たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『黄金』 私はハンフリー・ボガートだった

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その20 黄金

 アメリカに帰る金もなくメキシコの街を浮浪していた男が「金鉱掘りはみな貧乏で死ぬ」という話を聞かされながらも一攫千金を求めて仲間と共に金鉱探索に挑むーー。

 『黄金』は1948年の映画。監督は『マルタの鷹』『アフリカの女王』のジョン・ヒューストン。主演はハンフリー・ボガートアカデミー賞は監督賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。

宝を見つけた後を描く

 お宝探しは物語では定番のモチーフだ。怪盗ものは当然として、『マルタの鷹』のようなミステリーでも馴染みが深い印象がある。『天空の城ラピュタ』や『ドラゴンボール』のようなファンタジーとの相性も良い。最近では『ゴールデンカムイ』が思い出される。

 主人公たちは激しい戦いの果てにお宝にありつくのだが、そのお宝の効能についてたっぷりと描かれることはほとんどない。主人公たちは旅の中で欲に駆られた人間の醜さを目の当たりにし、一方で仲間とかけがえのない時間を過ごし、本当に大切なものを見つけていく。お宝は主人公の夢を叶える補助になってくれる場合もあれば、儚く消え去る場合もあるし、そもそもお宝に金銭的価値などなかったという場合もある。いずれにせよ本当に大事なのはお宝を探す過程なのだ。

 しかし、『黄金』は違う。この映画では、お宝を探した後をたっぷりと丁寧に描いている。黄金によって人間がいかに狂っていくのかを描くのがこの映画の主眼だ。妄想を深めていくハンフリー・ボガートの姿は、『蜘蛛巣城』の三船敏郎と重なるものがある。

ハッピーエンドと引き換えに手に入れたもの

 『黄金』の結末はハッピーエンドとは言い難く、(良い意味で)後味が悪いものになっている。お宝を得てハッピーになりました!という話なら描く意味がないから、自ずとバッドエンドにならざるを得ないのかもしれない。お宝を巡る物語の多くが、お宝を得たその後に時間をかけないのはそのためだろう。

 ところが、ハッピーエンドと引き換えに『黄金』はとても大事なものを手に入れている。テンポ感である。

 『黄金』のストーリーをいくつかのパートに分けると、以下のような形になると思う。

  1. 貧困生活がどん底に至る
  2. 黄金を求める旅を開始する
  3. 黄金を発見する
  4. 猜疑心が生まれる
  5. 黄金を狙う第三勢力との戦い
  6. 発掘をやめて帰途につく
  7. 再び猜疑心が高まる
  8. その後……

 これが約2時間に詰め込まれているのだ。普通の映画ならば同じ時間をかけて1→2→5→3を描くことになるだろう。『黄金』がいかに濃密か分かる。必然的にテンポがかなり良く、観客を飽きさせない話になっている。

 そう、この映画は「本当に大切なのはハッピーエンドというお宝なのか、それともお宝を手に入れるまでの過程なのか」と世の脚本家に問うているのだ(?)。

題材を基準にするかテーマを基準にするか

 ここまでは「お宝探し」というモチーフを基準にして『黄金』について語ってみたが、本当は「人間にとって本当に大事なものは何なのか」というテーマを基準にすべきなのかもしれない。

 そうやって考えてみると、『黄金』は『天空の城ラピュタ』よりも、『市民ケーン』や『ソーシャルネットワーク』などの権力者の悲哀を描いた映画に近いことに気づく。『SAVE THE CATの法則』で言うところの「金の羊毛」ではなく、「魔法のランプ」に分類される話なのだろう。

予言

 悲劇を観客に受け入れさせるうえで欠かせないのが予言だ。予言が行われることで観客は予言が実現するのか否かが気になって仕方なくなってしまう。(悲劇か否かに関わらず予言は行われることが多い。)

 これまで名作映画を見てきて、予言の手法にはいくつかあることが分かってきたので、ここで一度まとめてみたい。

  • テロップ等で結末を暗示する意味深な言葉を述べる。(『キングコング』など)
  • 登場人物がストレートに予言する。(アメリカ映画ベスト100じゃないけど……『オイディプス王』『そして誰もいなくなった』など)
  • 教訓として登場人物によって述べられる。(『黄金』など)
  • 不安や願望として登場人物によって述べられる。(『我等の生涯の最良の年』など)
  • 目標として登場人物によって述べられる。(『アフリカの女王』など)
  • メインストーリーを回想として描く。(『市民ケーン』など)

時代を経るにつれむしろ価値が増している映画

 ここからは映画の話ではないが、『黄金』で描かれていることは決して他人事ではない。多くの現代人は投資で一攫千金を狙うことができるからだ。

 この映画が発表された当時でも山師などそう多くはなかったろうし、株式投資をしていた人も今ほどはいなかったはずだ。この映画に込められた教訓は、当時よりも今の方がより多くの人に突き刺さるのではないだろうか。

 旅に出たハンフリー・ボガート演じるドブズたちは黄鉄鉱を金と見間違える。ドブズたちの場合、案内役の爺さんのおかげですぐにそれが価値のないものだと分かるが、現代人はまずこのトラップに引っかかる。価値がありそうでないもの(イケイケ感だけの株、怪しげな草コイン、新しいだけのテクノロジーなどなど)に踊らされてしまうのだ。

 ドブズたちは誰も見向きもしない土地に向かわねばならない。金があると分かっているところには業者がすでに群がっていて、参入する余地がないからだ。一攫千金を狙うのならば、まだ誰もそこにお宝があると気付いていないところを探さねばならない株式投資でも(一攫千金を狙うなら)同じことが言える。

 ようやく金を見つけたドブズは仲間に分け前を奪われないかと疑心暗鬼に襲われる。幸いにして、個人でやれて銀行の口座に守られている株式投資ではあまりこういうことはなさそうだ。どちらかというと、この株は本当に価値があるのかという疑いとの戦いになるかもしれない。

 黄金掘りをいつやめるかという話をした時に、ドブズほどほどではなく大きな利益を得ようとする(最初は俺は貪欲じゃないと言っていたのに!)。だが、金は掘れば掘るほど採掘の効率が悪くなっていくから、大金を求めると時間がかかる。時間がかかれば、第三者に見つかって奪われる確率も高くなるし、運ぶのも大変になる。つまりリスクが高い。株式投資でもリターンとリスクの見極めは大きな問題だ。

 金は現金化までの道のりが大変だ。株式投資ではそれほど問題にはならないが、大量の株を処分する場合には売り方に気を使った方が良い場合もある。それに不動産投資では(たぶん)株ほど簡単に現金化できないし、この映画に描かれているほどではないにせよ現金化にも多少の難しさがある。

 そしてドブズは仲間たちと得た利益を何に使うのかについて語り合った時、享楽に費やすことしか思い浮かばない。自分が本当に何を求めているのかを知らないのだ。現代人にとってもこれは富を得ること以上に大切な問題だ。

 こうやって考えてみると、私はドブズのことを愚か者だと一笑に付すことができなくなる。私も彼と同じ罠にハマってきたし、もしかしたら今もハマっているのかもしれない。ドブズは私だ。私もドブズのとおりだったのだ。