たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その41 ウエスト・サイド物語

 抗争する二つのチンピラ集団に所属する男と女が恋に落ちる。

 

 『ウエスト・サイド物語』は1961年の映画。監督はロバート・ワイズとジェローム・ロビンズ。主演はナタリー・ウッドとリチャード・ベイマー。10部門でアカデミー賞に輝く。

シェークスピアは腐らない

 ブロードウェイミュージカルが原作で、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の翻案。

 原案に忠実なので、観客は後の展開が(大筋としては)予測できる。それなのに面白い。『ロミオとジュリエット』の物語構造がいかに強固なのかを示している。

 物語の骨格が同じでも、皮を新しいものに入れ替えれば、人はそれを新しいものとして受け止めることができる。

恋を描いているようで、社会を描いている

 二人の男女が出会う。各々の社会的立場には対立する要素があり、それゆえに二人の恋は一気に燃え上がる。だが、神の気まぐれにより、二人は破滅を迎える。

 というのが『ロミオとジュリエット』の骨と考えると、実は『タイタニック』も『ロミオとジュリエット』をベースにしていたことが分かる。そして、『タイタニック』が描いていたのは男女の恋であると同時に、彼らを取り囲む社会であった。

 『ウエスト・サイド物語』の舞台は、ニューヨークのウエストサイド。そこでは、プエルトリコ系移民とポーランド系移民の不良少年たちが縄張り争いをしている。自由への憧れと差別への怒りが混じり合う中で生まれる攻撃性は、同じ社会の底辺に対して向けられる。『ウエスト・サイド物語』が描いているのは、ハリウッドがそれまで描いてこなかった社会だ。

 実はロミオとジュリエット』という物語の本質は、恋愛ではなく、恋愛を通して社会を描くことにあるのかもしれない

悲劇を通して私たちは神を感じる

 『スパルタカス』では代理の勝者を置くことで、悲劇的な結末にポジティブな要素を付け加えていた。しかし、『ウエスト・サイド物語』というか『ロミオとジュリエット』には勝者が誰もいない。純然たる悲劇である。これがエンターテイメントとして成立するには何が必要なのだろうか?(まあ、そもそも悲劇は条件付きでなければエンターテイメントたりえないという前提が間違っているかもしれない。とはいえ、ハリウッド映画の多くが悲劇ではないことを鑑みるに、とりあえずそのような前提を仮に置いてみる価値はあるのではなかろうか。)

 私が考えたのは、悲劇が人の心を震わせるのは、そこに神の存在を感じられるからではないか、ということだ。ここでいう神とは、人の力では抗いきれない何かというくらいの意味で、歴史の流れだとか社会のしがらみだとかを含む。運命と言ってもいいかもしれない。

 『ウエスト・サイド物語』の場合、マリアとトニーはただ成り行きをぼーっと眺めていたわけではない。むしろ積極的に悲劇的な結末を回避しようとしていた。ところが、それがかえって悲劇を招く。やることなすこと全てが裏目に出てしまう。「個人の意志が世界を変える」的な思想とは真逆の展開である。どんなに頑張ったって無駄。むしろ頑張らないほうが良かったかもしれない。ここに神が現れる。

 悲劇の原因を辿っていくと、その先には移民が差別されている社会が見えてくる。(さらに遡れば、結局は、大きな歴史の流れというところにたどり着くのかもしれない。)恋にのぼせた若き一組のカップルに比べると、あまりに巨大すぎる何かだ。

 神(憎しみを生み出す社会構造)に比べあまりに矮小な二人が見出した希望の光だからこそ愛はより燦然と輝くし、その愛を踏みにじるからこそ神の大きさを感じる。愛と神がシナジーを発揮していることが、『ロミオとジュリエット』の強固さの秘訣なのではなかろうか。そして、『ウエスト・サイド物語』は見事な換骨奪胎を果たしている。