陪審員の意見が全員一致しないと評決に至れない中、一人の男だけが被疑者の無罪を主張する。
『十二人の怒れる男』は1957年の映画。監督はシドニー・ルメット、脚本はレジナルド・ローズ。主演はヘンリー・フォンダ(『イージー・ライダー』のピーター・フォンダのパピー)。
『十二人の怒れる男』は密室劇の傑作として(そして陪審員制度を学ぶ格好の教材としても)名高い。つまり、約90分の上映時間のほとんどが、一室の描写に使われるのである。
「なぜ場所が変わらないのに面白いのか?」
という問を立てたくなるが、それを考えるにはまず、「なぜ他の映画では場所を変える必要があるのか?」ということを考えねばなるまい。
すぐ思い付くのは「ネタが尽きる」「飽きが来る」というのがある。たとえば、マルクス兄弟の『オペラは踊る』は、一つのシチュエーションで延々とコントを続けていたらほぼ確実に飽きる。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』も同様である。一つのシチュエーションでできることは限られているしマンネリに陥るから、一定時間が経過したら場面を切り替えた方がいい。これは間違いないように思える。
しかし、それだけだろうか? ほかにもっと本質的なものはないのだろうか?
ここで手がかりになるのが『パルプ・フィクション』を観た時に考えたことである。すなわち、「ドラマは、他人のテリトリーを侵害する時、あるいは自分のテリトリーを侵害された時に生じるものなのである」という理論だ。
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宝物を探しに行く時、主人公は他人のテリトリーに侵入し、それによりトラブルが発生する。銀行に家を奪われた時、主人公たちは自分のテリトリーを失い、他人のテリトリーをさまよい歩く。波止場で殺人が発生した時、犯人の部下が教会に潜入し、感化されてしまう。
物語にはテリトリーの侵害が不可欠だとすれば、自ずと密室劇は成り立ち難くなる。
それを前提として、『十二人の怒れる男』がなぜ密室劇なのに面白いのか?を考えてみよう。
答えはもう明らかだ。鍵は陪審員たちが放り込まれる部屋にある。
そこは裁判所の一室。法の論理が支配する空間であって、男たちが日常生活を送っている場所とは質的に全く異なる。ここではどんなに疑わしくても疑いにとどまるのであれば罰してはいけない。野球観戦がしたいから逃げ出すなんてことも許されない。みんなが言っていることに同調してもいけない。自分の頭で考えなければならない。私情を持ち込んではいけない。(もちろんそれは理想論であって、現実はそうはいかない。しかし、だからこそドラマになるわけだ。)
十二人の陪審員たちは、この裁判所のテリトリーに放り込まれて居心地の悪さを感じ続ける。それが蒸し暑さによって表現されている。
密室劇の本質は「一つの部屋で物語が進行する」ことにあらず。「全く馴染みのない領域に人を閉じ込める」ことにある。
とはいえである。
それだけでは「ネタが尽きる」「飽きが来る」問題については解決されない。この点を『十二人の怒れる男』はどのようにクリアしているのだろうか?
まず最初に、この部屋における二つのルールが提示される。
この瞬間に、この部屋の中の会話はゲームと化す。プレイヤー(陪審員)の目標は、全員の意見を一致させることだ。
ゲームはある程度難易度が高くないと面白くない。特に映画の中では最高難度が求められる。だから最初の投票の結果はこうなる。
有罪:11
無罪:1
ヘンリー・フォンダはこの逆境を覆し、11人全員を翻意させなければならない。
プレイの成果は、この後たびたび繰り返される投票によって可視化されていくことになる。観客はオセロの真っ黒な盤面が白くなっていく様子を楽しめばよいわけだ。
しかし、まだ問題は残っている。「11人を翻意させる」というのは少し漠然としている。より具体的な中間目標が必要になってくる。
そこで、最初の投票の後、ヘンリー・フォンダが11人を説得するための障壁が提示される。たとえば……
- 少年の持っていたナイフの柄は特徴的であった。
- 階下の老人が殺害時の少年の声を聞き、少年を目撃している。
- 向かいのアパートの婦人が、殺害現場を目撃している。
- 少年のアリバイである映画のタイトルを彼は覚えていなかった。
これらの障壁を崩せば、目標はきっと達成される。「11人を説得する」という曖昧なミッションが一気に具体的なものとなった。
ちなみに、一般的な推理小説では、この障壁崩しのために現場を回って証拠集めを行う。この映画では、すでに証拠集めがいくらか完了した状態から話が始まる。だから部屋から出なくてもネタが尽きることはない。すでにネタは十分にある。証拠の意味を考えていく過程がストーリーを構成する。証拠は十分でないかもしれないがかまわない。陪審員制度をテーマにしたこの映画で行うべきことは謎解きではなく、謎が解かれているかの確認だからだ。
この映画が面白くなるための土台はできた。あとは細かい味付けだ。
ただ面白いだけでない、深い味わいを映画に与えるには、このゲームをただのゲーム以上のものにしなければならない。ここで行われるのが、登場人物、すなわち十二人の怒れる男と事件との繋がりを、陪審員という立場以上のものにする作業である。
たとえば、陪審員制度は民主主義の体現だから、陪審員の一人は移民にしよう。息子が父を殺した容疑で裁判にかけられているから、最後まで有罪を主張する男は殺された父親のような男にしよう。……みたいな感じ。
『SAW』はこの点をゲームクリアの鍵とした映画だった……ような気がする(観たのがだいぶ前なので記憶が曖昧)。
このようにして『十二人の怒れる男』は「飽きが来る」問題をクリアしたのである。
これが密室劇の「正解」のように思えるが、『裏窓』は上に書いたことのどれにも当てはまらない。ヒッチコックはすごい。