たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

初めて乃木坂46のライブに参戦しました。

 私は恐怖に震えていた。

 一万人を超える男たちが声を一つにして叫び、両手に持った棍棒を振っている。

 遅れを取れば、殺される――。

 

 アイドルのライブと野球観戦は似ている。

 そんな風に思っていた。

 大勢の客を広い会場に呼び込み、ファングッズを売ることで利益を得る。ファンは選手のユニフォームを身にまとい、選手の名前が入ったタオルを掲げて応援する。

 エンターテイメントであるという点を除けば全く異なる二種類の興行において、共通点がこれだけあれば似ていると言ってよいだろう。

 

 だが、それは違った。

 野球の観客は大衆に過ぎない。選手の名前を覚えていない客は多いし、試合よりビールに夢中な客だって珍しくない。球場は社交場としての色合いも濃い。(少なくとも内野席は。)

 それに対して、2023年9月30日の横浜アリーナに詰めかけた男たち*1は、軍勢と呼ぶべきものだ。入場資格でもないのにほとんどの人間がサイリウムを所持しており、その色、動き、コールは統制されている。いったい、誰が指揮をしているのか?

 一万人の圧力が、光となり、音となり、振動となり、押しつぶそうとしてくる。

 乃木坂46のライブ初参戦の私は、自分が一人だけ浮いているような気分がした。

(敵国に入り込んだスパイとはこういう気分なのだろうか……)

 しかし、それは妄想にすぎない。

 この危険な(?)男たちの視線は、ただ一点。ステージ上に注がれている。

 そう、この大軍勢と本当に対峙しているのは、あの13人のうら若き乙女たちだ。

 一人千殺――。

 それが彼女たちに課せられた使命。

 持たされた武器は一本のマイクだけ*2

 

 スパルタ兵と違って、彼女たちは生まれた時から過酷な訓練を受けて選抜され鍛えられてきた存在ではない。

 5期生の小川彩、冨里奈央、奥田いろは、中西アルノに至っては2年前まで素人だった。

 考えてみてほしい。あなたが2年後に横浜アリーナを埋め尽くす群衆の前で、それも統率の取れた群衆の前で、パフォーマンスをすることを。

 普通ならば、彼女たちはこのステージに立つことすらままならないはずなのだ。

 だが、どうだろう。

 今、13人の全員が堂々たるパフォーマンスを披露しているではないか。

 特訓、訓練、練習、演習。

 表には見せない努力に思いを馳せる。白鳥の足のもがきは、白鳥の汗が生み出した湖面によって隠されている。

 それだけではない。楽曲を制作したアーティストたち、振付師、演出家、カメラマン、ライティングや音響のスタッフ、トロッコを押したり通路から観客が飛び出さないようガードしたりするスタッフ……大勢の裏方への信頼なくして、彼女たちが自信を持つことは不可能だろう。

 そして何よりも、同じステージに立つ(あるいは立てなかった)仲間たちとの友情が、彼女たちを支えている。

 一万人の大軍勢を指揮しているのは誰か?

 その問の答えの一つは、13人のアンダーメンバーだ。

 

 2メートル先に、松尾美佑がいた。

 乃木坂46のメンバーがトロッコに乗って流されていく。

 平面から放たれる光の点の集合ではない、立体的な有機物の集合体としての佐藤楓が眼の前にいた。

 テレビで見たとおりの姿だが、何かが違う。テレビの映像は、実体をカメラのレンズによって歪め、テレビの性能に応じて抽象と加工を施したものに過ぎない。大画面テレビに映る彼女たちの顔の大きさはアップになれば30cmを超えるし、逆にロングなら5cm程度に縮小してしまう。

 しかし、現実の彼女たちの顔の大きさはおそらく20cm前後で、超短期的に見ればそのサイズは不変だ。奥田いろはが奥田いろはのサイズのまま近づいてきて、離れていく。清宮レイに当たった光が反射されて、直接的に私の目に入る。私はこのとき初めて、彼女たちの実体の美しさを目の当たりにしたのである。

 気付けば足の震えは治まっていた。私は知らぬうちに、13人のワルキューレによって命を奪われ、ヴァルハラに誘われていたのであった。

*1:女性も少なからずいたが、やはり男性の割合は高かった。

*2:ヘッドマイクだった気もするが