールの強力さ(=市長が大喜利風に話すことの面白さ)にも注目したい。
審査員のコメント
この型を頭に入れてから見ると、審査員のコメントから読み取れるものも変わってくる。彼らは確実にこういうコントの仕組み、笑いを生み出すシステムを踏まえた上でコメントをしている。
ロバート秋山は、大喜利をやるときの顔についてコメントしている。これは「ルールの提示」の巧みさを評価しているのだ。上では当たり前のように書いたが、「市長は政策を大喜利風に発表する」というルールを観客に一発で分からせるのは容易ではない。なぜなら、フリップに書いてあることの中身はいたって一般的な政策にすぎないからだ。もちろん、政策の中身をふざけたものにすれば簡単にルールを提示することができる。が、それでは「ここは真面目な就任記者会見の場だ」という設定が初っ端から崩れることになりかねず、おそらく笑いも半減するだろう。だから、ジグザグジギーはあえてフリップの出し方だけで分からせる困難な道を選んだ。彼ら(というか宮澤聡)は見事にこのミッションを果たしたのだ。
一方で、東京03飯塚は記者が大喜利風に質問をするとかそんなわけないと思っちゃいましたと述べる。これはネタがあまりに型どおりにはまりすぎていることを指摘している。ジグザグジギーは初手で真面目な記者会見の場という設定を守り通したにも関わらず、最終的には設定が少しだけ崩れている(記者もふざけたおちゃらけ記者会見になっている)。なぜそうなったかといえば、上に書いたような型に沿った展開をするためにはそうするしかなかった、またはそうするのがベストだと判断したからだろう。逆に言えば、設定よりも型を重視してしまったというわけだ。なんでもかんでも型にはめればいいわけではない。コントの難しさがここにある。
かまいたち山内は芸人あるあるを見たかったとコメント。これは設定とルールが完全にはマッチしていないことの指摘だ。「市長は元お笑い芸人だから、大喜利のノリで生きている」。一見、筋が通っているように感じるが、一般的にお笑い芸人は大喜利をやるだけの存在ではない。漫才なりコントなりギャグなり、大喜利以外のこともやるはずだし、むしろメインはそっちの方だろう。にも関わらず、ジグザグジギーのネタはあまりに大喜利に偏りすぎている。ということを言っているのだと思われる。本質的には飯塚の指摘に近い。
ゼンモンキー
逆に、自然な流れを重視して構成されているのがゼンモンキーのネタだ。
- 男二人の喧嘩が、神頼みをする高校生に邪魔される。(ルールの提示)
- 喧嘩そっちのけで男たちは高校生と会話を始める。神頼みする高校生の態度が批判される。(ルールの確認)
- 高校生も男たちの恋のライバルだと判明し、恋の三国志の開戦が宣言される。(ルールの限界)
- 再び高校生の賽銭で喧嘩が中断する。(ルールの再確認)
- 高校生の祈りが通じ、彼が恋の勝者となる。(逆転)
という流れ。
無理がない反面、意外性に乏しく展開が読めてしまうのが難点だ。ついでにいえば、ルールがやや曖昧かつ少し弱いかもしれない。
自然であることと、笑いを生む強力な仕組みのどちらが重要かといえば、やはり後者なのだ。(少なくとも、こういう大会においては。)
隣人
全てを不自然にすることで設定の破綻を避けるという方法もある。
- 高い声でホアアアッみたいに言えばチンパンジーも落語を理解する。(ルールの提示)
- チンパンジーが落語家にお辞儀をする。(ルールの確認)
- チンパンジーがそばを啜れず、バナナの皮を剥いてしまう。(ルールの限界)
- 落語家に見捨てられたくないチンパンジーは、そばを啜れるようになる。(ルールの再確認)
- チンパンジーが脱走する。(逆転)
こちらはルールもなかなか強力に思える。にもかかわらず点数が伸びなかったのは、松本人志が指摘するようにルールの提示が笑いのピークだったからだろう。
ルールの提示がピークになってしまったのは、落語家がチンパンジー化して以降、ルールが広がっていかない(あるいは狭まっていかない)というところが原因ではなかろうか。
や団
対照的に、「ルールの適用範囲がどこまでなのか?」をコントの軸にしたのがや団だ。
- 演出家がキレると灰皿を投げつける。(ルールの提示)
- グレーがことごとく演出家をキレさせる。(ルールの確認)
- 重い灰皿を投げるのを躊躇し、ペットボトルは躊躇なく投げつける。(ルールの限界)
- ペットボトルが潰され、重い灰皿だけが残される。(ルールの再確認)
- 怖い演出家が赤ジャージの演技を容認する。(逆転)
ジグザグジギーや隣人に比べるとルールのパワーは劣る。「演出家がキレると灰皿を投げつける」なんて、暴力的だしそれ自体に面白みはない。面白さの比重は、灰皿を投げつけられても気にしないグレーの態度に寄っている。
それでも、や団はジグザグジギーを上回った。巧みな構成がパワー不足を補っているのだ。
一つには、小ボケが散りばめられている。演出家が謎の言葉を使ったり、赤ジャージのシャツに的が書かれていたり。
より重要なのが、ルールの限界の明示をクライマックスまで引っ張ることによって、緊張感を最後まで維持していることだ。「ガラスの灰皿を演出家は投げるのか? 投げないのか?」この謎が観客をコントに引き込んでいく。
明確なルールをいかに展開させるかが重要なのである。
ラブレターズ
一口にルールの展開といっても、展開のさせ方には、実は二つの種類がある。
一つは、や団やジグザグジギーのように、ルールの発動条件を試していく方法。
もう一つは、ルールの発動結果に広がりを持たせる方法。これで盛り上がりを作ったのがラブレターズだ。
- 犬が吠えると壁ドンの応酬が始まる。(ルールの提示)
- 人間が吠えても壁ドンの応酬が始まる。(ルールの確認)
- 吠えているのが人間だと聞き分けられた場合は壁ドンされない。(ルールの限界)
- 壁ドンが爆竹に発展し応酬がヒートアップ(ルールの再確認)
- 彼女の実家がどうかしていることを痛感する。(逆転)
ルールの発動条件(「犬が吠えると」)は少し曖昧で広がりを見せず、ルールの発動結果(「壁ドン」)がどんどんエスカレートしていく。ニッポンの社長も同じ構成だ。
カゲヤマ
ルールの明確さ、広がり、強力さ。三拍子揃ったのがカゲヤマだった。
- 襖の右側を開けると先輩がおそらく全裸で土下座している。(ルールの提示)
- 襖の左側を開けても先輩がおそらく全裸で土下座している。(ルールの確認)
- 下半身は履いていた。(ルールの限界)
- 一旦、謝罪が終わった後に、再び先輩が全裸で土下座する。(ルールの再確認)
- 取引先は激怒している。(逆転)
襖越しにすることで、「先輩は裏でいったいどんなことをしているのか?」という謎も生んでいる。
しかも、このネタはルールの展開が両方向で行われる。ルールの確認では「右の襖を開けたらどうなる」「左の襖を開けたらどうなる」のようにルールの発動条件を展開させている。ルールの再確認では全裸→立つ→クロス引き→まゆゆとルールの発動結果をエスカレートさせていっているのだ。
全要素がハイレベルでありながら、それぞれの要素が喧嘩してもいない。完璧だ。
型を破る
コント作りに型が存在することはほぼ確実だ。
キングオブコントの真理が明らかになった。誰よりも型を極めた者が勝つのだ。ただし、みんなが型どおりのコントを作れば、の話だが。
そう、キングオブコントの勝者は、型を極めた者か、型を破った者のいずれかに決まる。
蛙亭
蛙亭は少し型から外れたことをしている。蛙亭のコントにはルールが二つある。
- ルールA「男はキックボードを使うとコケる」&ルールB「男はわけのわからない主張をする」の提示
- 寿司がぐちゃぐちゃになるより恋人にフラれる方が辛いという女の主張に対し、男はルールBを発動させる。
- 女が恋人とよりを戻せる限りにおいて、男の言い分には道理がある、という形でルールBの限界が示される。
- 去った女を追う時にルールAが発動する。
- 男が玉子コーデであることに女は納得する。
ルールが二つあるうえに、ルールBがやや抽象的だ。本来ならばルールBは「男は恋人にフラれるより寿司が潰れる方が悲惨だと主張する」とでもしたいところだが、これだとルールBの限界を説明できないからこうするしかない。
型など考えずに自由に作られたコントを無理やり型に当てはめているだけでは、とも思う。が、少なくとも無理をすれば、蛙亭のコントは型に当てはめることができるとも言える。(そもそも型に欠陥があるのかもしれないが、より適切な形に変えるのが難しそうなので今日はこのまま行く。)
蛙亭は8位に留まったが、これはルールAがクライマックスに使うには少し弱かったからかもしれない。
ニッポンの社長
もう一組、二つのルールを用いたコンビがいる。ニッポンの社長だ。
- 刺されても死なない。(ルールの提示)
- ピストル、手榴弾、ショットガンでも死なない。(ルールの確認)
- 地雷を喰らえば流石に死にかける。(ルールの限界)
- 死にかけはただの演技だった。(ルールの再確認)
- ケンジがユウコを追いかける。(逆転)
これの裏で働いているのが、「殴られたら刺す」というルールだ。観客は最初、「殴られたら刺す」がこのコントの軸だと思ってしまう。爆発力は抜群だ。死ほど観客の興味を引くものはない。その上で、時間が経つうちに、観客が真のルール「刺されても死なない」に気付くという二段構えの仕組みになっている。
ファイヤーサンダー
ファイヤーサンダーもルールに工夫を持たせている。これまでのルールは登場人物の行動に関するものだった。対して、ファイヤーサンダーのルールはただの事実だ。
- サッカー日本代表のものまね芸人が存在する。(ルールの提示)
- 監督や新しい代表選手にもものまね芸人が存在する。(ルールの確認)
- ゼロから何かを生み出すことはものまね芸人にはできない。(ルールの限界)
- 日本代表に選出されずともネタになる場面さえあればものまね芸人の飯の種となる。(ルールの再確認)
- ものまねの対象が日本代表から外れたが、小西田は格好のネタを獲得する。(逆転)
事実は動かせないから、このネタを展開させていくのは難しいはずだ。特にルールの提示で笑いを取るのは困難を極めるはずだが、ファイヤーサンダーは「本物の日本代表候補と見せかけてものまね芸人だった」とミスリードを使うことでクリアした。審査員にもそういった点が評価されたように見える。
サルゴリラ
蛙亭、ニッポンの社長、ファイヤーサンダーの三者は、型に変化を加えることで独自性を出そうとした。
これに対し、型の破壊と再構築を選んだコンビがいる。サルゴリラだ。
サルゴリラのコントは以下のパターンで構成されている。
- ルールの提示
- ルールの確認
- ルールの破綻
具体的に当てはめると以下のような感じだ。
- マジシャンは分かりづらいマジックをする。(ルールの提示)
- マジシャンは再び似たようなマジックをする。(ルールの確認)
- マジシャンは気持ち悪いマジックをする。(ルールの破綻)
他の競争相手が全て同じ型を用いている中、一組だけ型を破壊した。だから観客は展開が読めない。しかし、ルールは明確で、強力で、展開もしていく。小ボケも散りばめられている。そこは外さない。結果、一味違う笑いが生まれた。
ただ、これは賭けだったはずだ。ルールを破綻させることが吉と出るか凶と出るか。それまでの流れを完全に無視すればきっと滑る。「これまでAだと思っていたルールは実はÅだったのか」と観客が思うくらいの塩梅でなければならないが、安全にいきすぎると爆発力は失われる。絶妙なバランス感覚が求められるに違いないし、なによりどう頑張ったってオチが弱い。型破りも失敗すれば形なしだ。
サルゴリラは勇気ある賭けに挑んだ。そして、勝ったのだ。