たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

卵と納豆を前にした時、私たちは人生を問われている

今週のお題「納豆」

 

 幼い頃の私にとって、祖父母の家に帰省した時にだけ食べられるスペシャルな食べ物があった。

 納豆卵かけご飯である。

 黄金に輝く卵の黄身。無数の泡の中に沈む大粒納豆。湯気を上げる白米の上にかけていく。それが私にとっては何にも勝る御馳走だった。

 今にして思えば、納豆はせいぜい1パック100円。安いものなら20円前後だろう。そして卵は高騰気味の今ですら1個あたり20円程度で購入できる。つまり、私の御馳走は100円にも満たないものだった可能性が高い。

 だが、それは納豆卵かけご飯が思っていたほど価値がなかったことを意味するわけではない。値段で味は変わらない。同じ美味なら安いほうが便益とコストの差が大きいわけだから、むしろ思っていた以上に価値が高かったとさえ言って良い。

 肝心なのは、もしあの時、卵を納豆と混ぜずに目玉焼きにしていたら、私はどう感じていただろう?ということである。

 言うまでもなく、私はいつもと変わらないごくごく平凡な朝食だと思ったはずだ。(さらに言うなら、卵を使って目玉焼きを作るのは納豆と混ぜるよりもわずかにコストが高い。)

 全く同じ食材を使っているのにも関わらず、達成されるものには天と地ほどの差がある。これは重大なことを意味している。

 

「あなたの手元に卵と納豆がある。さて、あなたは何を作る?」

 

 これは我々が人生において常に問われ続ける問題だ。

 例えば、サッカーの日本代表監督ならば、伊東や三笘などの優れた選手をどのフォーメーションのどのポジションに置いて、どう連携させるかが問われる。同じ選手を用いても、それをどう使うかで結果は全く異なるはずだ。

 さらに別の例を挙げれば、江戸末期と明治初期。日本国民の顔ぶれはほぼ同じだっただろうが、それぞれは似て非なる社会だったはずだ。

 私たちの手元には様々な食材がある。何を持っているのかは人によって異なるが、自分の手持ちで料理をしなければならないことは誰にとっても変わらない。

 卵を使って目玉焼きを作ることも間違いではない。栄養の面から見ればそちらの方が良いかもしれないし、目玉焼きの方が好きな人もいるだろう。何を作れば良いのかもまた、人によって異なるというわけだ。

 私にとっては、卵かけ納豆ご飯こそがたまにしか食べられない御馳走だった。総額100円にも満たない食材で作れる料理が、ステーキよりも、蟹よりも記憶に残っている。

 親の実家で食べた卵かけ納豆ご飯は、私に人生の可能性を教えてくれていたのだ。