たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その40 スパルタカス

 剣闘士が自由を求めて反乱を起こします。

 

 『スパルタカス』は1960年の映画。監督はスタンリー・キューブリック、主演はカーク・ダグラス。4部門でアカデミー賞に輝く。

 ……スタンリー・キューブリック!? 『ベン・ハー』に続いてローマ帝国時代の歴史ロマンか……と思っていたら、まさかのスタンリー・キューブリック。こういう系の映画を撮っていたイメージが全くない。だが、この映画、スタンリー・キューブリック臭がぜんぜんしない。『フルメタル・ジャケット』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』……事前情報なしで観たとしても確実にスタンリー・キューブリックが撮ったと分かる独特の空気。あれが『スパルタカス』にはない。実際、スタンリー・キューブリックは『スパルタカス』を自分の作品だとは認めなかったそうな。巨匠スタンリー・キューブリックも、若かりし頃は社会の抑圧に抗えなかったのだ。

 キューブリックを押さえつけつつも抜擢したのが、製作を指揮しながら主演を務めたカーク・ダグラスマイケル・ダグラスのお父ちゃんである。マイケル・ダグラスの話題が出たら「マイケル? あぁ、カークのとこのガキか」と言うと、ダグラス家の近所に住んでたおっちゃんぶれる。

悲劇をエンタメ作品に仕上げる方法

 『スパルタカス』の主人公は言うまでもなくスパルタクスである。(どうでもいいが、字幕の人名が英語読みなのが気に食わない。クラサスなんて聞いたことない名前だから小悪党かと思ってたらクラッススのことだった。びっくりですよ。)

 スパルタクスの反乱は世界史の教科書にも載っているし、その結末が失敗に終わることも知っている。となると、いったいどうやってオチをつけるのか? ここに注目したい。

勝利するキャラクターを用意する

 答えは「主人公の代わりに勝利するキャラクターを用意する」だ。スパルタクスは女奴隷と恋に落ちる。そして彼女との間に子供を設ける。

 スパルタクスが求めていたのは自由だ。彼らにとって、自由を獲得することこそが勝利なのだ。そういうわけで、スパルタクスの妻は奴隷の身分を脱して自由を獲得する。スパルタクスの活動がそれを実現させる。

 言い換えれば、「生存よりも尊い作戦目標を提示する」ということだ。おそらく、目標の内容はなんだってかまわない。たとえば「缶ビールを飲む」とかだっていいのではないか。主人公がそれに命を賭けたという事実が、目標の尊さを演出する。

(たとえば『コードギアス 反逆のルルーシュ』なんかもこの手法を使っている。『ギアス』は『ベン・ハー』ともかぶるところがあったが、たぶん歴史ロマン感を出そうとするとこうなるのだろう。)

絆は壊れない

 もう一つポイントになのが、スパルタクスは孤独ではないということだ。スパルタクスの反乱を鎮圧したローマ軍がスパルタクスを捜索する。

スパルタクスを差し出せ。さもなければ殺す」

 そう脅されたスパルタクスの仲間たちは「私がスパルタクスだ!」と口々に叫ぶのである。熱い友情が感動的であると同時に、スパルタクスとは奴隷たちに宿った自由を求める心であることを表す比喩的なシーンにもなっている。

見世物としての死闘

 スパルタクスといえば剣闘士である。剣闘士といえば決闘である。映画的にも見せ場になるに違いない部分は、どのようにして描かれるのだろうか。

修行

 剣闘士はいきなりコロッセオに連れて行かれるわけではなく、学校で剣闘士になるための修行をする。学校といっても、限りなく牢獄に近い。

 そこで奴隷たちは微妙な距離感で過ごすことになるわけだが、やはり毎日顔を突き合わせる以上、仲間意識は芽生えざるをえない。

 こうして観客の期待を徐々に高めていく。ここは『進撃の巨人』っぽさがある。

高みの見物をする大富豪

 「この学校を卒業したら決闘をやるのかあ……」と思って眺めていると、クラッススが見物にやってくる。クラッススはローマ一の金持ち。大権力者である。

 クラッススの連れが決闘を見たいと言い出す。それも演習ではなく、本番を見たいと。すなわち、少なくともどちらか一方が死ぬ戦いである。奴隷という資産を減らすわけにはいかない学校の経営者は反発するが、クラッススが金を払うというので渋々承諾する。彼女たちは奴隷の中からスパルタクスを選ぶ。

 黄金のパターン出た!という感じである。弱者が虐げられるのを見て喜ぶ金持ち。もう定番中の定番である。『カイジ』をはじめとしたデスゲームものでは必須と言っていいし、『RRR』にもこれ系のキャラが出ていた。

 だが、『スパルタカス』は主催者側から見てもイレギュラーな要求をしているという点で、性格の悪さにおいて他とは一線を画している

勝負の行方

 こんなに早く決闘をすることになるなんて……。愕然とするスパルタクスたち。

 もし相手が友人だったら……? そんな思いがよぎる。が、なんとここで友人とはマッチングしない! 意外な展開である。結局、友人はあっさり死ぬ。

 スパルタクスの相手は黒人剣闘士ドラバ。将来殺し合いをすることになるのだからと、周囲との関係を深めようとしなかった人物だ。文字どおりの死闘の末、スパルタクスは槍を喉元に突きつけられる。絶体絶命の大ピンチ。だが、ドラバは高みの見物をするクラッススたちの方に向き直り、槍を投げつける。槍は虚しくも壁に刺さり、ドラバは殺されてしまう。

 この展開は熱い。ドラバがそっけなかったのは、彼が誰よりも優しい男だったからなのだ。そして誰よりも勇気のある男でもあった。ドラバは見せしめに吊るされるが、彼の魂はスパルタクスに受け継がれていく

ローマはアメリカのメタファー

 たぶん『ベン・ハー』もそうなのだが、ローマはアメリカ(さらにいえば当時のハリウッド)のメタファーだ。世界一の国家であり、資本主義国家である。クラッススはその象徴のような人物で、第二の主人公といっても過言ではない。

 それゆえに他人事とは思えない迫真性が生まれる。クラッスススパルタクスを差し出すように脅迫するシーンは、脚本家ドルトン・トランボの実体験に基づくものだ。

 どんな時代劇も、現代に通ずる何かを見いだせるから作られるはずだ。(なんなら歴史的事実を無視して現代風に脚色するのもよくあることかもしれない。)その通ずる何かをどこに見出すか。個人なのか、それとも社会状況なのか。それが作品の厚みを決めるような気がしないでもない。