ボクシングチャンピオンはDV夫だった。
『レイジング・ブル』は1980年の映画。監督はマーティン・スコセッシ、脚本はポール・シュレイダー。主演はロバート・デ・ニーロ、助演にキャシー・モリアーティとジョー・ペシ。
実在のボクサー、ジェイク・ラモッタの自伝が原作のこの作品。(映画の中の)ジェイク・ラモッタは本当のクソ野郎である。負けた腹いせに周囲に当たり散らし、不倫でゲットした妻が不倫しないかいつも怯えていて暴力で妻を支配しようとする。唯一の取り柄であるボクシングでも八百長に手を染めるし、引退後に始めたナイトクラブでは未成年というか中学生を働かせるわジョークがクソつまらないわ……良いところが一つもない。
こうして見てみると、彼の罪は全てボクシングに起因する。負ければイライラするし、負けなくたって減量は辛い。トレーニング中は妻が遊んでいないか不安で仕方ない。ボクシングで頂点に立ちたいから八百長に協力してしまう。ボクシングで得た金で身に釣り合わない夜の店の経営を始め、チャンピオンベルトを手放せず牢獄に打ち込まれる。
『波止場』の主人公は不正のためにチャンピオンになれず腐っていたが、ラモッタはチャンピオンにまで上り詰めたが腐り果てている。八百長さえしなければ幸せな人生が待っていたのか? それとも八百長に関わらなかったとしても、彼はクズだったのか? いったいボクシングとはなんなのか?
一般的にスポーツを題材とした時、スポーツに取り組むことは美徳として描かれがちだ。頂点を目指して頑張っている選手の姿は美しいし、多くの人がスポーツには楽しい思い出を抱いている。甲子園で優勝した高校は持て囃される。その高校が野球を楽しむことをモットーに掲げていれば「スポーツは楽しいのが一番だよね」と称賛され、その高校の勝因がエースの連投によるものなら「痛みに耐えて頑張る姿が感動を誘います」と礼賛されるのである。
しかし、スポーツは必ずしも美しいものではない。勝利に価値を持たせる現代のスポーツ市場は、勝利至上主義を生み、それが選手の心身を破壊することがある。靭帯損傷や骨折はスポーツをやっていれば普通に起こりうる。特にボクシングは死亡事故も多く発生する危険な競技だ。
スポーツはただのゲームに過ぎない。ただのゲームに良いも悪いもない。そこにどういう意味を持たせるかは、スポーツに関わる本人にかかっている。これはスポーツに限らず、人間が信仰するあらゆるものに通じて言えることでもある。
スポーツの熱狂を再現することを試みる映画もあれば、スポーツの熱狂の裏側にある悪徳を糾弾することを試みる映画もある。しかし、『レイジング・ブル』はあくまでも一人の人間の人生を描いている。人生の中にボクシングがあったことを描いている。ボクシングに対するマーティン・スコセッシの眼差しは驚くほど冷淡だ。
落ちぶれたラモッタは、間抜けなシャドーボクシングをして己を奮い立たせる。彼にとってボクシングは救いなのだろうか?