たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その59 ドゥ・ザ・ライト・シング

 怠惰な黒人が黒人街のピザ屋で働いている。

 

 『ドゥ・ザ・ライト・シング』は1989年の映画。監督・脚本・主演はスパイク・リー

 

 なかなか異色の作品だ。通常の映画の作り方ではないように感じる。

 ハリウッド映画はだいたいにおいて、時間が三分の一進むごとに大きな展開があることが多い。ところが、この映画は残り30分のところで初めて大きな展開が訪れる。3/4は黒人街の何気ない日常が描かれるだけ。何か起こりそうで何も起こらない。そんな様子が描かれる。(その他にも手ブレや斜め構図の多用など、これまでの映画ではあまり見られなかった演出も目を引く。)

 にも関わらず、ずっと退屈せずに見ていられる。不思議な映画だ。

 この映画を支えているものの一つにテンポの良い会話があることは間違いない。会話する人物たちには差別意識がこびりついていて、それが緊張感をもたらしている。それでいて人種を超えた愛や諍いも描かれていて、ホッとする一幕も多い。

 それ以外に重要な点は、この映画の舞台が黒人街であることだ。黒人たちは真面目に働かなかったり、アル中だったり、消火栓を使って遊んだり、とにかく怠惰だ。それでいてスターたちが築き上げた黒人文化に誇りを持っていて、行動と釣り合わない夢を抱いている。一方で、真面目に働くイタリア系と韓国人の店は繁盛している。こうした事柄が、映画全体に貧しい雰囲気を漂わせている。つまり、常に金の臭いがするのだ。

 貧しさを引き立てるのが猛暑だ。この映画で描かれるのは、最高気温37度の酷暑の一日。貧しさと暑さは結びつくことが多い。ドストエフスキーの『罪と罰』も、江戸川乱歩の『二銭銅貨』も、暑さにあえぐ貧しい人物を主人公に据えていた。『異邦人』で主人公が殺人に及んだ理由も「太陽が眩しかったから」だったか。

 

 この映画のクライマックスでは、警官による黒人殺しが描かれる。今に至るまで変わらないアメリカの風景だ。

 ところが意外にも、黒人を哀れな被害者として扱っているわけでもない。それどころか加害者としての一面がしっかりと描かれている。

 LOVE&HATEがこの映画のキーワードだが、皮肉にも愛の勝利を説いた男が憎しみを生みだしている。ラジカセを大音量でかけて深夜に閉店後のピザ屋に押しかける。怒り心頭の店主にラジカセを破壊されると逆上して店主を殺そうとする。そこに警官が駆けつけて過剰な拘束が死をもたらす。

 愛と憎しみ、この二つは対立するものではない。愛が憎しみを生み出している。バギン・アウトは黒人の権利を訴え、イタリア系のピザ屋に黒人の写真を貼れだの、白人に街から出て行けだの、非黒人差別を繰り返す。彼は極端だが、程度の差こそあれ同じような心情を黒人たちは抱いている。だからこそ、ラジオ・ラヒームが殺害された憎しみを被害者であるはずのピザ屋にぶつける。

 憎しみを打ち負かすものがあるとすれば、それは無差別の愛だろう。無差別の愛とは違って、家族愛は他者を家族と家族でないものに切り分けるから差別の原因となる。とはいえ、黒人が差別されているなら黒人で団結して戦わなければならない。手段としての家族愛(=黒人コミュニティへの帰属意識)が必要になってくる。目的が集団の中で共有されていればいいのだが、無秩序な大衆に目的を共有させるのは非常に難しい。一方で、家族愛は当たり前にあるもので、目的なき家族愛はごくごく自然に差別を生み出していく。結果として、「非黒人は全員敵だ」という単純化された現状認識が導き出される。

 もしそうだとすれば、黒人が黒人の手で黒人の権利を掴もうとする限り、ピザ屋のサルのような被害者は必ず生まれるはずだ。アメリカ社会の目の前にある選択肢は三つ。歴史の犠牲として悲劇を甘受する。断絶を徹底する。強者が弱者を引き上げる努力をする。現実的かつ最も平和な選択肢は最後の選択肢だと思うが、それも言うほど簡単ではないのだろう。

 ……というようなことを私は考えたが、この映画では問題が提起されるだけだ。監督の思想とは真逆の結論に至っているかもしれない。綺麗事で済ませず、もやっとした終わり方をする。これがたぶん考えさせる作品を作るコツ。