たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その87 ゴッドファーザーPARTⅡ

 マフィアのボスの暗殺に、ボスの兄が関与していたかも。

 

 『ゴッドファーザーPARTⅡ』は1974年の映画。監督・脚本はフランシス・フォード・コッポラ。脚本には原作者マリオ・プーゾも参加。主演はアル・パチーノロバート・デ・ニーロアカデミー賞は作品賞・監督賞・脚色賞・助演男優賞・作曲賞・美術賞を受賞。

 

 前回、どんな起業家にも訪れる二つの人生の転機があると書いた。起業の時と会社が自分のものでなくなる時だ。そして、前作『ゴッドファーザー』は後者を描いた物語だった。

 となれば、続編でやることは一つしかない。「起業の時」を描くのだ。というわけで、今作の半分はヴィトー・コルレオーネがマフィアになるまででできている。

 もう半分は、ヴィトーの後を継いだマイケル・コルレオーネの物語。後継者には、別の避けられないイベントが待っている。後継者争いだ。

起業の時

 前回も書いたが、起業の話には、成り上がっていく高揚感と、その代償として何かを失う悲しみが付き物だ。他の作品で思い付くのは、『ソーシャル・ネットワーク』『市民ケーン』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『ファウンダー』などなど。

 成り上がりの楽しさを演出するには、落差が重要だ。低い山を登るより、高い山を登ったほうが達成感がある。山の中腹から登り始めるより、麓から登り始めたほうが達成感がある。つまり、起業する主人公は上流階級とは隔絶された存在である方がいい。『ソーシャル・ネットワーク』において、マーク・ザッカーバーグはハーバード在学のエリートではあったものの、所詮はただの大学生であり、学内の地位は低かった(これを明確にするためにエリート中のエリートであるウィンクルボス兄弟が用意されている)。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のジョーダン・ベルフォートは証券会社の新人だったし、『ファウンダー』のレイ・クロックはしがない営業マンでしかなかった。『市民ケーン』に限っては例外的に大富豪の養子だが、逆に言えば『市民ケーン』の肝はそこにあるというわけだ。ただし、ケーンのビジネスは養父に反対されていて支援はなかったわけだから、やっぱり落差をつけることは意識されている。

 では、ヴィトー・コルレオーネはどうかといえば、彼は家族をマフィアに殺され、幼くして単身ニューヨークに流れ着く。上に挙げた人物の誰よりも絶望的な状況だ。ヴィトーは無事に成長するが、またしてもドン・ファヌーチというブラックハンド(マフィア)に職を奪われる。それでも盗みでなんとか生計を立てるヴィトーに、ドン・ファヌーチが金をたかり始める。

 ここにきてヴィトー・コルレオーネはドン・ファヌーチを殺害し、犯罪者としての頭角を現していく。彼の成功譚は、家族を殺害したマフィアへの復讐が成就した時にピークを迎える。

 だいたいの起業家物語には斬新なアイディアがつきものだが、ヴィトーの物語にはそれがない。生死がかかっているだけに敵への憎悪は他作品より深いものの、これだけで一本の映画として成立するかというと微妙なところだ。

 そう、この映画の本筋はあくまでマイケルのストーリーで、ヴィトーの話は対比として描かれているに過ぎない。成り上がる代償として何かを失う悲しみも、マイケルが背負わされることになる。

後継者争い

 ヴィトーが築き上げた権力は、ヴィトーが死んだことで宙に浮く。これを誰が掴むかというのは非常に重要な問題で、「ヴィトーから受け継いだ」というだけではマイケルの地位は安定しない。ヴィトーの権力を欲しがる第三者や、マイケルと反りが合わない勢力がマイケルの命を狙うかもしれないからだ。

 権力を維持するには正統性が大切だ。ヴィトーには自ら権力を築き上げたという正統性がある。ヴィトーが存命中に彼を殺しても、ヴィトーの築き上げた権力を奪い取ることは難しい。殺害者には正統性がないからだ。ヴィトーを殺して確実に得られるのは競争のチャンスに過ぎず、ヴィトーの権力そのものではない。たとえば、明智光秀織田信長を暗殺したが、信長の権力を奪うには豊臣秀吉に勝たないといけなかった。信長暗殺だけでもリスキーなのに、VS秀吉に勝たないといけないなんて。難易度が高すぎる。というわけで、むやみに争いを起こすくらいなら、権力者の下で働く方が安全に甘い汁を吸えて良いじゃないか……と多くの人は考える。

 対して、マイケルの正統性はヴィトーとの血縁にある。ヴィトーと異なり、マイケルの権力はマイケルを殺すことで奪うことができる。ヴィトーと血縁関係を持つもう一人の男、フレドならば。彼にも正統性があるからだ。

 父の権力を巡る兄弟の闘争。これこそが『ゴッドファーザーPARTⅡ』の軸だ。権力者の死はいつの世も骨肉の争いを生み出してきた。壬申の乱源義経の暗殺、応仁の乱などなど。繰り返されてきた歴史の波に、マイケルも飲み込まれてしまう。(とかなんとか偉そうに書いているが、特に後継者争いに関して知見があるわけではないのであしからず……。)

 つまり、家族を殺さねばならない悲しみこそが『ゴッドファーザーPARTⅡ』の肝となる。ここにきて、ファミリーを築き上げたヴィトー・コルレオーネとの対比が効いてくる。

 さらにダメ押しの一手として、脚本家はフレドを心優しき愚か者として描いた。対抗馬が常に野心家とは限らない。実力者に利用されているだけということもある。フレドはまさに、もう一人の敵ハイマン・ロスに利用されただけの愚か者だった。実力で勝るマイケルには、フレドを生かすこともできるし、殺すこともできる。短期的に見れば、フレドを殺さなければ自分が殺されるという状況ではない。だからこそ、マイケルの選択はより重く、無慈悲に見える。

家族という呪い

 マイケルはやり方を間違ったのだろうか? たしかに、妻に逃げられ、兄やその他の関係者を殺してどんどん孤独になっていくマイケルを見ると、そう思いたくなる。

 だが、ヴィトー・コルレオーネを殺せなかったドン・チッチは結局、彼の予想どおりヴィトーによって殺された。禍根を残せばいつか報いを受ける*1。マイケルの選択が(彼のためには)正しかった可能性を、父ヴィトー・コルレオーネが示している。

 マイケルに明白な誤りがあったとすれば、それはコルレオーネファミリーを受け継いだことにほかならない。マフィアの2代目のボスになった時点で、彼が残酷な運命に翻弄されることは決定づけられていた。

 マイケルは好き好んでコルレオーネファミリーを受け継いだわけではない。父親のために受け継いだのだ。父を愛しているからこそ、父の遺産であるマフィア稼業に苦しめられる。遺産を放棄すれば父を裏切るようでやはり辛い思いをするはずだ。これは家族という名の呪いなのだ。ちなみに、フランクもまた呪いのために死んだ一人だ。

 後継者不足が社会問題になったり、「親ガチャ」が流行語大賞にノミネートされたりする昨今。『ゴッドファーザーPARTⅡ』はもしかしたら公開当時以上に、迫真性を持っているのかもしれない。

*1:余談だが、ここも源頼朝っぽい。