たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その52 アニー・ホール

 「私を会員にするようなクラブには入りたくない」と考えているコメディアンと売れない歌手が恋に落ちる。

 

 『アニー・ホール』は1977年の映画。監督・脚本・主演ウディ・アレンアカデミー賞は4部門受賞。

 

 コメディアンのアルビー・シンガーとアニー・ホールの出会ってから別れるまでを描いた映画……と書くと不正確だ。この映画はアルビー・シンガーの少年時代からアニー・ホールと別れた後までを描いている。

 「主人公の過去を描く」をやった映画は、これまでの51作品ではなかった。少なくともラブコメ部門では。映画は物語を始めるのに最もふさわしい場面から始まる。必然的に、ラブから遠すぎる過去を描写することは難しくなる。

 これを可能にするのがフラッシュバック(回想)だ。この映画はアニー・ホールと別れた後のアルビー・シンガーの独白から始まる。そこからアルビー・シンガーの幼少期まで一気に時間が遡る。作品のほぼ全編がフラッシュバックだと言ってもよい。

 しかし、ここで使われているのはただのフラッシュバックではない。幼少期からアニー・ホールとの別れまでを一直線で描かずに、未来に行っては過去に戻り、未来に行っては過去に戻りを繰り返していく。フラッシュバックの中でアルビー・シンガーは自由に時空を移動していく。どのくらい自由かというと、幼少期の回想に大人のアルビー・シンガーが登場したりするし、画面分割で二つの場面が同時に映されたりする。

 私の理解する限り、映画内で起きるイベントを時系列順に並べると以下のようになる。

  1. 幼少期
  2. 最初の妻との出会い
  3. アニー・ホールとの出会い
  4. アニー・ホールと同居を始める
  5. 倦怠期
  6. 嫉妬からの喧嘩
  7. 仲直り
  8. 別れ
  9. その後

 しかし、映画で描かれる順番は、1→5→2→4→3→6→7→8→9となっている。初見で前半の時系列を正確に把握できる人間はかなり少ないだろう。

 この手法には一つのメリットがある。情報の提示の順番や感情の流れを簡単にコントロールできることだ。付き合い始めたての一番ホットな時期から、喧嘩別れをする時期へジャンプすることによって、感情的な落差を生むことができている。時系列順だとこうはいかない。一般的にフラッシュバックはドラマの進行を止めるので軽率に使うべきでないと言われるが、『アニー・ホール』はそれも使い方次第だと示している。

 当然、この手法にはデメリットがある。観客はそれぞれの場面の繋がりを把握できなくなってしまう。少なくともその可能性が高い。それを考えれば、時空を歪ませて映画を面白くするくらいなら、時空を歪ませなくても面白い映画を作った方がいいはずだ。幼少期や最初の妻との出会いが映画の導入として物足りないのであれば、それをカットするのが真っ当な選択だ。なのに、ウディ・アレンはわざわざこの場面を映画に残した。

 ということは、ウディ・アレンがあえてこの手法を採用した別の理由があるに違いない。

 私が考えるところでは、時空を歪ませることによって、この映画で描かれていることが過去の記憶であることを示そうとしたのではないか。私たちが過去を振り返る時、誕生から順繰りに記憶を辿っていくようなことはしないし、できない。その時々のきっかけに応じて、関連する記憶を引っ張りだすだけだ。また、記憶は常に曖昧で、捏造の危機をはらんでいる。『アニー・ホール』で取り入れられた斬新な表現は、今見ても目新しいものがあるが、実のところ私たちの精神世界はあんな感じのような気もする。

 そんな風に考えていくと、そもそもこの映画の焦点は、人生を振り返ること自体に当てられているのかもしれない。生まれてから死ぬまでの間に、人間は美しい思い出を作り上げていく。過去の経験を記憶の中で装飾することで美しい思い出は出来上がる。人間はそれを糧に生きていく。そんな美しい思い出の象徴としてアニー・ホールが機能する。

 美しい過去は惨めな現在を暗示する。今に満足しているなら、わざわざ過去を美化する必要もないからだ。一方で、美しい過去が過去ではなく現在だった頃、それは惨めなものだったはずだ。シンガーがロブスターを嫌々掴んでアニーが喜んでいる時、それはシンガーにとって楽しい経験だったか? そうではないだろう。過去として振り返った時、特に新しい恋人がアニーとは正反対の冷めた反応を示した時に、ロブスターのシーンが美しい思い出として蘇る。

 私たちが生きている今は悲劇だが、過去になれば喜劇になる。『アニー・ホール』はそういう映画だ。