たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その82 欲望という名の電車

 妹夫婦の家に様子のおかしな姉が転がり込む。

 

 『欲望という名の電車』は1951年の映画。監督はエリア・カザン、脚本はテネシー・ウィリアムズとオスカー・ソウル。主演はヴィヴィアン・リーマーロン・ブランド

 

 ヴィヴィアン・リー演じるブランチは、ニューオーリンズにいる妹のステラに会いに行く。静養のため国語教師の仕事を休んでいるというブランチの様子はどこかおかしい。彼女はホテルに泊まらず、ステラの家に間借りする。

 ステラは結婚していて、夫スタンリーは筋骨隆々の粗野な男だ。かつて地主の令嬢だったブランチにとって、スタンリーは野蛮な庶民でしかなかった。

 一方のスタンリーからすれば、いきなり赤の他人が家に上がり込んできたわけだし、しかもそいつは妻(ひいては自分)の資産である土地を失ったとのたまう高飛車女。不信感で頭はいっぱいになる。

 この二人が同居するのだから、対立が生まれるのは必然だった。この対決はスタンリーの勝利に終わる。ブランチの嘘が暴かれ、虚飾は全て剥がされる。せっかく新天地で得た恋人にはプロポーズまでされたのにフラれてしまう。緊張関係がピークに達した時、スタンリーはブランチを襲う。

 

 この映画の面白さを支えているのは『バージニア・ウルフなんかこわくない』と同じく、歯に衣着せない口論である。

 この口論を生み出す土壌となるのが、家庭という閉鎖的な領域に歓迎されぬ異分子が入り込むという状況である。ただの異分子なら追い出せばいいが、配偶者の家族だからそう簡単には追い出せない。だからなおのことイライラする。これは現代にも通ずるあるあるネタだ。

 その上、ブランチとスタンリーの出自は正反対。農場の地主と工場労働者。本来なら交わらない二人が交わるのは、ブランチが落ちぶれたからにほかならない。時代背景は異なるが『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラに通ずるものがある。1950年代もまた、少数の特権階級の権益が解体されていく過渡期だったのかもしれない。

 そしてやはり『バージニア・ウルフなんかこわくない』と同じく、この映画に展開をもたらすのはだ。後半で嘘がバレることによって、何かが変わる。

 それがどのような嘘かといえば、失われた栄光に、あるいはその代わりになる何かにすがりつくための嘘だ。失われゆくもの(あるいは失われてしまったもの)とどう向き合うのかというのは、『サンセット大通り』や『イヴの総て』なんかのテーマにもなっている。そのどちらも1950年公開なわけで、1950年前後のアメリカには古きものが一掃されようとしているムードがあったのかもしれない。