インディアンを憎む男が、さらわれた家族を連れ戻すためにインディアンを追跡するーー。
『捜索者』は1956年の映画。西部劇を得意としたジョン・フォード監督の代表作との呼び声も高い。主演はジョン・ウェイン。
孤独なヒーロー像
これまで西部劇は『真昼の決闘』と『シェーン』を見てきたが、主人公たちには共通する特徴がある。彼らはみな孤独なのだ。理由はそれぞれだ。『真昼の決闘』ならば守られる者たちが臆病だからだし、『シェーン』ならばシェーン自身の心の中にある闇が原因だったように思う。
西部劇に限らず、ヒーローは孤独と戦う存在なのかもしれない。孤独とは無縁に見えるアンパンマンでさえ、「愛と勇気だけが友達」とのたまうくらいだ。救う者と救われる者という関係性が孤独を生み出しているのかもしれないし、孤独の原因である特異性がヒーローになることを可能とするのかもしれない。
憎しみに囚われた男イーサン
『捜索者』の主眼も主人公イーサンの孤独にある。南北戦争が終戦して3年後、出征していたイーサンが故郷のテキサスに帰るところから物語は始まる。彼が家を離れていた理由は、恋人を兄に奪われたからであることが示唆されている。そのことに気づいていない兄に対してつんけんするイーサンではあるものの、ともかく家族のもとに帰ってきたわけだ。ところが、その翌日、インディアンが家を襲撃。兄と兄嫁は殺され(兄嫁は頭の皮を剥がされていたことが後に判明する)、彼らの娘であるルーシーとデビーがさらわれてしまう。家族を奪われたイーサンが家族を取り戻すための旅が始まる。
しかし、イーサンの孤独の原因は、必ずしもインディアンのみではない。
イーサンの旅にはマーティン・ポーリィが付いてくる。彼はかつてイーサンが救った子で、兄一家に育てられた青年なのだが、イーサンは彼を家族とは認めていない。マーティンにはインディアンの血が混じっているからだ。母をインディアンに殺された過去があるイーサンはインディアンを憎んでいて、マーティンへの嫌悪も隠そうとしない。
彼はいったい、いかにして救われるのだろうか?
ちなみに、『タクシー・ドライバー』のトラビスの人物像は、イーサンの影響を受けたものなのだとか。
敵は主人公の影
元恋人であり兄嫁たちを襲ったインディアンはナイヤキ・コマンチ。そのリーダーにスカーという男がいることをイーサンたちは知る。
おそらく、スカーはイーサンの影、第2のイーサンとして描かれている。
ナイヤキ・コマンチは定住せず、各地を点々として略奪や狩猟をして暮らしている。イーサンたちも放浪する存在だ。もちろんナイヤキ・コマンチを捜索しているからではあるのだが、帰るべき家がないという側面もある。
また、スカーは家族を白人に殺されており、その復讐として白人を襲撃している。彼もまた憎しみに囚われているわけだ。
闇堕ちヒロインズ
イーサンとマーティンのコンビは、長年に及ぶ捜索の末、ついにデビーを見つける(ルーシーは殺されていた)。しかし、デビーはスカーの妻となっており、二人に対して「ずっと待っていたのに助けに来てくれなかった。私はもうコマンチの一族だ。帰れ」と告げる。
イーサンはそんなデビーを殺そうとする。もはやデビーは白人ではなくコマンチだというのだ。マーティンはイーサンを止めようとする。そんな折、ちょうどコマンチたちに襲撃され、二人は逃げる。
もう一人のヒロイン・ローリィ
デビーの他にも、他の男の妻になってしまうヒロインがもう一人いる。マーティンの幼馴染のローリィ・ジョーゲンセンだ。
イーサンたちがコマンチの足跡を見失い、故郷に帰らざるを得なくなったことがあった。その時に、マーティンとローリィはちゅっちゅする良い関係になる。
しかし、マーティンはすぐに旅立ってしまったうえに、手紙も5年間で一通しか書いていなかった。しかも、その手紙には、成り行きでインディアンの妻ができてしまったという報告がしたためられていたのだ。
デビーを発見したイーサンたちが故郷に帰ると、ジョーゲンセン家では結婚式が催されていた。ローリィは、彼女の心の穴を埋めてくれたチャーリィと結婚しようとしているのだった。
ローリィはマーティンをなじるが、去ろうとする彼を抱きしめて引き留める。愛はまだ消えていなかったのだ……。そんなところにチャーリィがやってきたもんだから、もう大変。男二人の口論は殴り合いの喧嘩に発展する。村人たちに見守られながら、砂にまみれる二人。「私のために争わないで!」と叫びながらほくそ笑むローリィ(私にはそう見えたのだが、実際はどうなんだろう)。引き分けで決着すると、チャーリィは婚約を白紙に戻すと言うのだった。(この後、牧師が「誰も結婚しなかったが良い披露宴だった」と言うのだが、なかなかの名台詞だと思う。)
兄に恋人を奪われたイーサンと、恋人を奪われずに済んだマーティンがここで対比されている。
放蕩息子のたとえ話
これらの関係性を眺めて、私が思い出したのは放蕩息子のたとえ話だ。
キリスト教の聖書に出てくる有名なエピソードだが、簡単に言うと、家に帰ってきたドラ息子を父が歓待するという話。父は神で、ドラ息子は人間のことだろう。ドラ息子が父のもとに帰ることを望めば、父はその愛に満ちた家に迎え入れてくれるのだ。
物語の冒頭で、家に帰ってきたイーサンに対して牧師が「放蕩息子のお帰りか」と述べる場面がある。だから脚本家の頭の中では「放蕩息子」が意識されていたのではないか、と私は思うのだが、ググった限りそういう解説は見当たらなかった。でも気にせず話を進めよう。
マーティンも、デビーも、ローリィも、放蕩息子である。というか、人類はみな放蕩息子なのである。彼らは家族(になるべき人)の元を離れ、また帰ってくる。しかし、誰もが父に暖かく迎えてもらえるわけではない。神のような父がいない人はいかにして家に帰ることができるのか?
『捜索者』における答えを示しているのが、結婚式のシーンだ。マーティンとローリィは互いに赦し合い、愛と共に相手を迎える。ついでに言えば、チャーリィも二人のことを赦してくれた。おかげで、誰も結婚しなかったが良い披露宴になったのだ。
つまり、迎えてくれる父がいないなら、自分自身がドラ息子を迎える側になるのだ。帰る家がないなら、自分自身が家になるのだ。神が愛する放蕩息子を人間が愛さなくていい理由はないし、ぶっ飛んだ結論ではないだろう。
クライマックス
披露宴がおじゃんになったところにスカーたちが近くに来ているという急報が入る。イーサンとマーティンは警備隊と共に現場へ向かう。
夜明けとともにコマンチたちの野営地を襲撃しようとする警備隊。マーティンは単身、デビーを救出しに行く。スカーと出くわしたマーティンはすかさず発砲する。その音を聞き、進撃を開始する警備隊。戦闘の最中、イーサンはスカーが撃ち殺されているのを見つける。スカーの頭皮を剥いだイーサンは、デビーを見つけ追いかける。止めようとするマーティンを振り払い、逃げるデビーを追うイーサン。デビーを岩場に追い詰めたイーサンは、彼女の体を抱き上げる。6年前のあの日、デビーがまだ少女だった頃と同じように。イーサンはデビーに言う。
「家へ帰ろう」
イーサンの分身であるスカーをマーティンが殺し、回心したイーサンはデビーを愛で迎えるという仕組みである。
これでめでたしめでたし……となるわけだが、一つ謎が。戻ってきた彼らを出迎えるジョーゲンセン家。イーサンは家に入る寸前で脚を止め、踵を返して荒野に去っていく。ようやくできた家族の元をなぜ去るのか、イーサン。
赤狩りを意識?
先述のとおり、この映画が撮られたのは1956年。時は冷戦真っ只中。アメリカにおける共産主義への恐怖は凄まじいもので、ハリウッドに潜む共産主義者を摘発しようという動きがあったとか。こうした赤狩りだとかマッカーシズムだとか呼ばれる騒動が沈静化したのが1954年頃のこと。
ジョン・フォード監督はこうした動きに反発していて、赤狩り支持者だったセシル・B・デミル監督を批判したこともあったのだそうな。
憎悪に囚われていた主人公が愛に目覚める『捜索者』は、そんな時代背景を意識して生まれたものなのでは……というのは私の妄想です。ちなみに、ジョン・ウェインはアメリカの理想を守るための映画同盟という、共産主義とファシストの侵入から映画業界を防衛することを目的とした団体の議長を務めていた。
この映画、ネイティブアメリカンが悪で白人を善とする(ように見える)構図で描かれていたり、ネイティブアメリカンを白人が演じていたり、今の感覚からすればいかがなものかと感じる部分がないわけではない。が、上記のようなことを考えれば、「ネイティブアメリカンを悪と考えること」について描いた映画なわけで、批判するにしてもその点は読み違えないでほしいところだ。