アメリカ映画ベスト100制覇への道:その11 フィラデルフィア物語
『フィラデルフィア物語』は1940年の映画。監督はジョージ・キューカー、主演はキャサリン・ヘップバーン、ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワートだ。
『赤ちゃん教育』のキャサリン・ヘップバーン、ケーリー・グラントコンビに、『スミス都へ行く』のジェームズ・スチュワートが加わり、『風と共に去りぬ』の監督を一時務めたジョージ・キューカーの手になる作品だ。これは見る前から期待値が上がる。
ストーリーを一言でまとめると、「セレブのバツイチ女性が再婚して開こうとしている結婚式に、元夫が記者を引き連れて乗り込む話」となる。
ここでこれまで得た知見からハリウッド映画の特にスクリューボール・コメディでは定番のお約束があることがわかった。
ヒロインは上流階級がち
『或る夜の出来事』『赤ちゃん教育』そして『フィラデルフィア物語』。これらすべてでヒロインは上流階級の令嬢である。ついでにいえば『風と共に去りぬ』もそうだ。
なぜかは分からないが、三つの説を考えた。
1つ目は、キラキラした恋愛を描きたいと思ったら、キラキラした人たちを主人公にすべきでしょ説。現代でも、大富豪の子息令嬢やなんでもできるスーパーマンを主要人物として登場させる恋愛漫画は多い。『花より男子』は大金持ちの男たちを相手役にしているし(読んだことないけどたぶんそう。あと『桜蘭高校ホスト部』もこのパターン。)、『彼氏彼女の事情』はテストの成績が学年トップワンツーの男女の恋愛を描いている。
2つ目は、未熟なヒロインを描きやすい説。人が成長する姿を描くのは物語では鉄板だが、成長するには成長前の状態がなければならない。成人になっても未熟な存在として、真っ先に思い浮かぶのがまともな教育を受けてこなかった人間が思い浮かぶが、それの一つの類型として甘やかされて育ったお嬢様があるというわけだ。学校に通わなかった人(さらに広く捉えれば低い階級の人)なんてのも思い浮かびそうであるが、これは逆に社会の荒波に揉まれてそう感がある。
3つ目は、変人を描きやすい説。スクリューボール・コメディはコメディだけあって主人公に突飛な行動をさせたいのだが、まともな大人はなかなか突飛な行動は起こさない。ところが、甘やかされて育った上流階級のお嬢様が一般庶民の世界に放り込まれたらどうなるだろうか。一般庶民には予測もつかないことをしそうだ。それでいて、観客が不快感を(それほど)抱かず、むしろそれをヒロインの魅力として捉えることができそうでもある。
おそらくは、このどれもが正解だろう。
『フィラデルフィア物語』では、ヒロインの住むキラキラした豪邸や、家の中にあるプールで泳ぐ姿が描かれる(そしてこのプールが物語上重要な役割を果たす)。
『フィラデルフィア物語』は完璧であるがゆえに傲慢な主人公が欠点を許し許される関係を築けるかという成長物語になっているし、フィアンセは上流階級ではないところから成り上がった人物でヒロインはそこに惹かれているという設定になっている。
『フィラデルフィア物語』で最もコメディータッチなのは、ヒロインの一家が覆面記者を「いつもどおり」出迎えるシークエンスだ。ここでは一般庶民とはまったく違う振る舞いが描かれている。
余談だが、個人的にこの映画で一番好きなのは、主人公の妹ダイナが「私ピアノの弾き語りができるのよ」となぜか"Lydia the Tattooed Lady"を歌うシーン。自慢気にポアントで歩く姿が愛らしい。表情が素晴らしい。(主人公のトレイシーが「素敵なショパンね」と言っているが、もちろんショパンなわけはなく前年公開の『マルクス兄弟珍サーカス』の劇中歌らしい。)
主要人物に新聞記者出てきがち
『市民ケーン』『或る夜の出来事』の主人公は新聞関係の仕事をしている。『フィラデルフィア物語』でもジェームズ・スチュワートにあてがわれたのが新聞記者で、ヒロインとなんかいい感じの雰囲気になる重要な役割を果たしている。
おそらく、この頃のメディアといえば新聞が最も強く、最もイケイケの商売だったのではないかという気がする。しかも、新聞記者のスキャンダルを追う性質が非常に扱いやすかったのだろう。
なので1960~1970年代あたりになってくるとテレビ局員が頻繁に登場するようになるのではないかと予想。
結婚の約束は破られがち
婚約している主人公はだいたい婚約を破棄するかされる運命にある。
『赤ちゃん教育』と『或る夜の出来事』でもそうだったが、『フィラデルフィア物語』でもやはりそうなった。スクリューボール・コメディでもないし主人公でもないが『スミス都へ行く』でもそうだった。
まあ、現代において、恋する二人を阻むものは、かつて自分自身がした約束くらいしかないということだろう。その約束で最も強固なものが結婚、その次が結婚直前の婚約ってところかもしれない。
結婚式は当日におじゃんになりがち
結婚式はおじゃんになりがちだが、そのタイミングは当日、もっといえば結婚の宣誓に近ければ近いほどよさそうだ。
『或る夜の出来事』では宣誓のまさに最中にヒロインが逃亡する。『フィラデルフィア物語』では結婚式の会場の準備がすでに整っているのに、婚約が破棄される。『フィラデルフィア物語』のタイミングが微妙に早いのは、結婚式自体は執り行うためだ(どういうことかは本編でご確認いただきたい)。『赤ちゃん教育』では結婚式前日に婚約を解消されてしまうが、これは『赤ちゃん教育』はラブロマンス色が薄いためではなかろうか。
恋人を取り替えるなんてのは当事者にとっては一大事だが、他人からすればどうでもいいことである。これをドラマティックに見せるには、やはり取り返しのつかない(ように思える)代償が伴っている方がよいということであろう。結婚式の準備が進んでいけばいくほど取り返しのつかなさが増していき、そのピークが宣誓のシーンになるというわけだ。
三角関係から一歩進んだフィラデルフィア物語
というわけで、『フィラデルフィア物語』もまたスクリューボール・コメディのお約束がつまった映画なのだが、『或る夜の出来事』や『赤ちゃん教育』とは一味違う点がある。
これらの2作品では、婚約者は存在するものの物語にほとんど登場せず、主人公の心に影として存在していたにすぎなかった。形式上は三角関係を描いているものの、実態としては男性主人公と女性主人公の一対一関係のみを描いてきたのである。
『フィラデルフィア物語』でも、婚約者がストーリー上活躍しない点は変わらない。が、ここにもう一人恋のライバルが登場するのである。それがジェームズ・スチュワート演じる新聞記者である。形式上は三角関係から四角関係に、実態としてはついに三角関係を描くに至ったわけである。
こうしてラブロマンスに「主人公はどちらを選ぶのか?」というサスペンスがもたらされた。『true tears』も『とらドラ!』も、『フィラデルフィア物語』なくしては名作たりえなかったといっても過言ではないかもしれない。(いやどうだろう。過言な気もする。とはいえ、「一夫一婦制かつ自由恋愛」が成立したのがわりと最近の話だとすれば、本格的な三角関係を描いた作品の歴史はそこまで古くもないかもしれない。)
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