たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その34 めまい

 高所恐怖症のために同僚を死なせてしまいリタイアした元警官が、霊に取り憑かれたという旧友の妻を尾行する。

 

 『めまい』は1958年の作品。監督はアルフレッド・ヒッチコック。主演はジェームズ・スチュアートキム・ノヴァク

理想の恋人の第一条件は死んでいること

 恋愛映画では理想の恋人像がしばしば描かれる。現実に存在する人間が理想的な存在であることはありえないので、そういうキャラクターはだいたい死ぬか最初から死んでいる。死によって思い出の中の存在となり、思い出の中にいる限りで彼(彼女)は理想の恋人であり続けることができるという仕組みである。なお、この「死」は現実的な死である必要はなく、もう二度と会うことはないだろうという気分にさえなればたぶん十分である。具体的には、『風立ちぬ』『秒速5センチメートル』『タイタニック』『機動戦士ガンダム』あたりが思いつく。

 この論理の必然的な結論として、これ系が出てくる物語の方向性は次のいずれかに分かれる。

  • 恋人が死によって思い出の中の存在と化す瞬間を描く。
  • 思い出に囚われていた人物が現実に回帰するまでを描く。

 しかし、恋人が死ぬまでで終わるのか、それともその先まで描くのかの差はあれど、死という事実をひっくり返すことはできないという点で両者は同じである。

 こんなことを書いていることからお分かりかと思うが、『めまい』もまた死んだ恋人を描く映画である。だが、物語の進む方向性は上に挙げたどちらとも異なる。『めまい』は死んだ恋人を復活させる映画である。「復活させようとする」ではなく「復活させる」であるし、魔法のある世界ではなく現代劇であることも申し添えておく。

 『めまい』の主人公ジョン・ファーガソンは、友人からの依頼で友人の妻マデリンを尾行することになる。お約束どおり、二人は恋仲になる。二人のラブがピークに達したところでマデリンは自殺してしまう。

 マデリンが死んだ後、精神病を患ってしまう主人公。退院後、町をふらついていると、マデリンによく似た女性ジュディを見つける*1。声をかけて関係を築いたところで、主人公はジュディにマデリンの服を着せ始める。そこに現れたのは紛れもなくマデリン。死んだと思っていた恋人がここに復活したのである!

マデリンもまた亡霊に取り憑かれていた

 ここでマデリンの話をしよう。

 主人公が友人からマデリンの追跡を依頼されたのは、マデリンが亡霊に取り憑かれているのではないかという疑いがあったからだ。病院に入院させるにあたり、行動記録をあらかじめ作っておきたいというのだ。

 町を徘徊するマデリン。墓→美術館→ホテルと巡回していく。調べると、浮かび上がるのはカルロッタ・バルデスという一人の女性。数十年前に富豪に娶られつつも、捨てられて自殺した哀れな踊り子だ。彼女の子孫がマデリンだったのだ。マデリンが投身自殺に至ったのも、カルロッタ・バルデスの亡霊の仕業だったわけである。

 絵画の中でのみ生き続ける美女カルロッタ・バルデスが、マデリンに重ね合わされている

 と、同時に、狂気に囚われていること自体がマデリンの魅力になっている。ヒロインのヒロインたる要件には第一に美しさ、第二に危うさがある。『マルタの鷹』『深夜の告白』『赤ちゃん教育』『ソフィーの選択』『風と共に去りぬ』……印象的なヒロインはだいたいなんらかの異常性を持っている。「この異常性を受け入れられるのは俺だけだ」「俺が守らなければこいつはだめになってしまう」そんな風に思わせてくれる女性こそ主人公の、そして観客の心を惹き付けるのである。(余談だが、美しさ、危うさの次に大事なのがちょろさであろう。)

高所恐怖症

 『めまい』は「死んだ恋人を復活させる映画」なので、この映画ではリプレイが大事なポイントになる。同じような人物、同じような場面が繰り返される。

 この点をさらに有効に機能させるため、主人公にはある特性が付与されている。それが高所恐怖症だ。

 映画は、犯罪者と思われる人物を主人公が追跡しているシーンから始まる。場所はビルの屋上。ビルからビルへ飛び移る際、主人公は転落しそうになる。それに加え、彼を救おうとした同僚を死なせてしまう。これがトラウマになって、主人公は高所恐怖症になってしまう。

 この高所恐怖症を治すためには、同じショックを与えなければならないということが冒頭で示される。つまり、トラウマのリプレイは、主人公にとってただの「思い出の再現」にとどまらない意味を持っているわけである。(ついでに言えば、死者への思いに取り憑かれてしまうのは、死者が恋人の場合に限った話ではないことも示唆されている。)

 ちなみに、これの副次的効果として、映画の冒頭で登場人物を殺すことができる。映画の冒頭で誰かが死ぬ(あるいは死にかける)ことで観客は一気に映画に引き込まれる。名作映画の多くが冒頭で人を殺している。とりあえず誰かしら殺しておけばつかみはOKと考えてもよいのではなかろうか。

 言うまでもなく、「死んだ恋人のそっくりさんに死んだ恋人の服を着せたら死んだ恋人が蘇ったような気になりました~!めでたしめでたし!」とはならない。この映画をエンタメとして成立させるためにどんでん返しが用意されているわけだが、このエンタメとしての仕掛けに高所恐怖症が深く関わってくる。

歪んだ欲望を全否定しないのがヒッチコック流?

 話は再び始めに戻って、生きている女性に死んだ女性の面影を重ね合わせるだけにとどまらず、嫌がっているのに同じ格好までさせたりとかってどうなんだろうとは多くの人が思うところであろう。

 凡庸な映画監督ならば、そのような歪んだ考えを抱いている主人公には改心してもらうか、さもなければ裁きを受けてもらおうとするところだ。しかし、ヒッチコックは違う。少なくとも、『裏窓』と『めまい』においては、主人公の歪んだ欲望は必ずしも全否定されない。主人公の歪みを否定せず、されど観客に気持ちよく楽しんでもらうためには、一捻りが必要だ。『裏窓』と『めまい』が傑作たる由縁はそこにあるような気がする。

 死んだ人間への思い(愛だけに限らない)を捨てきれない、好きな異性を自分色に染めたい、その人が他人色に染められているのは許せない……そうした感情は誰もが抱きうるものだ。それが人間という生き物なのである。であれば、いったい誰がそれを断罪などできようか。

*1:ちなみに、私には二人が似ているように見えなかった。メイクのなせる技なのか、実は私には白人女性の区別が付いていないのか……。前者だと信じたい。