たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その74 ラスト・ショー

 高嶺の花は親友と付き合ってるから、自分は先生の奥さんと不倫するぜ!

 

 『ラスト・ショー』は1971年の映画。監督・脚本はピーター・ボグダノヴィッチ。脚本には原作者のラリー・マクマートリーも参加。出演はティモシー・ボトムズシビル・シェパードベン・ジョンソン、クロリス・リーチマン。

 

 1971年にはすでにカラーが一般的だったはずだが、この映画は白黒。そこには当然、意図が込められている。

 タイトルは"the last picture show"で、潰れる映画館の最後の上映を意味している。舞台は1950年頃のテキサス。映画館は押し寄せるテレビの波に揉まれて消えていく。

 というわけで、この映画は「消えゆくもの」を描いている。だからすでに廃れていた白黒映画にしたというわけだ。もっといえば、アメリカン・ニューシネマ以前の古き良き映画を表しているかもしれない。

 映画とテレビには決定的な違いがある。映画は映画館にみんなで集まって見るものだが、テレビは家の中でもっぱら家族で見るものだということだ。実際、映画の冒頭で主人公が恋人と落ち合うのは映画館だ。映画からテレビへの移行は、関係性の喪失も表している。

 

 高校生の主人公サニーは付き合って一周年だというのに挿入させてくれない恋人を振る。サニーが本当に好きなのは、親友のデュエーンと付き合っている美しいジェイシーなのである。

 フリーになったサニーは、体育教師の奥さんルースと不倫関係になる。こっちはインサートさせてくれそうだったからだ。

 サニーはオープンでお硬い恋人(=ヘイズ・コード時代の映画)からクローズドで緩い人妻(=テレビ)に移行する。緩いといっても尻軽なわけではなく、夫に見放された寂しい人妻であることは言い添えておこう。

 そんなサニーを、淫乱と化したジェイシーが襲う。全裸プールパーティーに参加してからというもの、性に興味津々となったジェイシーにとってサニーは格好の餌食だったのである。サニーが誘惑に負けることは言うまでもない。若くて美人でほぼ確実にゴールインできる女性と初老の人妻。どうして後者を選ぶことがあろうか? テレビのチャンネルを変えるように、性交渉の相手も乗り換え自由。それがこのゲームのルールなのだ。

 しかし、二人の結婚はジェイシーの親に阻まれる。おそらくはサニーがルースと不倫していることが知られているからだろう。ジェイシーはダラスの大学に行ったっきり帰ってこなくなってしまう。きっと相変わらず奔放な性生活をエンジョイしているに違いない。

 ジェイシーも、デュエーンも、その他の大切な人々も失ったサニーは、ルースのもとに帰っていく。目先の欲望に負けて弱者を踏みにじることの愚かさを彼は知ったのだ。

 

 ポイントは、ルースがサニーに比べると老いた女性であることだろう。彼女にも若い頃があったはずで、新婚の頃には夫との間に愛があったかもしれない。サニーが全てを失うよりも前に、ルースは全てを失っていた。この映画で描かれているようなことは、歴史上、形を変えて何度も繰り返されてきたのだ。

 サニーの行いは愚かなものだったけれど、果たして彼に正しい道を歩む余地はあったのか? そもそも正しい道とは? 結局のところ、誰にも正しい選択など分からない。仮に分かったところで、自分の力で変えられることなどたかが知れている。出会い別れるのが人生なのだ。

 この世に永遠のものなど存在しない。映画監督が頑張って永遠の美を表現したとしても、観客が感じるのは虚しさだけだろう。映画の中では永遠のように描かれていても、後日談では滅びているのだろうと考えてしまう。さもなければ、こんなものは嘘っぱちだと白けた気持ちになる。

 だが逆に、諸行無常を感じる時、人の心には永遠への憧れが生じる。その時、人は永遠がいかに美しいものかを思い描いている。人が永遠の美しさを感じるのはこの瞬間なのだ。

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