たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その62 カッコーの巣の上で

 暴行罪を繰り返し精神疾患を疑われた男が精神病院に入院させられる。

 

 『カッコーの巣の上で』は1975年の映画。監督はミロス・フォアマン、脚本はローレンス・ホーベンとボー・ゴールドマン。主演はジャック・ニコルソンアカデミー賞は主要5部門を受賞。

 狭いコミュニティに異分子が入り込んで、コミュニティが変容していく話。舞台は精神病院で、抑圧的な社会の象徴として描かれている。

 制作年代から分かるかもしれないが、アメリカン・ニューシネマなので、倫理観は崩壊していて悲劇的な結末で終わる。主人公は精神病院のあり方に反発して反逆を起こす。主人公が反逆すればするだけ反動もあり抑圧が強くなっていく。摩擦がピークに到達した時に悲劇が起きて、それをきっかけとして破滅が訪れる。という筋書き。

 すごく分かりやすい。

 

 舞台を荒れた学校に、異分子を熱血教師に変えると『3年B組金八先生』になる。さらに異分子を元暴走族に変えると『GTO』になる。舞台を教室でなく部活にすると『ROOKIES』になる。あるいは舞台を底辺高校に、主人公を元不良の弁護士にすると『ドラゴン桜』になる。

 狭いコミュニティといえばまっさきに思い付くのが教室だが、異分子の役割を担うのが教師であることが多いのは興味深い。

 ついでにいえば、同じ学園を舞台にしていても、テーマが学校の秩序の乱れから受験に変遷していくのが社会情勢を反映しているような気がしなくもない。今の時代なら、敏腕経営者が学校というブラックな職場を改善していく話になりそう。

 ハリウッド映画だと、舞台を弱小プロ野球チームに、異分子を統計学徒にした『マネーボール』がある。異分子を最先端の知識を持った人物にすればいいわけだから、『カッコーの巣の上で』のストーリー形式は「マンガで分かる◯◯」みたいなストーリー仕立ての実用書と親和性が非常に高い(はず)。『もしも高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』も、異分子をドラッカーの『マネジメント』と捉えれば似たようなものと言えるかもしれない。

 

 『カッコーの巣の上で』以外の話の方が多くなってしまったので、もう一度『カッコーの巣の上で』の話に戻ろう。精神病院という舞台設定について考えてみたい。

 精神病院は、学校やプロ野球と違って、多くの人にとって馴染みのない場所だ。忘れ去られた場所、見ないようにしている場所と言ってもいいだろう。そういった場所を観客の意識に上らせるというだけでも面白みがあるし、価値あることのような気がする。

 ただ、これは裏を返すと、観客にとって全然関心の持てない話になってしまう可能性が高いことを意味する。昔の精神病院に異常な部分があったからといって、今は改善されているし、そうじゃなくても「精神病院の問題なんて俺には関係ねー!」という反応があってもおかしくないのである。

 それなのにこの映画が多くの人の心を動かすのは、精神病院が精神の治療等を行うことを目的とする施設だからだ。多くの人間にとって精神は非常に(時には命以上に)重要なものだ。精神の自由が求められていた当時においてはなおさらだったのだろう。そして、そのことを原作者や制作者はよく理解していた。

 『カッコーの巣の上で』形式のストーリーでは、制作者と観客にとって人生で最も大切なことが何なのかが問われている。