たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その60 許されざる者

 罪を悔い改めたよぼよぼの前科者が賞金のためにカウボーイを殺しに行く。

 

 『許されざる者』は1992年の映画。監督・主演はクリント・イーストウッド。脚本はデヴィッド・ウェッブ・ピープルズ。アカデミー賞は4部門受賞。

裏切りの連続

 西部劇の典型として、一言で言えば、ガンマンの主人公が敵と戦う話だ。

悪そうにも強そうにも見えない主人公

 主人公はかつてワルで鳴らした男。それがまず字幕で語られる。彼はどんな人物なのだろうかと思うと、よぼよぼのおじいちゃんであることが明らかになる。(2023年現在93歳のクリント・イーストウッドはこの頃にはすでにおじいちゃんだった。)小さい子供たちや家畜たちと暮らす彼はとても極悪人には見えない。(動物と子供には世話する大人を真人間に見せる力があるようだ。)見た目に反せず、銃の試射は的に命中しないし、馬にも乗るのも一苦労というありさま。この男が元殺人鬼……?

 彼が戦う動機は金のためだ。彼の飼う豚の間で病気が蔓延している。きたりくる生活苦が見える。「悪事からは足を洗った、俺は生まれ変わったんだ」とぼやく彼だが、幼い子どもたちを養うために賞金首を討つことを決める。

強そうで弱く、弱そうで強いライバルたち

 物語には、主人公に対峙するライバルが必要だ。

 イギリスの老紳士が現れる。これまた見た目に反して極悪人らしいのだが、こちらの射撃の腕は一級品。飛ぶ鳥を次々に落として見せる。どうやらこいつがライバルのようだ。……と思わせておいて、この老紳士、あっさりと保安官に捕まってしまう。そう、この男は噛ませ犬。

 本当のライバルは保安官の方。この保安官もでっぷりと太った中年オヤジで、とても強そうには見えない。が、この男は、ガンマンたちが虚飾まみれであることや銃撃戦の何たるかを知り抜いている。町への武器の持ち込みは即座に発見し締め上げていく。やり手である。「許されざる者」のライバルは保安官であるべきなのだ。

主人公の本性が明らかに

 主人公はそんな保安官がいるとも知らずに銃を携帯したまま町に入ったもんだからボコボコにされる。三日三晩寝込んだ末に復活した主人公は見事に(何発も弾を外したり殺しを仲間に押し付けたりしながら)賞金首を仕留めるのだが、途中離脱した仲間が保安官に捕まって取り調べの末に殺されてしまう。

 復讐心に燃える主人公は、保安官たちの集う酒場に突入し、瞬く間に5人も射殺してしまう。禁じていた酒を飲む主人公。彼は殺人鬼としての姿を取り戻したのだった。

西部劇の裏切りを暴いた作品

 『シェーン』と同じく舞台はワイオミング。時代も同じ頃。そして主人公が殺しの罪悪感を背負って生きているのも同じ。

 だが、たぶん『許されざる者』の方が面白いと思う人が多いのではなかろうか。上に書いたとおり、この映画は観客の予想を裏切り続けるからだ。上に書いた以外にも、マニーの仲間が射撃の名手感を醸し出しておいてビビって撃てなかったり、今までにヤッた数は5人だぜ!っへ!と宣っておいて殺人童貞だったりする。

 『許されざる者』における裏切りは、観客を楽しませるためだけのものではない。映画における裏切りは、見かけに反する真実を暴露することによって成立する。そう、『許されざる者』は、かつての美しい西部劇の裏にある真実を暴露する西部劇なのである。

西部劇のあり方は奉仕される者が決める

 以上のように主人公と敵の対立が西部劇の中心軸だと考えるのは、浅はかかもしれない。

 西部劇が銃撃戦を見せたくて作られるものであり、そこに必須のパーツが主人公と敵であることは間違いないだろう。じゃあ特別な力を持った主人公と敵を用意すればそれで十分なのだろうか? これが意外とそうでもない。この二人だけでは物語は動き出さない。二人が戦う理由がないのだ。

 では何が必要なのかといえば、奉仕される者である。もう少しわかりやすくいえば、主人公が誰のために戦うか?だ。それは主人公の目的であり、物語の全体像を決定づける。

 西部劇は大きく分けると、以下の二つの類型に分類することができる(のではなかろうか)。

  • 愛する弱き者のために主人公は戦う
  • いけすかない奴のために主人公は戦う

 ちなみに、他の誰でもない自分自身のために主人公が戦うパターンもありうる。その場合は、アメリカン・ニューシネマ的な、退廃的なストーリーになるのではないかと思う。現代社会で武力の行使は通常容認されないし、それを正当化するための第三者がいないなら、主人公は破滅に向かうしかないはず。

愛する弱き者のために主人公は戦う

 愛する弱き者のために主人公が戦うパターンではだいたい以下のような流れで物語が進行するはずだ。

  1. 主人公と弱き者が出会う。
  2. 弱き者を襲う敵が現れる。
  3. 脅威が増していく。
  4. 主人公は敵を倒す。

 これの典型が『シェーン』である。流れ者のシェーンが旅先で一つの家族と仲良くなる。家族は共同体の中で敵対勢力と対立していて、徐々に緊張が高まっていき、いよいよ家族に危険が及びそうになったとき、シェーンは銃を抜く。

 『ワンピース』もこれを繰り返しているし、我々の中でヒーローが登場する物語としてイメージするのもだいたいこんな話だろう。

いけすかない奴のために主人公は戦う

 いけすかない奴のために主人公が戦うパターンは、だいたい以下のような流れで物語が進行する。

  1. 主人公といけすかない奴の出会い
  2. いけすかない奴のもとで仕事をさせられる
  3. 仕事の不快感がどんどん増していく
  4. いけすかない奴と決別する

 これの典型は『真昼の決闘』だ。ついさっき引退したばかりの保安官が、町にやってきた悪党と戦おうとする。しかし、町人は保安官を助けようとしないどころか、追放しようとさえする。主人公は悪党を倒すも、バッジを投げ捨て町を後にする。

 実は『千と千尋の神隠し』もハクの視点から見るとこの類型に該当する。

ミックス

 二つがミックスされた作品もある。

 たとえば、『ワイルドバンチ』は全体的には「いけすかない奴」パターンだが、主人公が反旗を翻すきっかけとしては「愛する弱き者のため」要素もある。(『ワイルドバンチ』の記事でも書いたが、『アパートの鍵貸します』も同様だ。)

 逆に、『捜索者』は全体的には「愛する弱き者のため」パターンだが、途中で「いけすかない奴」に振れそうになる。

許されざる者』はどちらか?

 では『許されざる者』はどちらなのか?

 『許されざる者』の主人公は、子どもたちのために戦う。究極的に言えば、これは死別した妻のために戦っているともいえる。子どもたちは序盤にしか登場しないが、妻の影は物語に常につきまとっている。さらに、主人公がラストバトルに向かう動機は、殺された仲間の復讐を果たすためだ。「愛する弱き者のために」パターンであることは間違いなさそうである。

 ここでミソとなるのが、妻が生きていれば、主人公が再び殺人を犯すことを望まなかったであろうという点である。主人公は「妻のおかげで変わった」「妻がいるから他の女には手を出さない」と言っているが、一方で殺人に手を染めることは妻への裏切りではないのか?

 ということを考えていくと、『許されざる者』は「いけすかない奴」パターンでもあるのかもしれない。いけすかない奴がまさか愛する妻だとは。しかし、それがこの世の真実という気もする。