売れない俳優が女装したら売れた。
『トッツィー』は1982年の映画。監督はシドニー・ポラック、脚本はラリー・ゲルバートとマレー・シスガル。主演はダスティン・ホフマン。
音楽のように映画を作る
女装男が主人公のラブコメといえば『お熱いのがお好き』があるが、基本構成は同じである。
- 主人公が女装をすることになる。
- 女装状態のままヒロインとの関係が進展する。なぜか男にモテる。
- 自分は男だと告白する。
ただ、主人公が女装をしなければならない理由は弱いし、役者である主人公は女装がバレる気配が全くない(さすがダスティン・ホフマン!)ため「バレちゃうバレちゃう!」というハラハラ感も弱い。このままだと、ただの劣化版『お熱いのがお好き』に成り下がりそうだが、それであれば名作として扱われるはずもない。
『トッツィー』を名作ならしめた秘訣は、同じ構図の人間関係をいくつも用意したことにある。これは音楽に似ている。楽曲は同じフレーズ(モチーフ)を少しずつ変化させながら何回も繰り返すことによってできている。これを映画でやるわけだ。(男女平等?をテーマに掲げている点が画期的だったとかもありそうな気がするが、高尚なテーマさえ掲げれば名作といえるかといえばそんなはずもない。新しいテーマをいかにして伝えるかも同じくらい重要なはずだ。)
モチーフ
『トッツィー』における基本の人間関係(=モチーフ)は以下の要素で構成されている。
A:女を搾取する男
B:搾取される女
C:ヒーローのような女
劇中劇
たとえば、主人公ドロシー・マイケルズが出演する劇中劇のキャラクターは以下のような構成になっている。
A:セクハラ院長
B:セクハラされるナース(ヒロイン)
C:院長と対等にやり合う総務部長(ドロシー)
役者たちの人間関係
その劇中劇を制作している側にも同じ構図の人間関係がある。
A:強権的なディレクター
B:ディレクターと付き合っているヒロイン
C:ディレクターの指示に従わないドロシー
マイケルの人間関係
ドロシー・マイケルズの男としての姿(というか本来の主人公の姿)がマイケル・ドーシーだが、彼を巡る男女関係にも同じ図式が当てはまる。
A:ヒロインのことが好きなのにサンディをキープするマイケル
B:マイケルと付き合っているつもりのサンディ
ただし、ここにはC:ヒーローのような女性がいない。マイケルはサンディに対してやりたい放題である。
そして最も重要なのが次の構図だ。
A:マイケルを採用しない業界
B:芝居一筋ながら失業中のマイケル
C:業界に復讐するために女装してオーディションを受けたドロシー
強い者が弱い者を搾取するのはなにも男女間の関係だけに当てはまる話ではない。これは全ての人間に関わる問題なのだ。
他にもドロシーがBの立場に置かれる関係性がもう二つくらいあると思うが、煩雑になるので省く。
モチーフ同士の間には繋がりがある
これらのモチーフが互いに影響を与え合うか、あるいはシンクロすることで物語的な厚みが生まれる。
まず、劇中劇で、ナースが総務部長に感化されて院長に反旗を翻す。これに呼応するかのように、ヒロインがドロシーに感化されてディレクターに別れを告げる。
ヒロインがディレクターと別れる際、ドロシーは援護射撃を行う。ドロシー=マイケルは、サンディとの関係性においてはディレクターの立場にあるから、これは自己批判となる。したがって、ヒロインとディレクターとの別れに連鎖して、マイケルとサンディも別れることになる。
そして、それがトリガーになって、ドロシーは生放送で自分が男であることを暴露することにより諸々の関係を清算することとなる。
こうした同じモチーフを繰り返す手法は、他でも多く使われている(例えば『僕のヒーローアカデミア』はかなり顕著だ)。その中でも『トッツィー』のそれが特に洗練されているのは、「主人公が社会的立場の全く異なる二つの役を演じる」という特性によるものだと思う。